学位論文要旨



No 121600
著者(漢字) 竹本,享史
著者(英字)
著者(カナ) タケモト,タカシ
標題(和) MOSFETを用いた2次元ニューロンモデルの設計と実装に関する研究
標題(洋) A Study on Design and Implementation of Two-Dimensional MOSFET Neuron Model
報告番号 121600
報告番号 甲21600
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第182号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 複雑理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 合原,一幸
 東京大学 教授 鳥海,光弘
 東京大学 教授 岡田,真人
 東京大学 助教授 鈴木,秀幸
 東京大学 助教授 杉田,精司
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

脳の優れた情報処理能力を工学的な応用に生かすことは脳科学の大きな目標であり、脳型情報処理システムの構成理論とそのハードウェア化の基盤技術の確立を目指す上で、神経細胞の機能を模倣した電子回路を設計することは重要である.従来の設計方法としては、生体神経の特定の性質に着目して、同様の性質を再現するPhenomenological designと、神経膜のイオンチャネルのダイナミクスを可能な限り忠実に再現するConductance-based designの2種類が知られている.最近、電子回路ニューロンの設計に位相解析や分岐解析といった数理的手法を取り入れたMathematical-model-based designが提案された(Kohno et al.,2005).この方法では、ハードウェアの特性を効率よく取り込んだ回路設計が可能なため、生物ニューロンに近く、しかも回路規模が小さいニューロン回路が実現できる.

本論文では,Mathematical-model-based designに従い、ニューロンを2変数の単純な位相構造で表現したMOSFETによる電子回路ニューロンモデルを提案する.Hodgkinによると、発火特性の違いから生物ニューロンはクラスI・クラスIIの2つのクラスに分類される.提案する回路は、数個の回路パラメータを変更することで、クラスI、狭いチャンネルと呼ばれる位相構造を持つクラスI*、クラスIIなど様々なタイプのニューロンモデルを実現できる.本モデルの個別部品による実装を行い、提案回路が生体ニューロンの持つ性質を正しく継承していることを理論・実験の両面から評価した.また数値計算によって、本回路をギャップジャンクションで結合した場合、あるパラメータ領域で様々な時空間カオスが生じることを確認した.

MOSFETを用いた電子回路ニューロンの設計

ニューロンのクラスの分類は、モデルの次元に依存しない概念であるが、2変数モデルで議論できることが知られている.ここでは数理的に扱いやすいこの2変数縮約モデルに議論を限定する.2変数縮約モデルは、膜電位Vと(縮約された)不活性化変数μで表現され、その力学的挙動はこの2変数のナルクラインによって特徴付けられる.多くの場合、Vのナルクラインは(V,μ)の相空間上で逆N型となり、一方、μのナルクラインはクラスIニューロンでU型であり、クラスIIニューロンでは直線的になる.クラスIニューロンの中に、発火の閾値近傍で、相空間の2つのナルクラインの間に狭いチャンネルと呼ばれる幾何構造が出現されるものがあり、これはクラスI*と呼ばれる(Fujii et al., 2004).

提案する2次元ニューロンモデルは、標準的なCMOSプロセスで集積回路化可能なエンハンスメント型MOSFETを用いて設計する.使用するMOSFETの多くは、低消費電力・数理モデル構築の容易さなどの利点から、ドレイン電流がゲート電圧に対し、指数関数的な依存性を持つサブスレッショルド領域で動作させる.図1に、電子回路ニューロンモデルのブロック図を示す.本モデルは逆N型非線形回路(図2)・U型非線形回路(図3)・線形性の良い電圧電流(V-I)変換器の3つの主要回路を組み合わせることで実現する.各回路ブロックの出力電流が入力電圧に対して陽に関数で書き出せることは、数理的な解析を容易にする.この電子回路ニューロンの回路方程式は以下のように書ける.

