学位論文要旨



No 123336
著者(漢字) 中藤,慎也
著者(英字)
著者(カナ) ナカフジ,シンヤ
標題(和) イリドを有する高電子供与性カルベンとその遷移金属錯体に関する研究
標題(洋) Study on Highly Electron-donating Carbenes Bearing an Ylide and Their Transition Metal Complexes
報告番号 123336
報告番号 甲23336
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5217号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川島,隆幸
 東京大学 教授 中村,栄一
 東京大学 教授 西原,寛
 東京大学 教授 尾中,篤
 東京大学 准教授 村田,滋
内容要旨 要旨を表示する

カルベンは通常、高活性な反応中間体であるが、置換基にアミノ基を用いたN-heterocyclic carbene (NHC)は安定に単離され、盛んに研究されている。近年、NHC は種々の遷移金属触媒の配位子として幅広く応用され、その有用性は主にNHC の遷移金属への高い電子供与能に因ることが明らかとなってきた。そこで筆者は、NHC の特長である電子供与能をさらに高めるべく、新規なカルベンとして、リンイリドを導入したアミノイリドカルベンAYC に着目した。すなわち、窒素に代わりイリド炭素がカルベン炭素へπ電子供与し、遷移金属からカルベン炭素へのπ逆供与を抑えると共に、リンイリド部位の炭素は窒素に比較し誘起的な電子求引性が低いため、遷移金属に配位した場合、高い電子供与能を示すと期待される。対応するイソシアニド錯体から誘導されたAYC の錯体(M = Pt, Cr, Mo, W)はMichelin らによって報告されているが、その特殊な合成法のため汎用性に欠け、NHC 錯体との配位能の比較や、触媒能の検討に至っていない。そこで、本研究ではカルベンAYC の発生手法の確立、およびAYC を用いた種々の遷移金属錯体の合成と性質について検討を行った。

1. カルベン前駆体の合成

文献に従い、インドールから3 step でリン上の置換基がフェニル基のホスホニウム塩3a を合成した。3a はTHF に難溶であったため、アニオン交換を行い、THF に可溶なホスホニウム塩4a を新規に合成した。また、その誘導体として、同様の手法を用いてリン上の置換基がアニシル基の4b や、N 上の置換基がn-Bu, i-Pr 基であるホスホニウム塩を合成し、AYC の立体的・電子的な性質のfine-tuning を可能とした(Scheme 1)。

2. カルベンの発生と反応性

ホスホニウム塩 4a と塩基との反応により、AYC の発生を検討した。THF 中、-78℃ で4a とメシチルリチウム(MesLi)を反応させ、反応溶液を室温まで上昇させたところ、リン上のフェニル基がインドールの2位へ1,3-転位したホスフィン5 が生成し、AYC の発生が示唆された(Scheme 2)。転位の反応機構として、カルベンのローンペアがリン上のフェニル基のイプソ位の炭素を求核攻撃するSNAr 型の機構(Path A)と、フェニル基が電子対を伴ってカルベンの空のp 軌道に求核攻撃する機構(Path B)が考えられる。通常の高活性なカルベンに見られる1,2-転位では、Path B と同じく、カルベンの空のp 軌道への移動基の求核攻撃により進行することが知られている。分子軌道計算の結果、AYC のフロンティア軌道である、HOMOおよびLUMO+1 がそれぞれカルベン炭素のσ供与性の分子軌道およびリン上のフェニル基のπ軌道に対応していることが分かり、SNAr 型の機構で転位が進行していると考えられる。また、遷移状態計算においてもSNAr 型の機構を支持する結果が得られた。一方で、通常のカルベンではLUMO に対応するカルベン上の空のp 軌道が、AYC においてはイリド炭素および窒素のπ供与によりLUMO+6 と高くなっており、これがAYC と通常のカルベンで反応機構が異なる理由であると考えられる。

AYC が室温では転位することがわかったので、-78°C での硫黄による捕捉を検討し、チオアミド6 を定量的に得た(Scheme 3)。この結果から、AYC が低温下において捕捉されうる程度の安定性を有することが分かった。

