学位論文要旨



No 121598
著者(漢字) 圓谷,志郎
著者(英字)
著者(カナ) エンタニ,シロウ
標題(和) 炭素系室温強磁性体の物質設計および評価
標題(洋) Materials design and characterization of room-temperature carbon based ferromagnets
報告番号 121598
報告番号 甲21598
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第180号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 複雑理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 齊木,幸一朗
 東京大学 教授 鳥海,光弘
 東京大学 教授 藤森,淳
 東京大学 助教授 江尻,晶
 東京大学 助教授 島田,敏宏
内容要旨 要旨を表示する

背景

近年,C,H,Nの元素等のみからなる有機磁性体が注目されている.有機磁性体はいわゆる磁性元素を含まない磁性体という基礎科学的な興味のみならず,生体親和性の高さ,低コストであることなどの特長から複写機のトナーやMRI用造影剤などへの応用が期待されている.一般に有機磁性体はスピン密度が低く,そのためキュリー温度(Tc)が金属などの無機磁性材料に比べ低くなり,実用化への大きな障害となってきたが,最近になり,カーボン系物質においてTcが室温以上の可能性を示す実験成果が報告された.しかし,これらのカーボン系の磁性体は磁性発現の再現性が低いことや,磁性の起源が理論的に明らかにされていないことなどの問題が残されている.

カーボン系物質において磁性を発現させるには,一般に高温・高圧等の条件が必要であり,このような極端条件下の実験が構造や組成の制御を困難にしていると考えられる.そこで,高度に制御されたカーボン系磁性薄膜を作製し,その構造・電子状態を詳細に調べることによって,これらの磁性の起源に関する重要な知見を得ることができるのではないかと考えた.さらに,エピタキシヤル薄膜においては格子圧力の利用や欠陥密度の広範囲にわたる制御を行うことができるので,高圧・高温に相当する極限環境の実現も期待される.そこで,制御されたカーボン系磁性薄膜を作製し,表面科学的な手法を用いて,構造・電子状態・磁性の探索を行った.主としてグラファイト系,C60系物質の二系統の実験的

研究を行った.さらに,薄膜・表面磁性の評価のため,表面磁気光学カー効果(SMOKE)測定装置の製作を行った.

ナノグラファイトの電子状態と磁性

グラファイト構造のエッジには,zigzag端とarmchair端の2つの端があり(図1),このzigzag端においてのみフェルミ準位(EF)上にエッジ状態と呼ばれるバルクとは異なる電子状態が発現することが報告されている.また,エッジ状態は空間的にzigzag端に局在していることや磁性の起源となりうる局在スピンを伴うことなどが知られている.そこで,ナノメータスケールのグラファイト(ナノグラファイト)薄膜を作製し,その電子状態・磁性の探索を行った.グラファイトグレインの大きさを数nm程度まで小さくすることによってエッジの寄与が増大し,物性に何らかの影響を与えることが期待できる.

ナノグラファイトグレインはPt(111)基板上にベンゼンを吸着させ,その後アニールすることにより作製した.ベンゼン吸着量,吸着時の基板温度やアニール温度を変化させることによってグレインの直径を制御する方法を確立した.図2にグラファイトグレインのSTM像を示す.室温においてベンゼンガスを200L(1L=10-6Tlrr・sec)曝し,その後,850K,30分間のアニールによって,直径が約5nmの比較的粒径のそろったグラファイトグレインを成長した(図2-a).一方,800Kに保ったpt基板に15Lのベンゼンを曝すことによってサブミクロン程度の単層グラファイト(グラフェン)薄膜を作製した(図2-b).

作製したナノグラファイトの電子状態をUPS,偏光依存性C K-edge NEXAFS(near edge X-ray absorption fine structure)を用いて調べた.NEXAFS測定は高エネルギー加速器研究機構のPFBL-7Aにて行った.図3にナノグラファイト,グラフェン薄膜のEF付近のUPSスペクトル,差スペクトルを示す.ナノグラファイトグレインにおいて,EF近傍に新たな状態の発現が観察された.NEXAFSの測定結果を図4に示す.バルクグラファイトにおいて報告されているπ*由来のp2, p3ピークの低エネルギー側に新たな状態(p1)が観察された.このp1状態のエネルギーとEFとはほぼ一致している.以上のUPS,NEXAFSの結果から,EF近傍にバルクでは報告されていない新たな状態が発現していることが明らかになった.さらに,その状態は占有〜非占有状態にかけて存在していることが分かった.これらのことにより,ナノグラファイトグレインを成長させることによってエッジ状態由来と考えられる電子状態を発現させることに成功したこといえる.

次に,成長したナノグラファイトの磁性をSMOKE,MFMによって評価した.図5にSMOKE測定結果を示す.室温以上においてもカー強度(Ik)の変化が観察された.このようなIkの変化の再現性は4割程度である.一方,グレインの直径が数100nm以上のグラファイトにおいてはIkの変化やエッジ状態由来と考えられる電子状態は観察されなかった.以上の事から,グラファイトのエッジ状態と磁気的挙動との間の強い相関を明らかにすることが出来た.

