学位論文要旨



No 124010
著者(漢字) 磯野,達也
著者(英字)
著者(カナ) イソノ,タツヤ
標題(和) 生成語彙論における多義と意味の合成性 : 前置詞との関係に基づく移動動詞の多様な振る舞いに関する考察
標題(洋) Polysemy and Compositionality in Generative Lexicon : Deriving Variable Behaviors of Motion Verbs in Relation to Prepositions
報告番号 124010
報告番号 甲24010
学位授与日 2008.06.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第828号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,たかね
 東京大学 准教授 加藤,恒昭
 東京大学 准教授 坪井,栄治郎
 東北大学 教授 小野,尚之
 慶應義塾大学 准教授 Christopher,Tancredi
内容要旨 要旨を表示する

第1 章 Introduction (導入)、第2 章 Theoretical Framework (理論の枠組み) 、第3 章 Issues and Proposals ( 問題点と提案)

本論文の目的は、意味の合成性(compositionality)の観点から語の多義を生むメカニズムを明らかにすることである。この目的を達成するために、生成語彙論(Generative Lexicon、以下、GL)の枠組みで空間関係を表す表現、すなわち移動動詞と空間前置詞の語彙表示(lexical representation)を提案し、また語彙表示に作用する生成的な操作(generative device)の機能と条件を明らかにする。場所理論(localistic theory)の考え方に従えば、空間表現の意味は属性、所有、時間のそれぞれの表現の意味に拡張することが可能であり、この点で本稿の研究は動詞や動詞句(VP)一般の意味の理解に貢献するものである。1、2

移動動詞は句の中で多義性を示す。従って、本稿では動詞、前置詞の意味とこれらが組み合わされた際の意味を主に扱う。

GL は事象構造、特質構造、項構造で語彙の意味を表示し、生成的な操作で語の多義性を捉えようとする。この操作中、特に共合成(co-composition)は語彙表示に作用して句あるいは文の意味表示を生成し、語の多義性を生む。しかし、主に次の4 点がPustejovsky (1995)では、十分には明らかにされていない。

(1) a. Pustejovsky (1995)は語彙の事象構造には2 つの事象タイプが含まれると仮定するが、他のタイプの下位事象はないか。

b. ヘッド(head)となる事象はどのように決定されるか。

c. 共合成が適用される際の条件はどのようなものか。

d. 特質構造はどのような機能を持つか。

本論文は、事象構造、特質構造の性質を明らかにするとともにこれらと共合成との相互関係を解明することによって、語の多義性が生じるメカニズムを明らかにする。第4 章から第7 章で様々な言語現象の分析を通して、直接的、間接的に(1)の4 点に対する解答を提案する。

第4 章 Event of Movement or Change: Location Verbs and Verbs of Change of State( 変化・移動の事象 -場所動詞と状態変化動詞-)

本章では、「移動・変化の事象」を表す下位事象が事象構造に含まれ、活動を表す事象、状態を表す事象とともに1 つの語彙表示中に3 つの下位事象が含ま

れることがあると提案する。本論文では、この提案によって、動詞の自他交替や前置詞句to 句と動詞の共起の可能性などが説明されることを示している。

Pustejovsky (1995)は、達成動詞(accomplishment verb)と到達動詞(achievement verb)はともに過程事象と状態事象からなる事象構造を有している、と主張する。

動詞grow は(1)のように自他交替を示し、(2)は、「その小さな植物は一週間成長し続けた」という解釈になる。本章では、この変化を表す事象がgrow の事象構造中にあると考え、(3)の語彙表示を提案する。

(1) a. The farm grew the little plants. [2a]

b. The little plant grew. [2b]

(2) The little plant grew for a week. [4a]

(3) grow [8]

event structure = E1 = e1: process

E2 = e2: process

E3 = e3: state

RESTR = e1ο∝ e2 e2 <∝e3

head: underspecified

argument structure = ARG1= x

ARG2 = y

ARG3 = GROWN

qualia structure = AGENTIVE = act-on(e1, x, y)

move(e2, y)

FORMAL = at(e3, y, GROWN)

(e.g., (1a): x = the farm, y = the little plants)

(1a)の例で考えると、農場の植物への働きかけがact-on(e1, x, y)、植物の成長がmove(e2, y)、植物が成長した状態がat(e3, y, GROWN)によって表示され、ここでは、植物の成長の過程を表示するevent 2 とmove(e2, y)が新たに加えられている。

ここで提案した移動・変化の事象の必要性を支持する例として(4)がある。

(4) In a hurry they gradually built the building. [5a]

"They were in a hurry, but the building of the house proceeded gradually."