ここで、電圧Vは膜電位、電圧μは不活性化変数を表現し、kはV-I変換器の変換係数、f(V)とg(V)はそれぞれ、逆N型非線形回路とU型非線形回路の出力電流を示す.各非線形回路は、主にdifferential pair、CS-Amplifier、VI変換器で実現し、その入出力特性は抵抗値を変えることによって容易に変更できる設計とした.この柔軟性によって、本モデルは様々なタイプのニューロンモデルを実現できる.本論文では、本回路が数個の回路パラメータの変更のみで、(1)J型のμのナルクラインを持つクラスI、(2)U型のμのナルクラインを持つクラスI*、(3)I型のμのナルクラインを持つクラスIIの3モードを実現できることを示す.

ニューロンのクラスの分類は、数理的な見地からは、クラスIではサドル・ノード分岐、クラスIIではサブクリティカルホップ分岐という異なる反復スパイク発生機構に反映することが知られている(Ermentrout et al.,1989).各モードにおける分岐構造の違いは、分岐解析ソフトXPPAUTを用いて確認し、提案回路がクラスI ・クラスIIの発火特性機構を実現していることを確認した.

提案回路の個別部品を用いた実装と動作特性

提案回路を互いにコンプリ(特性の揃ったN型P型FET)である個別部品(2SK1133/2SJ166)を用いて実装し、動作特性の検証を行った.図4に提案回路の位相構造例を示す.各モードにおける回路パラメータは、理論モデルの位相構造と類似するように設定した.

過去の電子回路ニューロンの研究では、実装した回路の動作測定について、あまり詳細な数理的解析が行われていない.設計したニューロン回路が生体ニューロンの性質を再現できることを確認するために、(a)神経興奮の特徴、(b)クラスI,クラスIIの異なるスパイク発生機構、(c)クラスIIにおける周期刺激に対するカオス的応答、の3つの性質について検証した.

(a)の神経興奮の条件は、静止状態・閾値・活動電位・不応期の存在よって特徴付けられる(Zeeman,1972).この性質は、単発刺激・2重刺激を電子回路ニューロンに与えることで確かめることができる.図5にクラスIモードにおける単発刺激に対する応答例を示す.単発刺激の強度がある値を越えると、突然高いピーク値を持った活動電位が観測され、これは閾値の存在を示唆している.また2重刺激を与えることで、不応期の存在や、不応期から提案回路が回復する様子も観測された.同様な特性はクラスI*・クラスIIでも観測された.

次に(b)のニューロンの発火特性の違いは、分岐パラメータとみなした定常電流を提案回路に与えることで観測できる.入力電流を大きくしていくと、提案回路はある閾値において周期発火を生じ、クラスI・I*モードではその開始時の発火周波数が非常に低いのに対し、クラスIIでは非常に高い頻度で発火することが確認できた.

ヤリイカの巨大軸索やHodgkin-Huxley方程式のようなクラスIIのモデルに、周期刺激を与えると、あるパラメータ領域で、カオス的な応答が得られることが知られている.単純な入力に対するこのような複雑な応答が、脳の符号化に関して重要な役割を果たしている可能性が指摘されている.提案回路に周期刺激を与えたところ、ある領域で図6に示すような非周期的な応答が観測された.各刺激パルスの立下り付近で、この時系列をサンプリングし、リターンプロットを取ると、図7に示すようなはっきりとした曲線が現れた.従ってこの非周期的応答はランダムなものではなく、決定論的なものであると考えられる.またLyapunov指数を見積もったところ、1.589±0.004と正の値が得られた.よって、この非周期的な応答はカオスであることが示唆される.

以上の実験結果から、提案する電子回路ニューロンモデルが、生物ニューロンの特性をよく再現していることが確かめられた.

