学位論文要旨



No 123144
著者(漢字) 佐久間,元基
著者(英字)
著者(カナ) サクマ,モトキ
標題(和) 糖尿病診断マーカー物質が糖代謝に与える影響の解析
標題(洋)
報告番号 123144
報告番号 甲23144
学位授与日 2008.02.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第789号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 久保田,俊一郎
 東京大学 教授 石井,直方
 東京大学 准教授 山田,茂
 東京大学 准教授 村越,隆之
 東京大学 准教授 松田,良一
内容要旨 要旨を表示する

・ 序論

代表的な生活習慣病である糖尿病は、日本人の食生活などのライフスタイルの変化により、近年罹患率が増加し続けている。国内の糖尿病患者数は、未治療患者と境界糖尿病例も含めると1620万人 (平成14年度厚生労働省調査による推定値)であり新たな国民病となっている。糖尿病は、糖尿病性腎症・糖尿病性網膜症・糖尿病性神経障害といった直接的な合併症を引き起こすだけでなく、脳血管障害 (脳梗塞、脳出血) や心筋梗塞のリスクを増大させることが知られており、その予防や早期発見と適切な治療は国民衛生保健上非常に重要である。

糖尿病やその合併症状の診断には、これまでさまざまな診断マーカー物質が提案され臨床的に使われてきている。しかし、その多くに関しては、通常は糖尿病の病態に依存して変化する従属的な因子であり、それ自体が糖尿病の病態を主体的に変化させている病因的な要素であるとは考えられていない。

糖尿病のマーカー物質の一つである1,5-アンヒドロ-D-グルシトール (AG) は、グルコースの1位炭素の水酸基がデオキシ化された化合物で、細菌から高等動植物にまで、非常に広い範囲の生物の生体内から見つかっている生体内物質である。AGは正常なヒトの生体内では、可逆的なリン酸化以外ほとんど代謝を受けず代謝的に不活性な物質である反面、体液中のレベルを一定に保つための独自のシステムが備わっていることから、生体内で何らかの生理的機能を持った物質であることが推察される。

大腸菌においては、AGの前駆体でグリコーゲンの分解によって生じる1,5-アンヒドロ-D-フルクトース (AF) の生成量が、菌体内のグリコーゲン蓄積量と相関しており、培地中のグルコースが消費されると同時にAFがAGへと代謝されること、AGにはグリコーゲン蓄積を促進する効果があることが発見され、AG合成経路によるグリコーゲンの代謝調節モデルが提案されている。ほ乳類でも臓器別のAF濃度がグリコーゲン蓄積量と相関していることや、白血病由来培養細胞K-562の持つAFの還元能力がグルコースによって阻害されるという報告があり、ほ乳類細胞においてもAF・AGがグリコーゲンの代謝調節機構を持っていることが予想される。

・実験と結果

・実験1

ほ乳類の臓器のうち最も多くのグリコーゲンを蓄える臓器である肝臓でのグリコーゲン代謝とAF・AGとの関係を解析するため、肝臓の代謝モデルとして広く使われているヒト肝ガン由来細胞HepG2を材料として用い、以下のような方法でAF・AGによるグリコーゲン代謝への影響を調べた。

1) 予めグルコース濃度4.5g/lのDMEM培地中でHepG2細胞をプレインキュベートしグリコーゲンを蓄積させたあと、DMEM培地のグルコース濃度を0g/lもしくは0.5g/lに下げ、1mg/mlのAFもしくはAGを添加して12時間インキュベートしグリコーゲンを消費させた (Fig. 1. 1; Fig. 1. 2)。

2) 予めグルコース不含有のDMEM培地中でHepG2細胞をプレインキュベートしグリコーゲンを消費させたあと、DMEM培地のグルコース濃度を4.5g/lもしくは2.25g/lに上げ、1mg/mlのAFもしくはAGを添加して12時間インキュベートしグリコーゲンを蓄積させた (Fig. 2. 1; Fig. 2. 2)。

