学位論文要旨



No 121302
著者(漢字) 佐々木,智一
著者(英字)
著者(カナ) ササキ,トモカズ
標題(和) 原子間力顕微鏡によるクラフトパルプ繊維表面における微細構造の解析
標題(洋)
報告番号 121302
報告番号 甲21302
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3015号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物材料科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 飯塚,尭介
 東京大学 教授 空閑,重則
 東京大学 教授 磯貝,明
 東京大学 助教授 江前,敏晴
 東京大学 助教授 松本,雄二
内容要旨 要旨を表示する

緒言  クラフトパルプ表面には、ナノメートルスケールの微細構造(フィブリル)が存在することが知られている。しかし、分析手法が限られているために、フィブリルがどのような構造をしているのか未解決のままである。本研究では、このパルプ表面のフィブリルの構造を把握することを目指した。本研究の成果は、紙の形成時に起こるパルプ繊維間の接着を、ナノメートルのスケールで理解する上で特に有用な知見になると考えられる。

原子間力顕微鏡(AFM)は近年開発された顕微鏡であり、その分解能は電子顕微鏡に匹敵する。また、非導電性の試料を、雰囲気を選ばず直接観察出来る特徴を有する。さらに、フォースカーブ測定の機能を有し、観察場所における様々な物理量を測定することが可能である。

これまで、パルプや植物細胞壁の表面に存在するフィブリルの構造を研究する際、TEMやFE-SEMといった電子顕微鏡が中心的な手法であった。本研究では、ナノメートルスケールの構造を解析するポテンシャルがあると思われる原子間力顕微鏡 (AFM) を用いて、クラフトパルプ表面のフィブリルの構造をナノメートルスケールで解析することを試みるとともに、フォースカーブ測定を適用することによって、ナノメートルスケールでのクラフトパルプ表面の物性に関して新たな知見を得ることを目的とした。

フォースカーブ測定より算出されたクラフトパルプ繊維表面の変形しやすさがAFMコンタクトモードイメージングに及ぼす影響

AFMコンタクトモードによって、クラフトパルプ表面微細構造を水中で直接観察することを試みた。Fig.1に示すように大気乾燥(AD)パルプを大気中で観察したAFM像では、フィブリルが明瞭に確認できたのに対して、水中のパルプにではFig.2に示すような不明瞭な像しか得ることが出来なかった。この原因として、走査中に探針が試料表面に及ぼす力によって試料表面が変形しているのではないかと考えられる。AFMは試料の高さ情報を精度高く得られる顕微鏡であり、走査中に変形が起こった場合、得られる像の分解能が低下すると考えられる。実際に水中のクラフトパルプ繊維表面が変形しやすい性質を持つか否かについて、AFMフォースカーブ測定を適用して検討した。

フォースカーブ測定の結果,大気中のADパルプでは変形しにくい表面を持っていたのに対して、水中のパルプでは変形しやすい表面を持つことが分かった。さらに、臨界点乾燥(CPD)パルプの大気中観察も試みた。臨界点乾燥法は、乾燥時にかかる力が小さい乾燥法として用いられている。CPDパルプを大気中観察することによって、水中のパルプに関する何らかの情報が得られると期待できる。その結果、ある程度明瞭にフィブリルを確認出来る像が得られたが、フォースカーブ測定によると、大気中のCPDパルプ表面も水中のパルプ表面ほどではないが、変形しやすい性質を持つことが分かった。

さらに、各パルプ表面のZ方向におけるばね定数を算出すると、水中でのパルプ表面のばね定数は、イメージングに用いたカンチレバーのばね定数に近いことが分かった。AFMのイメージングでは、試料表面を走査した時のカンチレバーの反り撓みを検出することによって、試料表面の凹凸を画像化している。そのため、水中でのパルプ表面の変形しやすさは、得られるAFM像の分解能を低下させ、結果として像の明瞭さを低下させると考えられる。