1次元ギャップジャンクション結合系における時空間カオス的挙動

近年、大脳新皮質における抑制性細胞間において、膨大な量のギャップジャンクション(GJ)と呼ばれる電気結合が報告され、GJで結合された系が脳の符号化・情報表現に果たしている機能的役割について注目が集まっている.Fujiiらはclass I*ニューロンをGJで結合すると、あるパラメータ領域で時空間カオスパターンが生じると報告している.今回、提案回路を1次元的に20個並べ、互いに隣の細胞とGJ結合を持った空間的配置を考え、各モードにおけるシステムレベルの挙動を数値計算により検証した.結合の強度はすべて一様とし、またGJによる電気結合は線形抵抗で表現した.

図8-10に、各モードにおける結合強度と最大リアプノフ指数の関係を示す.図に示すように、ネットワークの挙動は結合強度に依存して変化する.クラスI*モードでは、他のモードに比べ、非常に高い最大リアプノフ指数を示す領域が、広い範囲で存在することがわかる.この領域では、時刻0における各コンデンサーのわずかな電荷の違いが、時刻が進むにつれて、やがて時空間カオス的な挙動へと移行する過程が観測される.

観測されるカオスパターンの中には、全同期した状態と非同期の状態の遷移を不規則に繰り返す挙動も見られた(図11).このような現象は、Fujiiらの研究でも観測され、大脳新皮質のダイナミクスの研究に新たな側面を切り開く可能性がある.またこの現象は、擬アトラクター間を遷移するカオス的遍歴として数学的に理解できる可能性があるが(I.Tsuda et al.,2004)、高次元系における時空カオスは複雑であり、さらなる理論研究が必要である.

結論

本研究では数理的手法を回路設計に導入することで、MOSFETによりコンパクトに実装できる、生物ニューロンに近い性質を持つ2次元ニューロンモデルを提案した.本モデルを個別部品により実装し、生体ニューロンの持つ性質を正しく再現していることを確認した.また、数値計算によってギャップジャンクション結合系での時空カオスを確認した.

図1: 電子回路ニューロンのブロック図.

図2: 逆N型非線形回路.

図3: U型非線形回路.

図4: 提案回路のμ-V位相構造.点線が理論値、実践が実験値.赤線がVナルクライン、緑線、青線、水色線がそれぞれ、クラスI、I*、IIのRナルクラインを示す.

図5: クラスIモードにおける単発刺激に対する応答.

図6: 周期刺激に対する非周期的応答.

図7: 非周期的応答時のリターンプロット図8:クラスI*モードにおける最大Lyapunov指数と結合強度の関係.

図9: クラスIモードにおける最大Lyapunov指数と結合強度の関係

図10: クラスIIモードにおける最大Lyapunov指数と結合強度の関係

図11: GJ結合系で観測された全同期と非同期のカオス的な遷移

審査要旨 要旨を表示する

脳の優れた情報処理能力を工学的応用に生かすことは脳科学の大きな目標のひとつであり、脳型情報処理システムとそのハードウェア化の基盤技術の確立を目指す上で、神経細胞の機能を模倣した電子回路を設計することは特に重要である。本研究では数理的手法を回路設計に導入することで、MOSFETを用いてコンパクトに実装できる、生物ニューロンに近い性質を持つ2次元系ニューロンモデルを提案した。提案回路は数個の回路パラメータの変更のみで、容易にクラスI・II、さらに最近提案されたクラスI*といった様々なタイプのニューロンモデルを実現でき、過去の研究と比べて汎用性に優れている.さらに、本モデルの個別部品による実装を行い、提案回路が生物ニューロンの特性をよく再現していることを確かめた。また、本モデルを用いてギャップジャンクション(GJ)結合系の時空間ダイナミカル構造を、数値解析により明らかにした。

本論文は、"A Study on Design and Implementation of Two-Dimensional MOSFET Neuron Model"(和文題目MOSFETを用いた2次元ニューロンモデルの設計と実装に関する研究)と題し、全7章より成る。

