学位論文要旨



No 124380
著者(漢字) 中島,千尋
著者(英字)
著者(カナ) ナカジマ,チヒロ
標題(和) 時間的階層のある多体系の相転移現象の統計力学的研究
標題(洋)
報告番号 124380
報告番号 甲24380
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第903号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 福島,孝治
 東京大学 教授 金子,邦彦
 東京大学 准教授 加藤,雄介
 東京大学 准教授 国場,敦夫
 東京大学 准教授 佐々,真一
内容要旨 要旨を表示する

本研究は、特徴的な時間スケールが互いに大きく隔たった複数の自由度を持ち、なおかつそれらがスケールを越えて相互に影響し合うような多体系の相転移現象に関する研究である。ダイナミクスの時間スケールが速い自由度f と遅い自由度s による系を考え、両者の時間スケールは大きく隔たっているものとして断熱近似を行った次のような記述形式を考える。

Tds/dt=d/ds(Ff(s)-logP(prior)(s))+η(t) (1)

<η(t)η(t)>= 2Tsδ(t -t) (2)

Ff (s) =-Tf log Trf e(-βfH(f,s))(3)

式(1) は遅い自由度の従う確率過程であり、η(t) は式(2) に従って温度Ts で特徴づけられるホワイトノイズである。自由度s が式(1)、(2) で記述される確率過程に従う一方で、自由度f は、固定されたs の配位のもとで素早く定常状態に至る。この定常状態は全系のハミルトニアンH(f, s) と温度Tf のもとのカノニカル分布で表されるとする。式(3) はf についてのノニカル分布から定義した部分自由エネルギーである。ここでβf = 1/Tf とする。自由度s はf を含まない事前分布P(prior)(s) に加え、f に関する部分自由エネルギーを有効ポテンシャルとして受ける。従って、s はf の統計的性質の影響を受けながら運動する様になっている。本論文では、このような時間スケールの階層を内包するような系の示す相転移現象を考える。この形式の模型をpartially annealed 模型と呼ぶ。神経回路網の自己組織的な振る舞い、タンパク質やリガンド- レセプター結合のデザイン問題など、限定的な局面ではあるが、このような記述形式が適用できる系がある。

partially annealed 模型はスピングラスや構造ガラスなどの強い空間非一様性を持った系の取り扱いから派生した模型であり、速い自由度と遅い自由度の相互依存性が考慮されている点が特徴である。この模型には、通常の平衡系では見られないタイプの相転移が存在しうる。

本論文ではまず、partially annealed 模型の相転移における平衡状態では見られない振る舞いの端的なものとして、負の潜熱を伴う1 次転移を取り扱う。遅いスピン自由度と速い粒子自由度が格子上の各点にあるスピン格子ガス系で2 種類の自由度がそれぞれ異なる熱浴温度にある場合に、負の潜熱を伴う1 次転移が存在することを示した先行研究がある。筆者は、先行研究を受けて拡張したスピン格子ガス模型を考え、平均場模型の範囲で解析を行った。熱浴温度が2 つあるpartially annealed 模型では、速い自由度、遅い自由度それぞれに関連して2 つの部分にエントロピーを分解できる。この分解された2 つのエントロピーの1 次転移における飛びの値と前述の2 つの熱浴それぞれの温度に関係して、Clausius-Clapeyron関係式を得ることができた。これにもとづき、負の潜熱は、相が移る時に、2 つのエントロピーの飛びの符号が互いに逆である場合に起こることがわかった。これにより、先行研究で言及されていた、負の潜熱の発生にはハミルトニアンの寄与に競合が必要であるという点を、エントロピーの寄与の競合という形で整理した。また上記のClausius-Clapeyron関係式をもとに、1 次転移の相境界の形状と潜熱の出現条件に関係があり、負の潜熱の生じる領域を相境界の形状から特定できることが分かった。また、同じ自由度を持ち、時間スケールの大小関係が互いに逆である場合の二つのスピン格子ガス模型の相転移の振る舞いをそれぞれ調べ、時間スケールの大小関係に依存して相転移の振る舞いに定性的な違いが生じることを明らかにした。

