学位論文要旨



No 121727
著者(漢字) 長島,佐代子
著者(英字)
著者(カナ) ナガシマ,サヨコ
標題(和) レドックス反応により記憶能を制御可能な分子光メモリ、フェロセニルスピロピランの開発
標題(洋) Creation of a molecular photo-memory, ferrocenylspiropyran, with the memory depth controllable by the redox reaction
報告番号 121727
報告番号 甲21727
学位授与日 2006.06.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4900号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西原,寛
 東京大学 教授 梅澤,喜夫
 東京大学 教授 塩谷,光彦
 東京大学 助教授 市川,淳士
 東京大学 助教授 鍵,裕之
内容要旨 要旨を表示する

【序】

 照射する光の色によって分子の構造や色を可逆に変換できるフォトクロミック分子は,分子サイズレベルの光記憶材料として注目され,これまで数多くの研究が行われてきた.このフォトクロミズムの性質を持つコンポーネントと他の物性を持つコンポーネントを一つの分子内に組み込んでそれらの性質を連動できれば,さらに多彩な機能を引き出すことができると考えられる.本博士課程では,そのような多重機能性マルチコンポーネント型分子を創ることを目指し,フォトクロミック分子コンポーネントとしてスピロピラン,レドックス分子コンポーネントとしてフェロセンを共役結合したフェロセニルスピロピランに関する研究を行った.スピロピラン類は紫外光と可視光の照射により閉環体(スピロピラン,SP)と開環体(メロシアニン,MC)の間を可逆に変換することが知られているが,開環体が分子内において□共役系でドナー部位とアクセプター部位が結合した構造をとり,大きな双極子モーメントを有しているため,熱力学的な安定形はその骨格上の置換基のドナー・アクセプター効果により大きく左右される.スピロピランにフェロセンを結合して電子的に相関させ,レドックスを利用することで,光生成するメロシアニン体の双極子の安定性を変化させ,光異性化挙動の制御,特に,二つの安定状態間における熱的安定性の逆転を起こさせることで発現するON/OFF応答持続性,つまり記憶の「深さ」の制御ができることを見出した.

【合成】

 amine体から得られた5-ferrocenyl-1,3,3-trimethyl-2-methyleneindolineを5-nitro-salicylaldehydeとメタノール中で反応させることにより,フェロセニルスピロピラン(6-nitro-5'-ferrocenyl-1',3,3'-trimethyl-spiro-[2H-1-benzopyran-2,2'-indoline], Fc-SP)を新規に合成した.

【光応答性】

 閉環体Fc-SPは各種有機溶媒中において,紫外光照射により開環体Fc-MCへと,可視光照射により開環体から閉環体へと異性化反応を可逆に起こした(Fig.1).メタノール中では光定常状態において,異性化効率が75%であることが1H NMRによって見積もられた.Fc-MCの吸収極大波長は溶媒に強く依存し,他のスピロピラン類と同様,溶媒のルイス酸性度を示すパラメーターET(30)と良い相関を得ていることがわかった(Fig.2).Fc-MCはフェロセンの置換していないスピロピランの開環体MCに比べて吸収極大値が低エネルギー側にシフトしていることは,フェロセンのドナー性により開環体が共鳴安定化されているためと考えられる(Scheme 2).またフェロセンを導入したことによって,各種溶媒において開環体がフェロセンの置換していないスピロピランより安定になり,かつメロシアニン体の熱力学的安定性が増加し,熱による戻りの異性化反応速度に対する溶媒効果が小さくなった.

【酸化還元を連動させた光異性化挙動-浅い記憶と深い記憶】

 Fc-SPの酸化還元挙動について観察すると,ジクロロメタン中サイクリックボルタモグラムにおいて-0.03VにFe(III/II)に由来する2価3価の可逆な1電子酸化反応を示した.そこでFc-SPのジクロロメタン溶液に,フェロセン部位の鉄原子を酸化するのに適当であるジクロロフェロセニウム塩を酸化剤として1当量加え,フェロセン部位における鉄を2価から3価に酸化し,その後紫外光照射を行うと,近赤外領域の吸収が消失したことから開環体が100%生成していることがわかった(Fig.3(a)).この異性化効率は酸化前の75%に比べて向上しており,フェロセン部位が還元体のときよりも酸化体のときの方が光定常状態における開環体の生成比は高くなっていた.実際に,Fc-SPに紫外光を照射して,開環体を十分生成させた後,酸化すると,近赤外領域に吸収が現れるが,さらに紫外光を照射すると,その近赤外領域の吸収が消失し,メロシアニン体のさらなる生成が起こることも確認されている.この開環体(MC状態)はいかなる波長の光照射を行っても閉環体(SP状態)への異性化反応は起こらず,また熱による戻りの異性化反応も起こらなかった(Fig.3(b)).つまりフェロセン部位が還元状態のときには,MC状態は簡単にSP状態に戻すことができるが(「浅い」記憶),フェロセン部位を酸化体にすることで,MC状態が消えない状況(「深い」記憶)を作り出すことに成功した.この溶液にフェロセニウム部位の鉄原子を還元するのに適当であるデカメチルフェロセンを還元剤として1当量加えると,フェロセニウム部位における鉄が3価から2価に還元され,還元体の光定常状態へと戻り,その後可視光照射または熱によって元のFc-SPへと戻ることがわかった.つまり酸化体と還元体の異性化効率や安定性の違いを利用し,100%の効率での光異性化を実現することができ,酸化還元を制御するだけで可逆に光異性化をコントロールする単分子系を構築することができた(Scheme 3).