(4)は、建設作業を急いで行ったが、建物の建設される過程そのものは徐々に進んだ、という解釈が可能であり、act-on が表す事象とmove が表す事象がbuildの語彙表示中に含まれることが確認できる。

以上、4 章では、語彙表示中の事象構造と特質構造に着目し、移動・変化を表す事象とそれに関わる特質構造内の関数を提案した。本論文中では、これによりいくつかの言語現象を適切に捉えることができることを示した。

第5 章 Polysemy, Headedness and Qualia Structure: Intransitive LocativeAlternation and Verbs of Emission ( 多義性、ヘッド、特質構造 -自動詞型場所格交替と放出動詞-)

第5 章も、第4 章に続いて語の語彙表示の解明を目的とする。本章では、動詞の多様な振る舞いとヘッドがどのように関わっているかを、放出動詞を例にして議論を展開し、ヘッドが未指定の動詞の語彙表示では、いずれの下位事象もヘッドになることが可能で、これにより動詞の多様な振る舞いが生じると主張する。

放出動詞は(1)~(5)にあるように様々な構文に現れる。

(1) 自動詞型場所格交替

a. The stars sparkled in the sky. (location-type) [42a]

b. The sky sparkled with stars. (with-type) [42b]

(2) 進行形(活動動詞)

The traffic lights were flashing. [3b]

(3) 場所格倒置

On the crown sparkled a lot of jewels. [4a]

(4) 他動詞

The stagehand flashed the light. [5]

(5) 移動動詞用法

A bee buzzed irritatingly around my head. [6a]

本章では放出動詞の語彙表示を(1)のsparkle を例にとって(6)のように提案する。3

(6) a. sparkle [52a]

event structure = E1 = e1: process

E2 = e2: state

e1o∝e2

head: underspecified

argument structure = ARG1= x

ARG2= y

qualia structure = FORMAL = at(e2, SPARKLE&x, y)

AGENTIVE= act(e1, x)

b. sparkle [52b]

event structure = E1 = e1: process

E2 = e2: state

D-E3 = e3: state

e1o∝ e2 e2o∝e3

head: underspecified

argument structure = ARG1= x

ARG2= y

qualia structure = FORMAL = with (e2, y, SPARKLE&x)

at (e3, SPARKLE&x, y)

AGENTIVE= act (e1, y)

(6a)は、基本的に(1a)のsparkle の語彙表示で、状態事象とat(e2, SPARKLE&x, y)が表示されている。4 ここでSPARKLE は物体が放出する光そのものであり、光とそれを放出する物体がある場所(y)に存在することを示す。また、(6a)で事象1 がヘッドであれば活動動詞の解釈となり、事象2 がヘッドであれば、LI に現れる動詞となる。(6b)はwith-type のsparkle である。GL ではヘッドの事象に関連づけられる関数の意味が前面に出て、またそこに含まれる項が統語に表示される。放出動詞は、(6)のようにいくつかの下位事象をもち、関連づけられる特質構造中の主体役割、形式役割内の関数を持ち、多義性が生まれる、というのが本章の主張である。

(6)の語彙表示によって、(7)のようにwith 句の省略が許されることも説明できる。((8)の動詞群は省略できない。)

(7) Verbs of Emission

a. The crown sparkled (with jewels). [58a]

b. The sky glimmered (with stars). [58b]

(8) Swarm Verbs

a. The lake abounds *(with fish). [59a]

b. The garden swarmed *(with bees). [59b]

以上のように、豊富な特質構造の記述力と事象構造、ヘッドの相互的な関係によって動詞の多義性が説明される。

第6 章 Event Structure and Co-composition: Meanings of Prepositions and Inversion ( 事象構造と共合成 -前置詞の意味と倒置-)

本章と次章では語彙表示間の相互関係について分析を行い動詞の多義性が、前置詞句との関わりの中でどのように生じるのかを明らかにする。本章では、動詞と前置詞句の組み合わせから生じる動詞表現(verbal expression)の意味表示を検討し、事象構造、特質構造と共合成の関係、そして共合成の条件を明らかにする。