3. Rh 錯体の合成

NHC のRh 錯体は比較的安定であり、容易に合成・単離できることが知られている。そこで、AYC-Rh錯体の合成を検討した。ホスホニウム塩4a とMesLi との反応の後、{Rh(cod)Cl}2 と反応させることで{(AYC)Rh(cod)Cl}錯体7 を合成した(Scheme 4)。さらに、7 とCO との反応により{(AYC)Rh(CO)2Cl}錯体8 へと誘導した。7 と8 はそれぞれ、各種NMR およびX 線結晶解析により構造を決定した(Figure 1,2)。7 と8 のカルベン炭素の13C NMR のシフト値はそれぞれ、δ 200.6, 187.8 に観測され、NHC-Rh 錯体においてみられるカルベン炭素に特有な低磁場のシフト値と一致していた。また、7 のRh-C(carbene) 結合長(2.036 (2) A)とRh 周りの構造パラメータは{(NHC)Rh(cod)Cl}錯体で報告されている値と同程度であった。C(carbene) -Cylide 結合長(1.417 (3) A)およびC(carbene) -N 結合長(1.378 (3) A)は通常のC-C 単結合(1.54 A)およびC-N 単結合(1.52 A)より短く、イリド炭素および窒素のカルベン炭素へのπ電子供与が見られた。一方で、C(carbene)-N 結合長は{(NHC)Rh(cod)Cl}錯体で報告されている値(1.32-1.37 A)よりやや長く、アミノ基のπ電子供与はNHC 錯体に比べやや弱いと考えられる。

4. 電子供与能の評価

{LRh(CO)2Cl}錯体のIR におけるカルボニル伸縮振動の値は配位子L の電子供与能の強さの指標となっている。{(AYC)Rh(CO)2Cl}錯体8 のCO 伸縮振動を測定したところ、現在まで知られているカルベンの中で最も低波数側に観測されることがわかった(Table 1)。すなわち、一般的なNHC である13-15 や、近年報告されている立体的・電子的に改良し、電子供与能を高めたカルベン9-12 と比較して、AYC が最も電子供与能が高いカルベンであることが示唆された。

AYC の高い電子供与能について知見を得るため、AYC とNHC のモデル化合物についてB3LYP/6-31G(d)レベルで分子軌道に関する計算を行った(Figure 3)。カルベン炭素の空のp 軌道に相当するπ受容性軌道のエネルギーレベルに関しては、AYC(0.60 eV)はNHC(-0.24 ~ 1.69 eV)と同程度であるのに対し、カルベン炭素のsp2 軌道に相当する、σ供与性軌道のエネルギーレベルについては、AYC(-4.4 eV)はNHC(-5.8 ~ -5.2 eV)に比べ高いことが明らかとなった。従って、AYC は、π受容能がNHC と同程度に低く、AYC の高い電子供与能はσ供与能の高さに由来すると考えられる。

5. Pd 錯体の合成

NHC を有する遷移金属錯体の中で、Pd 触媒はクロスカップリング反応など特に有用である。そこで、AYC を有するPd 錯体の合成を行った。。{Pd(allyl)Cl}2 存在下、ホスホニウム塩3a とt-BuOK を反応させることで、{(AYC)Pd(allyl)I}錯体16 が2 種の異性体の混合物として得られ(Scheme 5)、X 線結晶構造解析にも成功した。16 のORTEP 図をFigure 4 に示す。Pd 上のハロゲン原子が3a のカウンターアニオンに由来するヨウ素原子に交換しており、これはPd-I 結合がPd-Cl 結合より強いことに由来すると考えられる。また、in situ で発生させた16 がアリールブロミドとモルホリンのBuchwald-Hartwig 反応において活性を示した。

以上、筆者は博士課程において、リンイリドをドナー性置換基として有する新規なカルベン AYC の発生法を開発し、Rh, Pd 錯体を合成することに成功した。Rh 錯体の性質および理論計算から、AYC が現在まで報告されているカルベンの中で最も高い電子供与能を有することを見出した。このことから、電子豊富な配位子を必要とする触媒反応において、AYC が反応を促進する優れた配位子になると期待される。

Scheme 1.

Scheme 2.

Scheme 3.

Scheme 4.

Figure 1. ORTEP drawing of 7.

Figure 2. ORTEP drawing of 8.