加えて、負の潜熱に対する短距離揺らぎの影響についての考察も行った。平均場模型は1体化問題として定式化されるため空間揺らぎは考慮されない。そのために内部エネルギーや比熱などの熱力学的な量が実空間における系とはかけ離れた振る舞いを示す。そこで、空間揺らぎを取り込む一歩としてスピン格子ガスのベーテ近似による解析を行い、相図を得た。

また、本論文ではpartially annealed 模型の臨界現象の有限次元揺らぎの問題も考える。partially annealed 模型の相転移に関しては多くの先行研究があるが、そのほとんどは平均場模型に関するものであり、有限次元系の臨界現象について調べられた研究は少ない。筆者らは、神経回路網の記述に用いられるpartially annealed spin glass 模型のMigdal-Kadanoff繰り込み群による解析を行った。partially annealed spin glass 模型はquenched spin glass 模型にボンド自由度の熱的相関の効果を導入して拡張した模型である。本研究では、partially annealed spin glass 模型を階層格子上で考え、Migdal-Kadanoff 繰り込み変換により、固定点の図、相図、相関長臨界指数を求めた。

そこで得られた相図では、速い自由度であるスピン熱浴の温度を下げることでスピングラス相から強磁性相への転移が見られる。これに関しては、西森ラインの性質から一般的な制限が課されるquenched spin glass 模型の相図との比較を行い、partially annealed spin glass 模型のスピングラス-強磁性相転移がquenched spin glass 模型とは定性的に異なる振る舞いの一つであることが分かった。ボンド自由度の熱的相関の有無がquenched spin glass模型とpartially annealed spin glass 模型の顕著な違いであることから、このスピングラス-強磁性転移がボンド自由度の相関に起因するものであることが言える。強磁性-スピングラス転移に関する相関長の臨界指数の値も計算し、少なくともMigdal-Kadanoff ユニバーサリティクラスの範囲ではこの転移の指数の値が常磁性-強磁性転移の指数の値と一致するという結果が得られた。

またquench spin glass 模型ではスピングラス秩序が存在しない分岐数q = 2 の階層格子(有効次元deff = 2 の格子)において、partially annealed spin glass 模型では有限温度でスピングラス転移が見られた。これは、ボンド自由度の相関が導入されたpartially annealed spin glass 模型の場合には2 次元格子上でもスピングラス相が有限温度で安定に存在する可能性を示しており、スピングラス転移の下部臨界次元の値が変化することを示唆している。

上記の結果を通して、遅い変数による有効記述では見いだすことができない、遅い自由度の相関が存在しない系では起こりえないという意味で、時間スケールをまたいだ相関や遅い変数間の非自明な相関が重要な影響をもたらしていると考えられる相転移現象の存在を示すことができた。

審査要旨 要旨を表示する

統計力学はミクロな自由度とマクロな物理量を繋げる理論形式を与え,多体問題の解析方法の発展とともに平衡状態を記述する理論として成功を収めている.しかし,近年ミクロとマクロの中間のスケールに構造が現れたり,階層が複数積み重なったマルチスケールの自然現象を取り扱う必要性が高まり,それに対する理論体系の確立が望まれている.一般的には,ある階層での有効理論を考え,そこで決まる物理量から粗視化された次の階層の有効理論の物理係数を与える.ところが,このような階層間の接続が必ずしも有効でない問題がある.例えば,時間スケールは分離されても,空間スケールを分離することができずに,微視状態を特徴づける自由度が時間スケールを超えて相互に絡み合う場合である.このような問題に対して,特に時間スケールの異なる二つの階層を考え,それぞれの階層の自由度に別々の熱浴を結合した系は二温度系,あるいは部分的焼き鈍し系と呼ばれるが,そこで実現する相転移現象が本論文で考察される問題である.

本論文は4 章からなり,第1 章で本論文の背景が序論として述べられ,第2 章でその理論的形式とその帰結がまとめられ,簡単な統計力学的模型の平均場解析が示されている.また,第3 章でミグダル-カダノフくりこみ群による相転移の研究について,第4 章にまとめと展望が述べられている.