3) HepG2細胞をAF 1mg/mlとグルコース濃度0, 0.2, 0.5, 1, 2, 3, 4.5 g/lを含むDMEM培地中で6時間インキュベートし、還元されて生じた培地中のAG量を測定した (Fig. 3. 1)。

4) 予めグルコース不含有のDMEM培地中でHepG2細胞をプレインキュベートしグリコーゲンを消費させたあと、グルコース濃度4.5g/l、AF濃度1mg/mlのDMEM中で培養し、0, 1.5, 3, 4.5, 6, 12, 24時間後の蓄積グリコーゲン量と培地中のAG量を測定した (Fig. 4.1, Fig. 4. 2)。

・考察1

実験1-1) より、AFにはグリコーゲンの分解を抑制する効果があるが、AGには抑制効果がないことがわかった一方、実験1-2) よりAGにはグリコーゲンの蓄積を促進する効果があるが、AFには促進効果がないことがわかった。すなわち、AFとAGはともにグリコーゲン蓄積量を増加させる効果があるが、作用を及ぼす方向(分解・蓄積)がそれぞれ異なっているということがわかった。

また実験1-3) より、HepG2のAF還元能力はグルコース濃度が0の時にもっとも少なく、0.2~0.5g/l程度の低グルコース濃度で還元力がピークに達し、グルコース濃度が上昇すると緩やかに還元能力が阻害される(グルコース濃度4.5g/lでピークから20%減)というパターンを示し、HepG2細胞ではグルコースがAF還元能力をあまり強く阻害しないことがわかった。

一方実験1-4) より、HepG2のグリコーゲン蓄積量はインキュベート開始後1.5時間までに急速に増加したのち、蓄積のペースを落として6時間でプラトー値になり24時間後まで変化しないが、AG生成量は培地交換直後の1.5時間までに急速に増加したのちは24時間後までほぼ一定のペースで増加した。またt=1.5hの前と後とで、単位時間あたりのAG生成量は約4:1の差があった。このことから、HepG2細胞でのAF還元能力はグルコースによって直接的には阻害されないものの、グリコーゲンの蓄積量に依存して阻害されていることが示唆された。

以上の結果をまとめ、ほ乳類細胞におけるAG合成経路とグリコーゲン代謝調節のモデルを描くとFig. 5. 1およびFig. 5. 2のようになる。

グルコース濃度が高いとき(Fig. 5. 1)、AGの効果によりグリコーゲン蓄積が促進され、蓄積したグリコーゲンがAFの還元を阻害するためにAF濃度が上昇し、AFがグリコーゲンの分解を抑制するためグリコーゲンがより一層蓄積するようになる。一方グルコース濃度が低下すると(Fig. 5. 2)、グリコーゲンが分解されてAF還元阻害が解除され、AF濃度が低下するためグリコーゲンの分解抑制も解除されより一層グリコーゲンが分解される。またこの条件下ではAGにはグリコーゲン量を増加させる効果がない。このようなシステムはグリコーゲンの増加・減少変化をよりはっきりさせるように働くと考えられ、既存のグリコーゲン代謝調節機構を補助するような役割を持っていると思われる。

・実験2

ほ乳類細胞でのAG合成経路の役割を分子生物学的手法を用いて解明するため、AG合成経路の酵素の中で唯一同定ができている、ブタ肝臓のAFレダクターゼの部分的なアミノ酸配列を元に、マウスのAFレダクターゼ候補遺伝子をクローニングし、組換えタンパク質の性質を調べて酵素学的にAFリダクターゼであるか確認することとした。

NCBI BLASTプログラムを用い、ブタAFレダクターゼのアミノ酸配列に対して相同性の高いcDNAを検索したところ、aldo-keto reductase family 1, member E1 (AKR1E1) が最も高い相同性(アミノ酸一致66%、類似78%)を示した。特に基質特異性に関与する構造モチーフの変異と、基質結合ポケットを構成する残基(Fig. 6. 1)が、その他の近縁なAldo-keto reductaseよりもブタAFレダクターゼとAKR1E1との間で強い類似を示した。