【電気化学を用いるイオン伝導性ポリマーフィルム内での光異性化制御】

 記憶媒体への応用として,ポリマーフィルム内におけるFc-SPの光応答性,酸化還元特性についての検討を行った.ポリマーフィルムとしては軟質ポリ塩化ビニルフィルム(膜厚100μm)を用い,Fc-SPのジクロロメタン溶液を適量添加し,溶媒留去を行った後,2枚のITO基板で挟み,測定に用いた.

 Fc-SPはポリマーフィルム内において紫外・可視光照射によって淡黄色と青紫色間での色変化が起こり(Fig.4),溶液内と同様に可逆な異性化反応を示した.また電解質としてtetrabutylammonium tetrafluoroborateをポリマーフィルムに取り込ませ,ポリマーフィルムを挟んでいる2枚のITO電極間にかける電圧によって,溶液内と同様に,Fc-SPのフェロセン部位の鉄原子における酸化還元反応を可逆に起こすことができることを確認した.そこで,ポリマーフィルム内での酸化還元を連動させたFc-SPの光応答性について検討した.酸化還元反応と連動させていない場合と連動させた場合での,視覚的な比較をより行いやすくするため,同一基板内での観察を行った.片方のITO基板に切れ込みをいれることによって,同時に同基板内で,片側だけに電圧をかけることができる.左側のみ酸化状態を経由できるようにしたところ,Fig.5に示した結果が得られた。まず紫外光照射を行うと,左右共に開環体が生成し(Fig.5(b)),その後ポリマーフィルムを挟んでいる2電極間に1Vの電圧をかけると,フェロセン部位における鉄原子が2価から3価へと酸化され,左側のフィルムは開環体が熱的に安定に存在し(Fig.5(c)),また可視光照射によっても閉環体への異性化反応が起こらなかったが,右側のフィルムにおいては.開環体から閉環体への戻りの異性化が起こった(Fig.5(d)).その後2電極間の電圧を0Vにすることでフェロセニウム部位における鉄を3価から2価へと還元すると(Fig.5(e)),左側のフィルムにおいて開環体は熱または可視光照射によって元のFc-SPへと戻った(Fig.5(f)).つまりポリマーフィルム内においても酸化還元反応を利用することで開環体の安定性を制御することができた.このことは,Fc-SPが記憶の消去の可否を制御できる光記憶材料として有効であることを示している.

【結論】

 スピロピランとフェロセンを分子内で電子的に連動させることで,溶液およびポリマーフィルム内においてレドックスによる光異性化挙動の制御に成功し,単一分子で浅い記憶と深い記憶を変換できるフォトクロミック物質を初めて開発した.

Scheme 1

Fig.1. UV-vis absorption spectral change of Fc-SP in CH2Cl2 upon irradiation at 365nm.

Fig.2. Plots of the visible absorption maximum wavenumbers for MC (o) and Fc-MC (x) versus solvent parameter, ET(30). 1: CH2Cl2, 2: CH3CN, 3: C2H5OH, 4: CH3OH.

Scheme 2

Fig.3. UV-vis spectral changes of Fc-SP in CH2Cl2 upon addition of 1.0 eq. of [Fe(η5-C5H4Cl)2]PF6 and then upon irradiation at 365 nm(a). Decreases in absorbance at λ(max) of MC forms at 20℃ in CH2Cl2 before and after oxidized with [Fe(η5-C5H4Cl)2]PF6 and then irradiated with 365-nm light to reach the PSS(b).

Scheme 3

Fig.4. Color changes of Fc-SP in poly(vinyl chloride) upon irradiation at 365 nm.

Fig.5. Optical changes of Fc-SP/PVC films (a) upon irradiation at 365 nm (b), after upon addition of 2V (c), after upon irradiation at 546 nm (d), and after upon addition of 0V (e) and left as it is (f).