変形の影響をより詳細に調べるために、トレース像とリトレース像に注目した。トレース像とは、左から右へ試料表面を探針で走査して得られる像を意味し、リトレース像は逆方向へ走査して得られる像を意味する。走査中に変形が起こっていれば、これらの同一性は低下すると考えられる。同一性を評価するための指標として、トレース像とリトレース像の各走査断面の形状を比較し、その相関係数を算出した。その結果、水中のパルプのトレース像とリトレース像は低い同一性を示し(相関係数が最も低い傾向を示し)、大気中のADパルプ像が最も高い同一性を示していた。大気中のCPDパルプ像の同一性ついては、水中のパルプ像と大気中のADパルプ像との中間的な傾向を示した。このことから、フォースカーブ測定によって算出されたパルプ表面のZ方向への変形しやすさと、トレース像とリトレース像の同一性には関係があるのではないかと考えられる。

走査中の変形を抑えた臨界点乾燥パルプ繊維表面の観察

これまでFE-SEM観察によって、10〜20nm幅のフィブリルがADパルプで観察され、30〜100nm程度の幅の太いフィブリルがCPDパルプで観察されるという報告が成されている。しかし、AFMでCPDパルプを大気中観察すると、FE-SEMで観察されるフィブリルよりずっと細い15〜25nmの幅のフィブリルが主に観察された。通常、AFM観察ではブロードニングエフェクトにより試料の横幅が本来の幅よりも大きく観察されることが原理上避けられない。一方、FE-SEM観察においても金属コーティングが必要であるので、AFM像と同様に、観察される試料の幅は本来のものよりは大きくなる。しかし、フィブリル幅が数nm〜数十nmであるとすると、ブロードニングエフェクトの効果の方がはるかに大きいと予想される。実際のCPDパルプのAFM大気中観察像とFE-SEM像のフィブリル幅の大小関係が予想とは逆になっているのは、前者には大きな変形が含まれているためではないかと考えられた。このことは、大きな変形を含まないADパルプのAFM大気中観察像中のフィブリルの幅と、FE-SEMで観察されるADパルプのフィブリル幅の間に、ほとんど差が認められなかったことから裏付けられた。

このような結果から、走査中に起こる変形を抑えてCPDパルプのAFM大気中観察像を得ることを試みた。その方法として、通常SEM観察に用いる金属コーティングが有効であった。金属コーティングしないCPDパルプのAFM像とコーティングしたCPDパルプのAFM像をFig.3とFig.4に示す。この場合、コーティングしないCPDパルプ像のフィブリル幅が15〜25nmであったのに対して、(FE-SEM観察と同じ条件の)金属コーティングしたCPDパルプ像のフィブリル幅は30〜100nmであった。これは、FE-SEMで観察されるCPDのフィブリルとほぼ同じ太さであった。コーティングしたCPDパルプ表面では、フォースカーブ測定の結果、コーティングしないCPDパルプよりも変形しにくい表面となっていることが分かった。

コーティングしたCPDパルプのAFM像におけるフィブリルが、コーティングしないCPD像のフィブリルよりずっと太く観察されるようになった理由として、コーティングの膜厚の影響を検討してみた。変形しにくい表面を持つと分かっているADパルプに、同条件のコーティングを施しフィブリル幅を比較した結果、コーティングしないADパルプのAFM像のフィブリル幅が10〜20nm程度であったのに対して、コーティングしたADパルプでは20〜30nmであった。このことより、コーティング膜厚によるフィブリル幅の増加は、CPDパルプで15〜75nmであるのに対して、ADパルプの場合では10nm程度しかないことになる。つまり、金属コーティングの膜厚だけで、CPDパルプのフィブリル幅の増加を説明できないことを意味している。

さらに詳細にコーティングの膜厚の影響を検討するために、コーティング量を1/5にして観察を行った。その結果、1/5 coated CPDパルプのAFM像ではコーティングしないCPDパルプのAFM像より明らかに太い20〜35nm程度のフィブリルが多く観察された(Fig.5)。コーティングしないCPDパルプのAFM像のフィブリルよりも太かった。一方、1/5 coated ADパルプのAFM像では、10〜20nm程度の幅のフィブリルが観察されたので、この場合の膜厚のフィブリル幅への寄与は小さいと考えられる。以上の結果は、もともとCPDパルプには太いフィブリルが存在したが、コーティングによって表面が固められ、AFMでも観察されるようになったことを示している。

これまで、凍結乾燥パルプのAFM大気中観察によって、フィブリル上に周期約10nmの周期構造が観察されるとの報告があるが、本研究で得たコーティングしたCPDパルプのAFM像においても、その周期構造がより明瞭に多くの箇所で観察されることが分かった(Fig.6)。

Fig.1 AFM image of an AD pulp fiber surface in air

Fig.2 AFM image of a pulp fiber surface in water

Fig.3 AFM image of a non-coated CPD pulp fiber surface in air. The image is 1μm ・ 1μm.