このAKR1E1に対するPCRプライマーを設計し、マウス肝臓全RNAを出発材料にしてRT-PCRを行い目的cDNAを増幅した。このcDNAを発現ベクターに組み込み大腸菌で組換えタンパク質を発現させ、DE52カラムおよびRed Sepharose CL-6Bカラムの二段階で精製し、CBB染色したSDS-PAGE上で単一バンドを得た (Fig. 6. 2)。

この精製酵素の基質特異性を調べたところ、AFに対する基質特異性が最も高く、ついで2,3-ブタンジオンへの特異性も高かった。その他のカルボニル化合物、特にヘキソースへの反応性は小さいか検出不能であり、AGをAFに酸化する逆反応は測定されず、ブタAFレダクターゼの基質特異性と一致した (Table 6. 1)。また反応動力学定数はKm=1.02mM (ブタ酵素: 0.44mM)、分子回転が9.3分子/秒 (ブタ酵素: 8.7分子/秒) であり、概ね一致した。

以上のことから、AKR1E1はマウスにおけるAFレダクターゼの遺伝子であることが酵素学的に確認できた。

・ まとめ

これまで糖尿病の病態に従属的な因子としてのみ認知されてきたマーカー物質AGとその代謝経路が、グリコーゲン代謝のコントロールという形で糖代謝に関与し糖尿病の病態をコントロールしているという可能性が示された。またAG合成経路の酵素AFレダクターゼの遺伝子をクローニングできたことにより、AG合成経路の役割の解明に分子生物学的な手法をとることが可能となった。AG合成経路によるグリコーゲン代謝調節機構の詳細が明らかになれば、糖尿病のより詳細な診断や治療、また新たな治療薬の開発にも繋がることが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

上記の論文提出者による学位請求論文、「糖尿病診断マーカー物質が糖代謝に与える影響の解析」は、糖尿病のマーカー物質の一つである1,5-アンヒドルグルシトール (以下AG) と、その前駆体でグリコーゲンの分解から生じる1,5-アンヒドロフルクトース (以下AF) がグリコーゲン代謝に対して与える影響を、肝臓の代謝モデル細胞として広く使われているヒト肝ガン由来細胞HepG2を用いて解析したものである。またAGの合成経路の酵素であるAFレダクターゼの遺伝子をマウス肝臓よりクローニングし、組換え酵素の性質を解析したものである。

第1章「緒言」では、糖尿病のマーカー物質であるAGとその前駆体AFの諸性質について概論している。グリコーゲンがAFへと分解され、AFがAGへと還元されるAF経路が、大腸菌においてグリコーゲン代謝調節に関与している、という先行研究と、ほ乳類細胞内におけるAF代謝とグリコーゲン、グルコースとの関係についての知見から、ほ乳類細胞においてもAF経路によりグリコーゲン代謝が調節されている、という仮説を導き、本研究の位置づけを行っている。

第2章「AF・AGがHepG2細胞のグリコーゲン代謝に及ぼす効果の解析」では、ほ乳類生体内での主要なグリコーゲン代謝器官である肝臓におけるグリコーゲン代謝とAF・AGの関係を、HepG2細胞を材料に用いて解析している。グリコーゲンの代謝方向が異なる (蓄積もしくは分解) 条件でのグリコーゲン保持量の変化と、培地中へのAFもしくはAGの添加による影響を解析した。その結果、AFはグリコーゲン分解を抑制するが蓄積を促進しない、またAGはグリコーゲン蓄積を促進するが分解を抑制しない、という結果を得ている。

第3章「HepG2細胞のAF還元能力とグルコース・グリコーゲンの関係」では、第2章と同じくHepG2を材料に使い、細胞の持つAF還元能力とグルコース・グリコーゲンとの関係を解析している。異なるグルコース濃度条件でのAF還元能力を見た実験と、HepG2細胞のグリコーゲン蓄積とAF還元量の時間変化を追った実験から、HepG2細胞のAF還元能力はグルコースによっては直接的に阻害されず、グリコーゲンの蓄積量に依存して阻害されている可能性が高い、という結果を得ている。