Table 1. IR carbonyl frequencies v (cm-1) for cis-[LRh(CO)2Cl] complexes.

Figure 3. Energy levels of σ-donating orbitals and π-accepting orbitals.

Figure 4. ORTEP drawings of 16.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は5章からなり、第1章は序論、第2章はアミノイリドカルベンの発生と反応性、第3章はRh-アミノイリドカルベン錯体の合成と性質、第4章はPd-アミノイリドカルベン錯体の合成と性質、そして第5章では結論および今後の展望について述べている。

第1章では、カルベンの電子構造について説明し、N-ヘテロサイクリックカルベン(NHC)の合成と安定性について例をあげて述べている。また、NHCは遷移金属への電子供与能が高く、遷移金属触媒の配位子として有用であることを例をあげて述べている。さらに、立体的・電子的に修飾されたカルベン配位子を例示し、カルベンの置換基が電子供与能に及ぼす影響を示した上で、ドナー性置換基としてリンイリドを骨格に有する高電子供与性アミノイリドカルベン(AYC)配位子の開発という研究目的を設定している。

第2章では、AYCの発生法の開発および性質について述べている。AYC前駆体の化学修飾が容易であることを見いだし、AYCの立体的・電子的な性質のfine-tuningが可能であることを示している。塩基との反応により発生させたAYCが室温では1,3-フェニル転位を起こすことを見いだし、反応機構について、カルベンのローンペアがリン上のフェニル基を求核攻撃するSNAr型の機構とリン上のフェニル基がカルベンの空のp軌道を求核攻撃する機構の2通りの機構を提案している。分子軌道計算および遷移状態計算を行い、転位がSNAr型の機構で進行することを明らかとしている。一方、AYCが低温下で硫黄により捕捉されることから、AYCがある程度の安定性を有することを明らかとしている。また、AYCとベンズアルデヒドとの反応においても、AYCが求核性を有することを示している。

第3章では、AYC-Rh錯体を合成し、それらの構造および物性について述べている。第2章で開発したAYCの発生法を応用して、Rh錯体の合成に成功している。Rh錯体のカルベン炭素のNMRのシフト値から、AYCとNHCの電子状態が似ていることを示している。Rh錯体のX線結晶構造解析により、イリド炭素が窒素同様カルベンの空のp軌道にp電子供与していることを明らかとしている。また、AYC配位子の嵩高いトリフェニルホスホニオ部位のためカルベン炭素周りの結合角が歪んでいることを示している。一方、Rhカルボニル錯体のIRのCO伸縮振動が、現在まで報告されているNHCを含むすべてのカルベン錯体50例以上の中で最も低波数に観測されることを見いだしている。AYC配位子がすべてのカルベン配位子の中で最も電子供与能が高いことを明らかとしたのは意義深い。また、AYCとNHCのドナー性およびアクセプター性の分子軌道に関する理論計算から、AYCのπ受容能はNHCと同程度に低く、一方でAYCの高い電子供与能がσ供与能の高さに由来することを明らかとしている。

第4章では、AYC-Pd錯体を合成し、その構造および物性について述べている。第3章でのRh錯体の合成と異なる手法を開発し、Pd錯体の合成に成功している。Pd錯体のX線結晶構造解析により、Rh錯体と同様、イリド炭素が窒素同様カルベンの空のp軌道にπ電子供与していることを示している。また、in situで発生させたAYC-Pd錯体がアリールブロミドとモルホリンのBuchwald-Hartwig反応において活性を示すことを明らかにしている。

第5章では、結論および今後の展望について述べている。リン上がフェニル基のAYCは転位のため安定に単離することが難しいが、その解決策として、リン上をアミノ基やアルコキシ基にすることで転位を防ぎAYCを単離できると述べている。AYC配位子の電子供与能について、リンイリドの導入が当初の予定通り効果的であったことを述べ、さらに電子供与能を高めるために、NHCのアミノ基を二つともリンイリドに置換する方法を提案している。また、AYC錯体をより高効率な触媒へと改善するために、AYC配位子のN上の置換基の修飾や、リンイリドではなくスルホニウムイリドやアゾメチンイリドを有するカルベン配位子の設計が有効であると述べている。

なお、本論文は川島隆幸・小林潤司との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験および解析を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できるものと認める。

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