審査要旨 要旨を表示する

 本論文はフェロセンの酸化還元能とスピロピランの可逆な光異性化挙動を組み合わせた光・電子応答性分子系の構築について示したものである。4章からなり、第1章は研究の背景と目的、第2章は新規なフェロセニルスピロピランの合成と溶液中での光科学および電気化学挙動、第3章は高分子固体電解質中でのフェロセニルスピロピランの光化学および電気化学挙動について述べ、第4章において研究成果のまとめと展望について述べている。以下に各章の概要を記す。

 第1章では本研究の背景と概念について述べている。現在までに光応答を示すスピロピランを接合させた金属錯体は数例報告されているが、その酸化還元応答に着目した例は無かった。また、フェロセンを錯体部位としたフォトクロミック錯体は光応答部位として、その異性化に伴って立体的に大きく構造変化するアゾベンゼンの研究が行なわれているのみであった。そこで本研究では、スピロピランにフェロセンを結合して電子的に相関させ、レドックスを利用することができるフェロセニルスピロピランを新規に合成した。この分子においては光生成するメロシアニン体の双極子の安定性を変化させ、光異性化挙動の制御、特に、二つの安定状態間における熱的安定性の逆転を起こさせることで発現するON/OFF応答持続性、つまり記憶の「深さ」の制御が期待できる。

 第2章ではフェロセニルスピロピランの合成と溶液物性について述べている。π共役系で直接接合した有機溶媒中でのamine体から得られた5-ferrocenyl-1、3、3-trimethyl-2-methyleneindolineを5-nitro-salicylaldehydeとメタノール中で反応させることにより、フェロセニルスピロピラン(6-nitro-5'-ferrocenyl-1'、3、3'-trimethyl-spiro-[2H-1-benzopyran-2、2'-indoline]、Fc-SP)を新規に合成した。閉環体Fc-SPは各種有機溶媒中において、紫外光照射により開環体Fc-MCへと、可視光照射により開環体から閉環体へと異性化反応を可逆に起こした。メタノール中では光定常状態において、異性化効率が75%であった。Fc-MCの吸収極大波長は溶媒に強く依存し、他のスピロピラン類と同様、溶媒のルイス酸性度を示すパラメーターET(30)と良い相関を得ていることがわかった。Fc-MCはフェロセンの置換していないスピロピランの開環体MCに比べて吸収極大値が低エネルギー側にシフトしていることは、フェロセンのドナー性により開環体が共鳴安定化されているためと考えられる。

Fc-SPの酸化還元挙動について観察すると、ジクロロメタン中サイクリックボルタモグラムにおいて-0。03V (vs. Fc/Fc+)にFe(III)/Fe(II)に由来する2価3価の可逆な1電子酸化反応を示した。そこでFc-SPのジクロロメタン中でジクロロフェロセニウム塩を1当量加えることで酸化を行い、その後紫外光照射を行った。すると、開環体が100%生成しており、フェロセン部位が還元体のときよりも酸化体のときの方が光定常状態における開環体の生成比は高くなっていた。この開環体(MC状態)はいかなる波長の光照射を行っても閉環体(SP状態)への異性化反応は起こらず、また熱による戻りの異性化反応も起こらなかった。つまりフェロセン部位が還元状態のときには、MC状態は簡単にSP状態に戻すことができるが(「浅い」記憶)、フェロセン部位を酸化体にすることで、MC状態が消えない状況(「深い」記憶)を作り出すことに成功した。その後デカメチルフェロセンを1当量加えることで還元反応を行い、続いて可視光照射または熱によって元のFc-SPへと戻ることがわかった。つまり酸化体と還元体の異性化効率や安定性の違いを利用し、100%の効率での光異性化を実現することができ、酸化還元を制御するだけで可逆に光異性化をコントロールする単分子系を構築することができた。

 第3章においては、記憶媒体への応用として、ポリマーフィルム内での酸化還元を連動させたFc-SPの光応答性について検討した結果について述べている。ポリマーフィルムとしては軟質ポリ塩化ビニルフィルム(膜厚100μm)、電解質としてテトラブチルアンモニウムテトラフルオロボレート塩を用いた。すると溶液内と同様の反応が見られ、ポリマーフィルム内においても酸化還元反応を利用することで開環体の安定性を制御することができた。このことは、Fc-SPが記憶の消去の可否を制御できる光記憶材料として有効であることを示している。

 第4章では、以上の結果を総括し、今後の研究展望を述べている。

 以上、本論文では、単一分子で浅い記憶と深い記憶を変換できるフォトクロミック物質を初めて開発した。本博士論文において解明された新規なフォトクロミック現象は、機能材料、分子素子の科学を大きく進展させると期待される。なお、第2、3章は西原 寛、村田昌樹との共同研究であり、一部は既に学術雑誌として出版されたものであるが、論文提出者が主体となって実験および解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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