第4章「マウスのAFレダクターゼの候補遺伝子クローニングと組換えタンパク質の酵素的性質」では、AFからAGへの還元を触媒する酵素であり、先行研究でタンパク質の精製が報告されているAFレダクターゼ(ブタ肝臓由来)のアミノ酸配列をもとに、マウスのAFレダクターゼ遺伝子のクローニングを行っている。また組換えタンパク質の発現、ならびに組換えタンパク質の酵素的性質の解析を行っている。検索で候補に挙がったcDNA、Aldo-keto reductase 1, member E1 (AKR1E1) とブタのAFレダクターゼの間で、アミノ酸配列 (特に基質特異性に関係する箇所)、組換えタンパク質の基質特異性、組換えタンパク質の反応動力学的性質、の各点において高度な一致が見られたことを示している。

第5章「総括」では、以上の実験より得られた結果に対して考察を行っている。細胞内でAFおよびAGの対象となっているターゲットが何であるかについての推察を行い、またAF還元能力の阻害が何によって、またどのようにして起こっているのかについての若干の考察を行っている。また、第2章および第3章で得られた知見をもとに、ほ乳類におけるAF経路によるグリコーゲン代謝調節のモデルを提案し、AF経路がグリコーゲンの蓄積・分解の切換えをより顕著にする役割を持っていると推論している。さらに、分子生物学的な手法によるAF経路の機能解明においてAFレダクターゼ遺伝子を用いることの利点について考察し、AF経路の機能解明が将来糖尿病治療への応用という将来の展望について述べている。

本論文の学位審査会における主な質疑応答を以下に記載する。いずれも適切な答えが得られた。

問: グリコーゲン代謝に対するAF・AGの効果を見る実験において、HepG2を材料として用いたことは妥当であるのか。

答: ほ乳類細胞におけるグリコーゲン代謝とAF経路の関係については先行研究が存在していない。培養細胞という単純化した系を用いて、AF経路とグリコーゲン代謝が関係しているという仮説を確認することを優先した。

問: 実験に用いたAF・AGの濃度は妥当か。

答: AGの濃度は生体内のレベルの数十倍、AFの濃度はさらにその10~100倍程度で、いずれも非常に高濃度である。しかし、上でも述べたとおり、まずAF・AGが実際にほ乳類細胞に対して効果を持っているかどうかを確かめるため、正常値以上のレベルでの投与を行った。またAFに関して言えば、細胞膜のAFに対する透過性がきわめて低いため、細胞内での実効濃度は低いと考えられる。

問: 実験で見られたグリコーゲン保持量の変化の大きさは、生理的に意味のあるものと考えられるのか。また実際の生体内でAF・AGがどの程度生理的な意味を持っているのか

答: グリコーゲン代謝を調べる実験では、人為的な条件ではグリコーゲンの蓄積が起こりにくくなることが知られている。もっとも生体内の条件に近い灌流肝臓を用いた実験でも、灌流液中のグルコース濃度を生体内で観測される値よりも高くしないと、有意なグリコーゲン蓄積増加が起こらないと報告されている。灌流肝臓よりも生理的な条件から遠ざかる培養細胞の系で、統計的に有意なグリコーゲン保持量変化を観測できたことから、生体内でもAF・AGが十分にグリコーゲン代謝を変化させうると考えている。

またAF経路が細菌からほ乳類に至るまで進化的に保存されているという事実は、AF経路が生理的に意味を持っていることの傍証になると考える。

本論文は、ほ乳類の生体内での役割についてほとんど報告されていないAGと、AGの前駆体であるAF、さらにAGの生合成経路であるAF経路が、グリコーゲン代謝を調節するという機能を持っていることを明らかにしている。また、マウスのAFレダクターゼ遺伝子を、既知のブタ肝臓AFレダクターゼとのアミノ酸配列の相同性だけでなく、酵素学的にも確認している。いずれの研究結果に対しても十分な学術的価値が認められ、従って、本審査委員会は博士 (学術) の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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