酸素雰囲気中での光照射によるC60エピタキシャル薄膜の構造・電子状態・磁性の変化

C60系物質における室温磁性体としては,C60の高圧重合や酸素雰囲気下での光照射などが知られているが,これらの磁気的挙動における磁性の起源は定まっていない.しかし,最近になり高圧重合において,C60ケージの破壊寸前や破壊中において磁性発現の可能性が示されており,C60系物質の磁性とC60ケージの破壊との関係が注目されている.一方,C60薄膜に酸素雰囲気中で光照射を行うことによって,C60が分解されアモルファスカーボンへと変化することが知られている.そこで, C60エピタキシヤル薄膜に酸素雰囲気中で光照射し,結晶構造・電子状態・磁性を調べることによって,C60の破壊と磁性との関係を調べた.

C60薄膜はCu(111)基板上にエピタキシャル成長した.その後,10-4Paの酸素雰囲気中でレーザーを照射した.レーザーは532nmの可視光を用い,照射強度・時間を変化させた.

SMOKEを用いてレーザー照射後のC60薄膜の磁性を探索したところ,レーザー強度が100mW/mm2以上で5〜10分程度照射した直後にのみヒステリシス曲線が観察された(図6).さらに,次のような特異な磁気的挙動が観察された.

(A)ヒステリシス的挙動の減衰(数〜10分経過でIk〓0).

(B)Ik〓0の後,再度レーザー照射によりIk変化が回復.

(C)特徴(B)は2,3回程度のみ発現.

次にこれらの特異な磁気的挙動についての知見を得るため,光照射後の薄膜の電子状態および構造を調べた.

Fig.7に酸素雰囲気下でレーザー照射した後のC60薄膜のUPSスペクトルを示す.強磁性的挙動が観察されたレーザー強度,即ち100,W/mm2以上では,C60の蒸発が観察され.15分以上の照射で約1MLを残してC60が蒸発することが明らかになった.このことから,特徴(C)は,C60の蒸発に起因することが示唆される.また,ヒステリシスが観察された直後のUPSスペクトル(図7-ii)からは,HOMO,HOMO-1のピーク強度のわずかな減少および4.8eV付近において新たな状態の発現などが観察された.これらはC60からアモルファスカーボンへ変化する途上で見られる特徴である.以上のことから,高強度・短時間レーザー照射によってC60ケージが部分的に破壊されること,このような部分的な破壊と磁気的挙動との間の相関が示唆される.

次に,レーザーを短時間照射した後のC60薄膜の結晶構造・表面形状をRHEED, AFMを用いて評価した.図8にレーザー照射前後のRHEED像を示す.レーザー照射によって回折像のバックグラウンドの増大が観察された.一方,回折ストリークは照射前と変わらず観察され続けた.従って,短時間レーザー照射により結晶性は低下するものの,基本的な結晶構造を保ち続けることが分かった.また,レーザー照射前後のAFM像の変化を図9に示す.レーザー照射によって,グレインの凝集およびファセット的形状への変化が観察された.先行研究によって,C60薄膜に532nmのレーザーを照射することによってC60分子が2次元菱面体構造に光重合することが明らかにされている.AFM像のファセット型への変化は光重合による2次元的な構造への変化を反映していることが示唆される.

以上の構造・電子状態の実験から,酸素雰囲気下でのレーザー照射によって,基本的なC60ケージを残しながら,2次元菱面体構造の光重合およびC60の部分的な破壊が生じたことが考えられる.また,立体保護による長寿命カーボンラジカルの生成を考慮し,特徴(A),(B)発現の可能性に関しての考察も行った.

まとめ

本研究の特色は,薄膜成長,電子分光による電子状態の評価,SMOKE法による表面磁気状態の評価が超高真空中で一貫しておこなえるシステムを作製し,単〜数原子層における磁性の観測と構造・電子状態の観察を合わせることにより,カーボン系室温磁性体の磁性発現の起源を解明しようとする点である.現在までに得られている成果で独創性が高いものは以下が挙げられる.

1.ナノグラファイトグレインの粒径制御と単原子層ナノグラフェンの磁性観測,これによりエッジ状態と磁性の強い相関を初めて実験的に明らかにした.

2. C60系の室温磁性体におけるC60ケージの破壊と磁性との関係を実験的に明らかにした.

3. C60薄膜への酸素雰囲気下でのレーザー照射において,レーザー照射後数〜10分程度で減衰する新奇な磁気的挙動を観察した.

Fig.1: Two types of graphite edges represented by the redand blue bold Iines.

Fig.2: (a) An STM image of the nano-graphite grains (1.5μm×1.5μm,T=300 K,in air). The inset shows 50μm×50 nm STM image. (b) An STM image of a graphene film(1.5μm×1.5μm,T=300K,in air).

Fig.3: Near Fermi level UPS spectra of the nano-graphite and graphene film (upper panel).Difference spectrum between nano-graphite and graphene films (lower panel).

Fig.4: Polarization dependence of the C K-edge NEXAFS spectra of the nano-graphite grains.