本章では、共合成の条件と共合成によって合成された動詞表現のヘッドについてそれぞれ次のように提案する。

(1) Co-composition Operation and its Conditions (共合成とその条件) [50]

a. 前置詞の事象構造が変化・移動の事象を持ち、動詞の事象構造が同じタイプの事象を持っていて、2 つの事象が結びつけられるクオリアが同じタイプなら、その2 つの事象は合成されなければならない。この場合、その2 つの語の事象構造が状態事象を持っているなら、その状態事象も合成される。または、

b. 前置詞の事象構造が状態事象のみから成り、動詞の事象構造が同じタイプの事象を持っていて、2 つの事象が結びつけられるクオリアが同じタイプなら、その2 つの事象は合成されなければならない。

(2) 共合成とヘッド -ヘッドの継承(i)- (Co-composition and Headedness: the Inheritance of Headedness (i)) [35]

動詞と前置詞句が動詞表現を合成するとき、前置詞句のヘッドがその動詞表現のヘッドになる。前置詞句のヘッドが未指定の時、動詞のヘッドが動詞表現に引き継がれる。

(1)の共合成は、(3)にあるような動詞と前置詞句の組み合わせからなる動詞表現を合成し、(4)を排除する。

(3) a. This kind of dog exists only in Japan. [53]

b. Sally came into this room.

c. John ran to the station.

(4)*John laughed in the classroom. [66a]

(「ジョンが笑って教室に入った。」の解釈)

(3c)のrun とto の語彙表示を(5)に概略的に示す。

前置詞句、動詞ともに移動の事象を持っているので(1a)に当てはまる。動詞の事象2 と前置詞句の事象3 が事象タイプ、関数のタイプが同じなので合成される。この時、前置詞句は状態事象(e4)を持っているので、派生された動詞表現の事象構造では、この状態事象は合成された移動事象に時間的に続く関係になり、(5b)のような意味表示が派生される。

(1)は(4)の非文法性を説明する。前置詞句in は状態事象のみからなるが、活動動詞のlaugh は過程事象のみから成り、(1)のいずれにも当てはまらず共合成の操作は適用されない。

(2)のヘッドの継承は、(6)の解釈の相違から導き出される。

(6) a. John ran into the station for ten minutes. [26]

b. Maria ran to the next town for ten minutes. [29a]

(6a)は「John が駅に駆け込んでそこに10 分間いた」という意味で容認可能であり、(6b)は「John は駅の方へ10 分間走った( が、まだ着かなかった)。」という解釈が許される。(6a)ではinto のヘッドがrun into に継承されて状態事象がヘッドになる。(6b)では、to のヘッドは未指定なので、動詞のヘッドが派生する動詞表現のヘッドになる。このように、(2)のヘッドの継承が導き出される。

(1)と(2)によって(7)の場所格倒置構文の容認性の相違や(8)の放出動詞の移動動詞としての用法も説明できることを本論文では示した。

(7) a. Into this room ran a number of boys. [3a]

b.??To this room ran a number of boys. [3b]

(8) a. The cart rumbled down the street. (Levin (1993:235)) [67a]

b. The burning car blazed across the field. [69a]

共合成が、動詞の前置詞句との組み合わせによる用法の多様性や完結性の変化を司ることを示した。

第7 章 Semantic Representations of Verbs of Motion, English Prepositions and Japanese Particles ( 移動動詞、英語前置詞、日本語不変化詞の意味表示)

本章では移動動詞、英語の前置詞、日本語の不変化詞の語彙表示の関係を分析し、これらの語彙表示が合成によって動詞句の意味表示を形成する仕組みを明らかにする。本章で扱う前置詞、不変化詞は動詞の付加詞句となり動詞とともに動詞句(VP)を形成する。

本章では、動詞と前置詞句の意味表示の合成に関して(1)のような提案を行う。また、それに関わるヘッドの継承については(2)を提案する。

(1) Composition of Semantic Structures of Verbs and Adjunct PPs: Event Insertion( 動詞と付加詞前置詞句の意味表示の合成-事象の代入-)[7]動詞の下位事象が前置詞の語彙表示の項に代入されるとき、その前置詞句は付加詞として機能する。

(2) Composition and Headedness: The Inheritance of Headedness (ii) ( 合成とヘッド -ヘッドの継承(ii)-) [10]

a. 動詞の事象が別の語彙表示中の項に代入されるとき、代入された事象の中のヘッドが新たに形成された事象構造のヘッドとして機能する。そして、

b. ヘッドの事象のタイプがその事象を包含する事象に引き継がれる。

(3)では、移動動詞とin 前置詞句が共起している。6 章で見たように、ここでは共合成の操作は適用されない。

(3) The children ran in the park.「子ども達は公園の中で走った。」 [4]in の語彙表示を次のように仮定し、動詞の事象がin の項1(argument 1)に代入されると考える。(2)により、(3)の動詞句の事象タイプは、代入されたrun のヘッドの事象タイプが引き継がれて過程事象になる。