第1章では、シリコンニューロンに関する研究背景や意義、そして提案回路の主な特徴について述べている。シリコンニューロンを設計する際、ベースとなる数理モデル、使用する電子デバイス、そして設計手法を決める必要があるが、本回路は各要因に対して、2変数縮約モデル、MOSFET、Mathematical-model-design methodを採用している。他の選択肢と比較しながら、これらの決定に至った理由を述べることで、過去の研究との関連、及び本研究の位置付けを明確にしている。

第2章では、ニューロンの発火特性の違いによるクラスの分類や、提案する電子回路ニューロンモデルのベースとなる2変数縮約モデルの説明を行っている。2変数縮約モデルでは、その力学的挙動を2変数のナルクラインで、相平面上で視覚的に特徴付けられるため、数理的に扱いやすく、本研究の目的である汎用性と実装の容易さの条件を満たす最適なモデルであると考えられる。また、この章では、本回路が再現できる重要なモードの一つであるクラスI*モードに関する説明も行っている。

第3章では、提案回路の設計方法及び動作特性について示されている。提案する2次元モデルは、標準的なCMOSプロセスで集積回路化可能なエンハンスメント型MOSFETを用いて設計した。使用するMOSFETの多くは、低消費電力・数理モデル構築の容易さなどの利点から、ドレイン電流がゲート電圧に対して、指数関数的な依存性を持つサブスレッショルド領域で動作させる。本回路は、逆N型非線形回路、U型非線形回路、線形性の良い電圧電流変換器の3つの主要回路を組み合わせることで実現し、数理的な解析が容易になるように、各回路ブロックの出力電流が入力電圧に対して陽に関数で書き表せるように設計されている。また、U型非線形回路は、多様なナルクラインを実現できるように工夫がなされており、数個の回路パラメータの変更のみで、クラスI、II、I*の3つの主要モードが実現できることが示されている。

第4章では、設計した電子回路ニューロンの個別部品による実装方法及び実験結果を示している。過去の研究では、実装したシリコンニューロンの動作特性について、あまり詳細な数理的な解析が行われていない。そこで本研究では、検証項目として、(a)Zeemanの定義する神経興奮の特徴、(b)クラスI,クラスIIの異なるスパイク発生機構、(c)クラスIIにおける周期刺激に対するカオス的応答、の三つの重要な生物ニューロンの特徴を上げ、第3章で紹介した3つのモードに関して、数値解析および回路実験の両面から詳細な動作検証を行った。検証の結果、実験結果が理論モデルをよく再現していることが明らかとなった。従って、提案回路が生物ニューロンの特徴をよく再現しているといえる。

第5章では、分岐解析ソフトXPPAUTを用いて、各モードにおける興奮発生メカニズムが正しく再現できていることを明らかにした。ニューロンのクラスの分類は、クラスIではサドル・ノード分岐、クラスIIではサブクリティカルホップ分岐という異なる反復スパイク生成機構に対応することが知られており、本モデルでも同様な分岐構造を持つことが示されている。また、単発刺激による影響に関して、位相解析を行うことで、各モードの閾値のメカニズムの違いについても明確にした。

第6章では、提案回路を1次元的に2 0個並べ、互いに隣りの細胞とGJ結合を持った空間的配置を考え、各モードにおけるシステムレベルの挙動を数値計算により検証した。その結果、クラスI*のモードにおいてのみ、ある結合強度領域で時空間カオスが生じることを確認し、さらにより弱結合領域において、同期発火が起こることを発見した。PRCを用いた解析により、この同期発火のメカニズムを明確にした。

第7章では、本回路が過去のシリコンニューロンと比べ、汎用性や回路規模において優れていることを明確にし、さらに本回路の応用性や今後の課題についてまとめている。

以上のように、本論文は電子回路ニューロンの設計及び実装に関して大きな成果を上げ、複雑理工学上貢献するところが大きい。なお、本論文第3章、4章、5章、6章は河野崇および合原一幸との共同研究であるが、論文提出者が主体となって問題を提起しその結果の導出を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(科学)の学位を授与できると認める。

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