学位論文要旨



No 123489
著者(漢字) 佐藤,健
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,タケシ
標題(和) 弱い分子間相互作用を正確に記述する密度汎関数理論の開発と応用
標題(洋) Development of Density Functional Theory for Week Intermolecular Interactions
報告番号 123489
報告番号 甲23489
学位授与日 2008.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6805号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平尾,公彦
 東京大学 教授 水野,哲孝
 東京大学 教授 山下,晃一
 東京大学 准教授 中嶋,隆人
 東京大学 准教授 常田,貴夫
内容要旨 要旨を表示する

1.概要

水素結合、vander Waals(vdW)結合などの弱い分子間相互作用は、生体分子やソフFマターなどの大規模複雑系の構造や物性を支配している。これらの系を計算化学の手法で解析するためには、分子間相互作用を正確に記述する効率的な方法論が必要である。これまでは、弱い分子間相互作用を正確に求めるために、結合クラスター法などの高精度ab initio法が用いられてきた。しかしこれらの方法は非常に計算負荷が高く、大規模系への適用は現実的でない。密度汎関数理論(DFT)は、適度な計算負荷で様々な分子物性を正確に算出する。従来の波動関数理論に代わる有望な理論である。DFTは、HohenbergとKohnによって証明された、電子密度とHamiltonianの一対一対応に基礎を置く理論である。DFT計算の精度は、様々なモデル化のもとに導出された近似的交換相関汎関数の精度に依存する。

これまでに開発された交換相関汎関数は、弱い分子間相互作用、特にvdW相互作用を全く再現できないという深刻な問題を抱えていた。vdW結合を構成する長距離交換相互作用および分散力を取り込めていないためである。この問題は、非局所的な多体相互作用と、局所的な電子密度との対応を見いだすことが原理的に困難であることに由来する。経験的な分散力補正法が活発に研究されてきたが、長距離交換相互作用の欠如には注意が払われてこなかった。

本研究では、既存のDFTにおける、(1)長距離交換相互作用の欠如、および(2)分散力の欠如に対して露わな処方を与え、分子間相互作用を正確に算出する新しい密度汎関数理論の開発を行った。(1)では、二電子演算子のEwald分割に基づく新しいDFTIHa質ree-Fock混成理論である長距離補正(LC)法を用いた。これにより、分子間結合領域での交換相互作用の記述を顕著に改善した。(2)の問題に対して、Anderssonらの開発した非局所的分散力表現(ALL)を採用した。当初ALL汎関数は電子密度に重なりの無い物体間にのみ適用可能な表式であったが、一般の多原子分子に適用可能な方法論に拡張した。LC法とALL汎関数を組み合わせ、新しい密度汎関数理論であるLC+ALL法を開発した。

LC+ALL法を多くのvdW錯体に適用し、その有効性を評価した。その結果、LC+ALL法が従来のDFTと同等の計算負荷で、高精度'ab intio'計算の結果を大変よく再現することを見出した。次にLC+ALL法を用いてbenzene二量体のstacking相互作用を詳細に解析した。さらに水素結合、vdW結合など異なる種類の分子間相互作用をバランスよく高精度に算出することも確認した。最後にLC+ALL法を用いて、grapheneシート間の結合エネルギーを系統的に計算し、graphiteの面間結合エネルギーを見積った。LC+ALL法によって、DFTの弱い分子間相互作用に対する問題をほぼ全面的に解決することができたと考えている。

2.Van der waals interactions studied by density functional theory

LC法では、電子間相互作用1/r(12)を誤差関数によって短距離成分と長距離成分とに分割し、短距離成分には一般化勾配型近似(GGA)交換汎関数を、汎関数形式で表現することが困難な長距離成分にはHa質ree-Fock交換積分をそれぞれ用いる(式(1)~(3))。

ALL汎関数は次式(4)で表され;離れた電子ガス領域間、離れた原子問という両方の極限におけるvdW相互作用を正確に再現する。

本研究では、ALL汎関数を評価する際の数値積分の表式を見直し、電子間距離r且2が小さい場合の寄与をcutoffするためのdampi6gfUnctionに各原子のvdW半径を導入することによって、一般の分子に適用可能な理論に拡張した。

LC+ALL法を用いて様々な小規模vdW錯体の計算を行った結果、全ての系に対して'ab intio'計算の結果を高い一致で再現した。図1(上)は、LC+ALL法によるFC1-He錯体のポテンシャルエネルギー曲面(PES)である。従来のDFT計算では、図中の三っの極小構造のうち再安定構造しか得られていなかったが、LC+ALL法によるPESは非常に高精度なCCSD(T)法によるPES(図1(下))と極めてよく一致している。

3.Density functional study on pi-aromatic interaction:Benzene dimer and naphthalene dimer