(4) in [6]

event struture = E1= e1: state

head: e1

argument structure = ARG1= x: entity/event

ARG2= y

qualia structure = FORMAL = at the inside of (e1, x, y)

(1)の事象の代入を仮定すると、日本語の「まで」句の振る舞いを説明することができる。「まで」句は、継続的時間副詞句とも時間限定副詞句とも共起できる、という点で英語のto 句と対照的である。5

(5) a. 太郎が岸まで30 分間泳いだ。 [15a]

b. 太郎が岸まで30 分で泳いだ。 [15b]

「30 分で」と共起することから「まで」の語彙表示にはある事象から別の事象への「推移」があると考えることができる。また、「まで」は活動や移動の事象に焦点を当てる。6

本章では、「まで」の語彙表示として(5)を提案する。

(5) made [33]

event structure = E1 = e1: state

D-E2 = e2 : state

e1 <∝ e2

head: e1

argument structure = ARG1= x: event

D-ARG2 = z

qualia structure = FORMAL = z ≠ y

ARG3 = y

qualia structure = AGENTIVE = at(e1, x, z)

FORMAL = at(e2, x, y)

(5)で「まで」のヘッドは事象1 に置かれている。事象1 が関係づけられる主体役割は、ある事象が(y 以外の)z という場所に存在することを示し、事象2 が関係づけられる形式役割はある事象がy という場所に存在することを示す。主体役割と形式役割の関係から、事象1 の結果、それに引き続いて事象2 が起こるということが表されている。

(5)の意味表示では、動詞「泳ぐ」の事象が「まで」の項1 に代入される。「まで」そのもののヘッドが事象1 なので、(5a)では東京に着くまでの移動が焦点化されて、「30 分間」と共起することができる。また、事象1 から事象2 への推移があるので、(5b)のように「30 分で」と共起することができる。

さらに、(1)と(2)を仮定することによって、影山(2002, 2003a)によって取り上げられている日本語の「中を」構文の文法性も説明される。

以上、7 章では(1)の合成の操作を提案し、付加詞として働く前置詞句、「まで」句と動詞の関係を明らかにした。

第8 章 Conclusion ( 結論)

本論文の目的は語の多義性を説明しうる、最小のレキシコンと合成の操作を持つ理論を確立することである。

語の多義性は動詞自身の語彙表示から生まれる場合と、語彙間の事象構造、特質構造、そして共合成、合成の操作の相互的な作用から生じる場合があることが明らかになった。

本論文では、特に空間関係の表現に焦点を当ててきた。本論文で明らかになったことを属性の同定、所有関係、時間関係の領域で検証することが重要である。また、共合成は動詞と、共起する名詞句との間でも適用する。共合成の機能や条件を広範囲の範疇に広げて検証することも必要である。これらの問題が今後の研究課題である。

1 混乱を避けるため、学位論文を「本論文」、この要旨を「本要旨」と呼んで区別する。2 本論文中の例文や語彙表示の番号を、本要旨では[ ]で示す。3 本論文では、1 つの語彙項目は1 つの語彙表示を持つというGL の方針に従って、1 つの語彙表示にまとめているが、本要旨では説明の便宜上、2 つに分けて示す。4 Nakajima (2001)は、場所格倒置構文に現れる動詞はその語彙表示に状態事象とat (e, x, y)を含むと提案している。5 影山・由本(1997)、影山(2003a)、松本(1997)他の指摘による。6 北原 (1998)による。
審査要旨 要旨を表示する

語の多義性は,狭い意味での理論言語学研究にとどまらず,計算言語学・自然言語処理や心理・神経言語学などの隣接諸分野にも大きな問いを提起する重要な問題である。特に述語の多義性は,意味の相違が統語分布の相違と密接に関わることから,様々な議論がなされてきた。磯野氏の提出論文Polysemy and Compositionality inGenerative Lexicon: Deriving Variable Behaviors of Motion Verbs in Relation toPrepositions (生成語彙論における多義と意味の合成性-前置詞との関係に基づく移動動詞の多様な振る舞いに関する考察-) は,動詞の多義性の問題に,意味の合成性 (compositionality) の観点から取り組んだ労作である。生成語彙論(Generative Lexicon) の枠組みを採用し、空間関係を表す表現、すなわち移動動詞と空間前置詞の精密化された語彙表示を提案すると同時に,語彙表示に作用する生成的な操作の機能と条件を明らかにしている。