Fig.5: Temperature-dependent change of SMOKE measurements for the sample with nano-graphite grains(left). Saturation Kerr intensity plotted against temperature (right)

Fig.6: (a) Time course of saturation Kerr intensity. Red arrows show the time irradiated the laser. (b) Evolution of magnetization curves of laser-irradiated C60/Cu(111)film.

Fig.7: Evolution of UPS spectra during the laser irradiation of 30ML-C60/Cu(111).

Fig.8: Evolution of RHEED pattern during growth of laser-irradiated C60 film. (i,ii) Cu(111)substrate, (iii,iv) C60 film with a thickness of 30ML, (v,vi) the C60 film which irradiated 100mW/mm2 laser for 5 min.

Fig.9: AFM images of the C60 films before and after laser irradiation. The area of the images was 5μm×5μm. (a) C60 film with a thickness of 30ML on Cu (111), (b) the C60 film which irradiated 100mW/mm2 laser for 5 min. The insets show 1μm×1μm images.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は7章からなる.第1章は序論であり,本論文の主題である「炭素系室温強磁性体の物質設計および評価」についての研究の意義が述べられている.また,第2章では本論文で着目した炭素系物質について,グラファイト系・フラレン系の物質を中心にその背景となるこれまで行われてきた様々な磁気的特性に関する研究について述べている.

第3章では,本研究で用いられた実験手法の原理について述べており,各手法によって得られる情報などについて,その基になる理論とともに述べている.また,第3章では,本研究で実際に測定などを行う際の詳細な実験手順・条件や,用いた装置の特徴などについても述べている.

第4章では,表面磁気光学カー効果(SMOKE)測定装置の製作について述べており,SMOKEの原理や本研究で採用した測定手法である光学遅延変調法の原理および詳細な測定方法・条件について述べている.本研究において製作したSMOKE測定装置は薄膜成長チェンバーおよび電子分光測定チェンバーと接続されており,全ての測定を超高真空下で行うことが可能となった.従って,高感度化測定に加えて磁性不純物の影響をほぼ排除した評価・分析が可能となった.

第5章では,グラファイト構造におけるエッジ(端)由来の電子状態「エッジ状態」と磁性との相関について述べている.本研究ではPt(111)基板上にベンゼンガスを前駆体として化学気相成長法(CVD法)によりグラファイトグレインを作製した.ベンゼンガスの曝露量および基板温度を調整することによって,グレインの粒径を制御する方法を確立した.また,紫外光電子分光(UPS),偏光依存性C原子K-edge吸終端近傍X線吸収微細構造(NEXAFS)およびSMOKE測定を組み合わせることによって,ナノメータスケールのグラファイトグレイン(ナノグラファイト)においてのみエッジ状態および磁気的挙動が発現することが明らかになった.このように,エッジ状態と磁性との相関を実験的に初めて明らかにすることに成功した.

第6章では,水素化C60(ハイドロフラレン)単結晶薄膜の作製およびその詳細な結晶構造・電子状態・磁性を反射高速電子線回折(RHEED),エネルギー損失吸終端微細構造(ELNES),UPS,SMOKEによって調べた結果について述べている.Cu(111)基板上にC60単結晶薄膜をエピタキシャル成長させた後,原子状水素を曝露することによってハイドロフラレン単結晶薄膜を作製した.測定した占有・非占有軌道の電子状態と分子軌道計算との結果からT-C60H36の形成が明らかになった.さらに詳細なRHEED解析により,作製した薄膜はT-C60H36バルク結晶では報告されていない準安定構造であることが明らかになった.また,SMOKE測定から,作製した薄膜のほぼ5割において強磁性的な挙動が室温以上においても得られた.本研究ではこれまで必要とされてきた高圧・高温等による試料作製方法を用いることなく強磁性的な挙動を観察することに成功した.また,詳細な電子状態の観測により結晶構造のみならず分子構造についての知見を得ることが出来た.

第7章では,C60単結晶薄膜に酸素雰囲気中で光照射したときの構造・電子状態の変化および磁気状態について調べた結果について述べている.本研究ではレーザ光照射直後においてのみ現れる特異な強磁性的挙動が観察された.X線光電子分光(XPS),UPS,RHEEDの測定から,酸素雰囲気中での光照射によって,60単結晶薄膜は基本的な結晶構造を留めたままC60ケージの破壊およびC60分子の重合などによるsp3の混在状態を生じることを示唆する結果が得られ,これらのフラレンケージの破壊・重合の磁性への寄与を明らかにすることが出来た.

以上述べたように,本論文では,表面科学的手法・薄膜作製技術により制御された炭素系磁性薄膜を作製しその構造・電子状態・磁性を探索することにより,炭素系物質の磁性の起源を明らかにした.これらの結果は,炭素系物質が固有の磁気状態を有している事を示唆するものであり,炭素磁性という新たな学術分野の創成に寄与し得る.

なお,本論文のうち第4-7章は,斉木幸一朗氏,木口学氏,吉川元起氏,池田進氏,中井郁代氏,近藤寛氏,太田俊明氏との共同研究であるが,論文提出者が主体となって実験,解析,考察を行ったものであり,論文提出者の寄与が十分であると判断する.したがって,博士(科学)の学位を受けるのに十分な資格を有すると認める.

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