ベンゼン二量体は、生体分子や人工超分子の構造および安定性に主要な役割を果たすπ一π相互作用のモデルとなる、応用上きわめて重要な分子である。これまでに高精度ab initio計算による多くの研究がなされているが、計算コストの制約から、ポテンシャルエネルギー曲面の限られた領域しか明らかにされていなかった。LC+ALL法は従来のDFTと同等な計算負荷で実行可能であり、この程度の規模の計算は小さな計算機資源でも高速に行うことができる。この特徴を生かし、ベンゼン二量体のさまざまな構造について相互作用エネルギーを計算して、広範囲のPESを初めて算出した。得られたPESの一部を図2に示す。図に示した範囲には、等価な二つの極小構造と、それらを結ぶpath上のひとつの遷移構造が含まれる。これらの停留点の周りにはPESが非常に平坦な領域が存在している。vdW系のPESに特有の性質である。垂直距離(Rl)への依存性を示した図3(右)から、LC+ALL法は、非常に正確なCCSD(T)による曲線の傾向を大変良く再現していることがわかる。図3(左)に、水平距離(R2)への依存性をエネルギー成分毎に示した。この図は、PESの異方性の起源が、斥力項の交換反発の方向依存性にあることを示唆している。vdW相互作用の強度、異方性を正しく記述するためには、長距離交換相互作用を正しく記述することが重要である。

4. Long-range corrected density functional study on weakly-bound systems: Balanced descriptions of various kinds of intermolecular interactions.

LC+ALL法は分散力が支配的な系のポテンシャルエネルギー曲面を極めて正確に再現することが確認されてきたが、電気双極子間の静電力が支配的な相互作用を正しく見積もることができるかは評価されていなかった。そこで本研究ではLC+ALし法を、分散力0みによって結合する系、電気双極子間の静電的相互作用によって結合する系、電気双極子と、それによって誘起された双極子との間の引力によって結合する系、さらに静電的相互作用に加えて電荷の非局在化による安定化を伴う系に適用し、これら様々なタイプの相互作用を詳細に検討した。表に、今回取り扱った32個のモデルについて、正確なCCSD(T)法による相互作用エネルギーからの相対平均誤差を相互作用のタイプごとに示した。併せて、B3LYP汎関数およびB97-1汎関数を用いたDFT計算、および二次の多体摂動論(MBPT2)による結果も示してある。表から、LC+ALL法のみ、全ての相互作用を10%以下の平均誤差でバランスよく記述していることがわかる。一方、B3LYP汎関数、B97-1汎関数を用いた計算では、強い静電的な相互作用は高い精度で記述するものの、分散力の寄与が支配的になるにつれ平均誤差が大きくなっている。

5. Density functional study on inter-layer bindings in polycyclic aromatic hydrocarbons.

3で示したように、LC+ALL法は、適度な計算コストでπ電子richな炭化水素間のstacking相互作用を非常に精度よく算出する。従って、類似した電子構造を持ち、高精度なab initio計算を行うことのできない大きな系に対して、有効なツールとなる。これを生かし、分子式c6n2H6nであらわされる多環芳香族炭化水素(Polycyclicaromatic hydrocarbon:PAH)の2層および3層モデルの剥離エネルギー(層間結合エネルギー)を系統的に計算した。予備的な計算により、かなり小さな基底関数である6-31++G**基底によって、基底関数極限の値に近い結合エネルギーが得られることがわかった。さらに、本研究室で開発されたDual-levelDFT手続きを採用することで、精度を全く落とさずに計算コストを大幅に削減できることが判明した。これらの結果を受け、n=1-5の2層モデル、および3層モデルをDua1-levelのLC+ALL/6-31++G**によって計算した。結果を図3に示す。この図からわかるように、剥離エネルギーはPAH中の炭素数にほぼ比例し、炭素原子あたりの剥離エネルギーはn=5において既によく収束している。これらの計算結果を注意深くn→∞に外層し、bulkのgraphiteにおける剥離エネルギーを40meV/atomと見積もった。これは最近の二つの実験結果35(±10)meV/atomおよび52(±5)IpeV/atomとよい一致を示している。この研究により、LC+ALL法が大規模複雑系のためのツールとして十分有用であるととが示された。

図1.FCI-Heのポテンシャルエネルギー曲面

図2.ベンゼン二量体のポテンシャルエネルギー曲面

図3.ベンゼン二量体のPESのいくつかの切り口における断面。詳細は本文参照

表.相互作用エネルギーのCCSD(T)法による値からの平均誤差(%)