まず,第1 章に具体的な例を挙げながら,時間スケールの階層を越えた多体問題の理論的枠組の確立の重要性が示されている.神経回路網ではニューロンが速い自由度として,シナプス結合を遅い自由度として考える結合の設計問題がその例である.遅い自由度のダイナミクスは必ずしも自明ではないが,速い自由度からの平均的な力を受けるとするモデルを考える.このとき,時間スケールが完全に分離すると仮定することで,問題を著しく簡単化することができる.この仮定とランダム系で発展したレプリカ法を組み合わせることで,時間スケールの異なる二つの階層のある問題が,ある種の平衡統計力学の問題と対応づけることができる.このときレプリカの個数は二つの温度の比で形式上あらわされ,この問題は,これまで研究されてきたランダム系の統計力学の問題をレプリカ数ゼロの極限に包含する広いクラスの平衡統計力学の問題とみなせることが指摘されている.

第2 章では,上述の問題の一般的な理論的形式論を展開している.特に,平衡系として表現できることの帰結として,自然に熱力学構造を持ち,例えば熱力学でのクラウジウス・クラペイロン関係式に対応する関係式を導くことができる.一方,二つの熱浴を持つ特殊性を反映して,通常の熱力学では起こることのない負の潜熱を伴った一次転移の存在が先行研究で指摘されている.本論文では先の関係式により,具体的な模型に依らずに,負の潜熱の出現条件と相図の形状を関連付けることに成功している.さらに考察を深め,負の潜熱が出現するためには二つの自由度に対応するエントロピー間に競合関係が必要であることを見出した.これは時間スケールを越えた自由度間のフラストレーションが重要であることを示唆している.また,具体的にスピンと格子ガスの2 つの自由度を持つ模型の平均場解析により,相図と熱力学量の振る舞いが調べられた.その結果,負の潜熱を示す模型は先行研究で調べられた模型を含む広いクラスを持つことが示された.さらに,平均場解析を超えて多体効果による揺らぎを取り込む試みとしてベーテ近似による解析も行われ,負の潜熱はやはり存在することが確認された.スピン模型の平均場解析では高温相で相関効果が全く取り込まれないために,一次転移のように自由エネルギーの交差を見るためには問題が生じることがあるが,ベーテ近似による解析はその疑念を減らし,有限次元系での実現の可能性を高めた点で意義がある.

第3 章では,スピングラス模型に対する二温度系問題をミグダル・カダノフくりこみ群により調べられている.この問題では,スピンを速い自由度として,スピン間相互作用を遅い自由度として考えられており,スピンの熱揺らぎの効果を受けてどのような相互作用系が実現するのかというスピン系の設計問題になっている.これはまたレプリカ法におけるレプリカ極限をとる前の物理系を表している.実際の解析では,このくりこみ群が正確に遂行できる階層状の格子を考えている.通常のランダム系ではレプリカ極限を理論の初期段階でとることにより,計算が簡単になることが多いが,ここでは一般のレプリカ数での解析が必要であり,幾分困難である.本論文では部分和をとる際に転送行列法を用いることで一般のレプリカ数へ接続可能なくりこみ群の方程式を得ている.この方程式の固定点から相を同定し,下部臨界次元や相図の形状に関して,非自明な相関の効果による臨界特性の変化をみることができた.これまでの研究から通常の2 次元格子上のランダムスピン系では有限温度でのスピングラス相転移は起きないとされてきたが,今回の結果ではレプリカ極限であるランダムスピン系では相転移しないものの,2 次元系に対応する格子でも無限小の摂動で有限温度相転移が起きることを示唆している.これは遅い自由度であるスピン間相互作用が速い自由度であるスピンの熱揺らぎを介して相関を持つことにより相転移を導いたことになる.ただし,ここで得られた結果はくりこみ群が正確になる特別な格子上であるために,現実的な有限次元系の知見として確立するためにはモンテカルロ法による直接数値計算を含めたさらなる研究が必要である.

以上のように,本論文は,時間スケールに階層がある系の多体問題についての理論的研究として,時間スケールを完全に分離する理想極限をモデル化し,平衡統計力学の技法を駆使することにより,新奇な臨界現象の解析を行っている.これまでの平衡相転移現象とは異なる系の相転移理論の展開やランダム系の統計力学に新たな視点を与える可能性も含め,当該研究分野の進展に重要な寄与があると考えられる.

なお,本論文の内容は,福島孝治氏との共同研究であるが,論文提出者が主体になって解析を行ったものであると判断される.また,本論文の第2 章が論文として出版されており,第3 章の内容は投稿準備中である.したがって,本論文は博士(学術) の学位を授与するにふさわしい内容であると審査委員会は全員一致で判定した.

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