本論文は,第1 章の導入のち、第2 章で理論の枠組みを導入、第3 章で問題点と提案の要約を行った後、4-7 章で具体的な言語現象の分析を通して理論上の提案を行い、第8 章で結論と残された問題について述べるという構成になっている。第4 章ではgrow などの状態変化動詞の分析を通して事象構造の検討を行い、ACT とは異なるタイプの過程事象としてMOVE が必要であることが論じられる。第5 章では、場所格交代を示す自動詞 (swarm など) および光や音の放出を表す動詞 (blaze, rumbleなど) の観察を通し、主要部が未指定となっている動詞の統語上のふるまいが説明される。第6 章では倒置構文の分析を通して,複数の述語の語彙意味表示から句の意味表示を導出する共合成の操作がどのような原則に従うか,また共合成によって生成される句の意味表示において主要部がどのように決定されるかを明らかにしている。第7 章では、日本語のマデ句などを取り上げ、合成の操作によって述語と付加詞の意味表示から句の意味表示を導出する手続きが提案される。

本論文の最大の成果は,部分(たとえば語)の意味がわかれば,そこから全体(たとえば文)の意味を導出できるとする意味の合成性の立場を突き詰めてゆくことで,どこまで多義の問題を解決できるかを具体的に示した点にある。句の意味を合成する際に、要素となる語の内部構造まで言及する共合成の操作を採用する(すなわち、古典的な形式意味論とは立場を異にする)ことによって、あくまで合成的に意味計算をする(すなわち、要素から導出されない「全体の意味」を想定する認知言語学的な構文文法とは相容れない)立場から、動詞の意味の多様性とそれに伴う統語分布の多様性を生み出す文法のメカニズムを、種々の具体例の詳細な分析から解き明かした点が高く評価できる。

第二に、先行研究では動詞に比して詳細に論じられることの少なかった前置詞・後置詞の意味分析を大きく取り上げ、その意味が動詞句全体の意味にどのように関与するのかを具体的に明らかにした点で、本論文は意味理論に大きく貢献している。前置詞句・後置詞句が動詞句の意味に関与することは意味論研究においては周知の事実であるが、その具体的なメカニズムは未解決の部分が大 きい。本論文では、限られた数の前置詞・後置詞しか扱われていないものの、その意味と動詞の意味との相互作用が詳細な事実観察に基づいて明らかにされており、意味合成の仕組みの一つの側面が浮き彫りにされている。

第三に、生成語彙理論の枠組みに対する貢献が評価できる。この理論は、Pustejovsky (1995)で提案され、理論言語学のみならず自然言語処理の分野にも大きなインパクトを与えたものであるが、その影響の大きさにもかかわらず、理論の細部は必ずしも十分に展開されては来なかった。特に、事象構造における主要部決定の仕組み や共合成の操作にかかる制約など、この理論がどのような予測をなし得るかに関わるという意味で重要でありながら、その詳細が解明されていなかった点に焦点を当て、具体的な言語事実の分析を通して明らかにしたことは、この理論の進展に大きく寄与するものである。

このように本論文の学術上の意義は高く評価されるが、残された問題も多く,審査会でもいくつかの指摘がなされた。具体的な分析上の問題としては,事象構造上でどこから使役の意味が生じるのか説明が不十分であること,主要部の指定・無指定の差は各語彙項目に個別に規定されているが、それぞれの語のより深い意味分析からこのような区別を導出する方向を模索すべきであること,さらに,語の意味からだけは合成できず、構文の意味を取り入れているかに見える分析が一部に含まれるが、類例を考慮に入れれば前置詞の意味の再検討によって解決する可能性が考えられること,などである。また,一部に概念規定の不明確さが残ることが指摘されたほか,古典的形式意味論や構文文法など、対立する理論上の立場との対比をより明確に打ち出すような論述方法をとるべきであるとの助言もあった。ただし、これらの指摘された問題の多くは、磯野氏の研究の欠点というよりもむしろ、今後展開して行くべき道の広がりの可能性を示唆するものであり、学位論文としての本論文の価値を損なうものではない。

以上の評価から、本審査委員会は磯野氏の提出論文について博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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