審査要旨 要旨を表示する

本論文は「弱い分子間相互作用を正確に記述する密度汎関数理論の開発と応用」と題し、全6章からなっている。密度汎関数法(DFT)は電子密度に基づく平均場ポテンシャルを利用した非線形Kohn-Sham方程式を解いて求める計算法である。この方法では量子論的な交換相関相互作用を電子密度の汎関数として近似しているため、電子相関を取り込んだ高精度計算を少ない計算コストで実現する。DFTは基底状態のエネルギーや構造を精度よく算出し、広く一般に使われている。計算が比較的簡単であるため、生体分子などの大規模分子系への適用が期待されている。しかしDFTはvan der Waals (vdW) 結合などの弱い分子間相互作用を記述することができないという問題を抱えていた。その解決がDFTの緊急の課題の1つであった。本論文ではDFTの交換汎関数を改善することにより、分子間相互作用を正確に算出する新しい密度汎関数理論を開発したもので、DFTの適用範囲を大幅に拡大したものである。

第1章は序論であり、理論化学の現状、その中におけるDFTの位置づけ、DFTの問題点などがまとめられており、本研究の目的が述べられている。

第2章はvdW相互作用を記述するDFT汎関数の導出である。vdW力はPauli交換反発と引力である分散力の微妙なバランスで決まっている。vdW力の定量的な記述にはPauli交換反発と分散力をともに精度よく記述できる理論が要求される。申請者はi交換反発を精度よく記述するために長距離補正をおこなった交換汎関数(LC)を用いている。LC法は、電子間相互作用1/r12 を誤差関数によって短距離成分と長距離成分とに分割し、短距離成分には一般化勾配型近似(GGA)交換汎関数を、汎関数形式で表現することが困難な長距離成分にはHartree-Fock交換積分をそれぞれ用いる方法である。また分散力を取り入れるためにAnderssonらの開発した非局所的分散力表現(ALL)を採用している。ALL汎関数は離れた電子ガス領域間、離れた原子間という両方の極限におけるvdW相互作用を正確に再現する。申請者はALL汎関数を評価する際の数値積分の表式を見直し、電子間距離r12 が小さい場合の寄与をcut offするためのdamping functionに各原子のvdW半径を導入することによって、一般の分子に適用可能な理論に拡張している。

申請者はまずLC+ALL法を希ガス二量体であるHe2、Ne2、Ar2等の希ガスのポテンシャルエネルギーの計算に応用し、LC+ALL法がポテンシャル曲面を正確に記述し、高精度ab initio分子軌道法と比較しても遜色がないことを示している。長距離交換相互作用と分散力をバランスよく取り込むことにより、希ガスのポテンシャル曲面が正確に記述されたものである。さらに申請者はLC+ALL法をFCl…Heなどの比較的小さなvdW錯体のポテンシャル曲面を計算し、その有効性を評価した。LC+ALL法が従来のDFTと同等の計算負荷で、CCSD(T)法など高精度ab initio 計算の結果を大変よく再現することを実証している。さらに水素結合、vdW結合など異なる種類の分子間相互作用をバランスよく高精度に算出することも検証している。

第3章ではベンゼン二量体やナフタレン二量体にLC+ALL法を適用し、stacking相互作用を詳細に解析している。ベンゼン二量体は、生体分子や人工超分子の構造および安定性に主要な役割を果たすπ-π相互作用のモデルである。これまでに高精度ab initio計算による多くの研究がなされているが、計算コストの制約から、ポテンシャルエネルギー曲面の限られた領域しか明らかにされていなかった。LC+ALL法は従来のDFTと同等な計算負荷で実行可能であり、この程度の規模の計算は小さな計算機資源でも高速に行うことができる。この特徴を生かし、ベンゼン二量体のさまざまな構造について相互作用エネルギーを計算して、広範囲のPESを初めて算出している。PESの異方性の起源が斥力項の交換反発の方向依存性にあることを明らかにしている。vdW相互作用の強度、異方性を正しく記述するためには、長距離交換相互作用を正しく記述することが重要であることを示唆している。

第4章ではLC+ALL法を、分散力のみによって結合する系、電気双極子間の静電的相互作用によって結合する系、電気双極子と、それによって誘起された双極子との間の引力によって結合する系、さらに静電的相互作用に加えて電荷の非局在化による安定化を伴う系に適用し、これら様々なタイプの相互作用をバランスよく記述できることを明らかにしている。

第5章では分子式C6n2H6nであらわされる多環芳香族炭化水素(Polycyclic aromatic hydrocarbon: PAH)の2層および3層モデルの剥離エネルギー(層間結合エネルギー)を系統的に計算し、炭素原子あたりの剥離エネルギーを40meV/atomと見積もっている。最近の二つの実験結果35(±10)meV/atomおよび52(±5)meV/atomとよい一致を示している。LC+ALL法が大規模複雑系の分子間相互作用を解析するツールとして有用であることを示唆している。

第6章は本論文のまとめであり、分子の電子状態理論、DFTに関する将来の展望が述べられている。

以上のように本論文は、従来の密度汎関数法では記述できなかったvan der Waals相互作用などの弱い分子間相互作用を高精度に記述できる理論を開発し、密度汎関数法の適用範囲を大幅に拡大したものであり、理論化学、物質科学に貢献するところが大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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