Fig.4 AFM image of a metal coated CPD pulp fiber surface in air. The image is 1μm ・ 1μm.

Fig.5 AFM image of a 1/5 metal coated CPD pulp fiber surface in air. The image is 1μm ・ 1μm.

Fig.6 Enlarged AFM image of metal coated CPD pulp fiber surface in air. The image is 500nm ・ 500nm. The arrowheads show clear periodic structures on fibrils

審査要旨 要旨を表示する

緒言

クラフトパルプ表面には、ナノメートルスケールの微細構造(フィブリル)が存在することが知られているが、分析手法が限られているために、それがどのような構造をしているのかは未解明のままである。本研究では、原子間力顕微鏡(AFM)による観察によって、このフィブリルの構造をナノメートルスケールで把握するとともに、フォースカーブ測定を適用することによって、完全漂白針葉樹クラフトパルプ最表面の物理的特性に関して新たな知見を得ることを目的とした。

AFMコンタクトモードによるクラフトパルプ表面の水中での直接観察では、十分に明瞭な像を得ることは出来なかった。この原因として、走査中に探針の試料表面に及ぼす力によって試料表面が変形したためではないかと考えられる。このことはフォースカーブ測定の結果,大気中のADパルプが変形しにくい表面を持つのに対して、水中のパルプは変形しやすい表面を持つことによって明らかとなった。

ついで、臨界点乾燥(CPD)パルプの大気中観察を試みている。臨界点乾燥法は、乾燥時に試料にかかる力が小さく、表面変形の少ない乾燥法として用いられており、CPDパルプの大気中観察によって、水中のパルプに準じた変形の少ないパルプ表面の情報が得られると期待された。その結果、ある程度明瞭なフィブリル像を得ることが出来た。しかし、フォースカーブ測定によると、大気中のCPDパルプ表面も水中のパルプ表面ほどではないが、変形しやすい性質を持つことには変わりがなかった。変形が得られるAFM像に及ぼす影響についてより詳細に検討するために、試料の同一部分を走査方向を変えて得たトレース像とリトレース像の間の同一性を、それぞれの像の走査断面形状の比較によって検討している。その結果、大気中のCPDパルプのトレース像とリトレース像の同一性としては、水中のパルプと大気中のADパルプの中間的な値を得ている。

走査中に起こる変形を抑えてCPDパルプの一層詳細なAFM像を大気中で得ることを目的として、通常SEM観察に用いられる金属(Pt/Pd)コーティングを行い、AFM観察時における表面の変形を抑える方法について検討している。その結果、コーティングしないCPDパルプで観察されたフィブリル幅が15〜25nmであったのに対して、予めFE-SEM観察と同条件で金属コーティングしたCPDパルプでは30〜100nmの幅を有するフィブリルが観察された。このフィブリル幅は、これまでにFE-SEMでCPDについて観察されているものとほぼ同程度であった。コーティングしたCPDパルプで太いフィブリルが観察された理由について検討した結果、コーティング膜厚だけでは説明できず、もともとCPDパルプに存在した変形しやすい太いフィブリルが、コーティングによって表面が固められた結果、AFM観察で確認されるようになったことによると結論している。さらに、コーティングしたCPDパルプ表面のフィブリル上に、周期約10nmの周期構造が存在することを、既往の報告よりも一層明確に確認している。

以上、本研究はパルプ繊維表面をAFMによって詳細に観察し、繊維表面最外層の微細構造を明らかにしたものであり、パルプ製紙科学にとって極めて有用な知見を提供するのみならず、セルロ−ス科学にとっても貴重な基盤的知見を得ており、木材科学の基礎および応用上有用である。よって、審査委員一同は、本申請者が博士(農学)に相応しいと認めた。

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