学位論文要旨



No 124382
著者(漢字) 森前,智行
著者(英字)
著者(カナ) モリマエ,トモユキ
標題(和) 量子多体系におけるマクロに異なる状態の重ね合わせ
標題(洋) Superposition of macroscopically distinct states in quantum many-body systems
報告番号 124382
報告番号 甲24382
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第905号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 清水,明
 東京大学 准教授 村尾,美
 東京大学 准教授 国場,敦夫
 東京大学 准教授 加藤,雄介
 東京大学 准教授 福島,孝治
内容要旨 要旨を表示する

本論文では、量子多体系におけるマクロに異なる状態の重ねあわせを研究する。「状態の重ね合わせ」というのは古典論には無い量子論独特の概念であり、数学的には、系の状態がヒルベルト空間のベクトルで表されること、物理的には、系は一般にはたとえ純粋状態でも確定した一つの状態には無い、ということを意味する。このような概念は我々の日常生活での常識から考えると非常に奇妙なものであるが、実際ミクロな世界を正確に記述するためには必要不可欠なものなのである。

量子論がミクロな世界からマクロな世界までのありとあらゆる全ての物理系を記述する理論であることを期待するならば、この奇妙な「状態の重ね合わせ」の概念も、原子の世界だけでなく、我々が普段目にしているマクロな世界でも成り立つはずである。このような、「マクロに異なる状態の重ねあわせ」に対する興味は、量子論の黎明期から今日にいたるまで続くものであり、数多くの研究がなされてきている。例えばLeggettは、disconnectivityと呼ばれる量を提唱し、超伝導やBECなどの物性系において、マクロに異なる状態の重ねあわせを定量的に評価する基準を導入した[A. J. Leggett, Prog. Theor. Phys., Suppl. 69, 80 (1980)]。また、Merminは多地点間のベルの不等式の破れを見ることにより量子多体系に現れるマクロに異なる状態の重ね合わせを検出する方法を開発した[N. D. Mermin, Phys. Rev. Lett. 65, 1838 (1990)]。これらの研究は、その後多くの研究者達によって、今日まで、改良や発展が続けられている。

量子多体系におけるマクロに異なる状態の重ね合わせの研究は、基礎的な興味だけで無く、近年注目を浴びている量子情報処理の分野においても非常に重要である。例えば、量子的な計算機は現在の古典計算機では解くことのできない問題を効率的に解くことができるということが知られている。このような量子計算機による計算の高速化においては、マクロに異なる状態の重ね合わせが積極的に利用されていることが分かっており、したがって、これからの量子計算機の実験的実現や新たな量子計算アルゴリズムの開発等の研究を進めるうえでは、一般の量子多体系においてマクロに異なる状態の重ね合わせの深い理解を得ることは非常に重要である。

本論文ではこのような背景のもと、量子多体系におけるマクロに異なる状態の重ね合わせの研究を行った。本論文では、第一章でイントロダクションを述べたあと、全体を大きく三つの部に分けて議論を展開する。

まず、第一部(第二章)では、純粋状態におけるマクロに異なる状態の重ね合わせを分析する。純粋状態においては、物理量が揺らぐことは状態の重ね合わせが存在することを意味するので、マクロ物理量の揺らぎを定量化することによりマクロに異なる状態の重ね合わせを検出することが可能である。実際、清水と宮寺により、マクロ物理量の揺らぎをうまく定量化する量、「指数p」が提唱されている[A. Shimizu and T. Miyadera, Phys. Rev. Lett. 89, 270403 (2002)]。そこで我々は、指数pを軸として純粋状態におけるマクロに異なる状態の重ね合わせの分析を進めていく。まず始めに、指数pの定義および物理的意味、VCM法を用いた指数pの効率的な計算方法、指数pと量子多体系の安定性との関係、等についてこれまでの先行研究を簡単に復習する。その後、指数pの有用性を理解するために、具体的に物性物理の系や量子計算機等の量子多体系に現れる純粋状態の指数pを計算する。指数pを計算することにより、いくつかの重要な多体状態において実際にマクロに異なる状態の重ね合わせが現れることを確認することができる。さらに、指数pがそれらの多体系の持つ様々な物理的側面を明らかにしてくれることも分かる。また我々は、指数pの物理的意味の深い理解を得るために、指数p自身の性質についても分析する。その結果、指数pはマクロに異なる状態の重ね合わせの指数としてだけでなく、それ自身が「量子性」の尺度として幾つかの面白い性質を持っていることを見る。例えば、指数pはマクロ物理量の揺らぎだけではなく、マクロ物理量と状態との非可換さを用いても定義できることを指摘する。これにより、マクロに異なる状態の重ね合わせは、マクロ物理量と状態の非可換性からも判断することができることが分かる。また、部分系にCPオペレーション(最も一般的な量子操作のこと)を作用させたときに指数pがどう変化するかということについても考え、CPオペレーション前後の指数pの大きさ、CPオペレーションの成功確率、CPオペレーションを行う際にアクセスする部分系の体積、との間にはトレードオフの関係が成り立つことを示す。さらに、指数pと量子情報理論で使われているエンタングルメントの尺度との間の関係についても調べる。エンタングルメントとはある種の量子的な相関であり、量子情報処理を行う際のリソースと考えられている。エンタングルメントを定量化する尺度には様々な種類があるが、指数pはそのなかのあるものとは密接に関係しており、またあるものとはそれほど関係が無いということが分かる。これにより、マクロに異なる状態の重ね合わせがどのような意味で「マクロに大きな」エンタングルメントを持っているのかということを明確にすることができる。最後に、今後の研究課題として、指数pはトポロジカル系やクラスター量子計算機などの「エキゾチック」な量子多体系に隠されたマクロに異なる状態の重ね合わせを検出することができないことを指摘し、このようなマクロに異なる状態の重ね合わせを検出するには指数pをどのように拡張すればよいのかということについて議論する。

第二部(第三章、第四章)においては、混合状態におけるマクロに異なる状態の重ね合わせを分析する。混合状態の場合には、物理量の揺らぎは必ずしも重ね合わせの存在を意味しないので、指数pはもはや役にたたない。そこで我々は第三章において、新しい量「指数q_2」を導入する。指数q_2はマクロ物理量と状態の非可換さを1-normで定量化したものであり、混合状態においてもマクロに異なる状態の重ね合わせを検出することができる。我々は、まず始めに指数q_2の定義とその物理的意味を説明した後、具体例もまじえつつ、指数q_2の持つ幾つかの性質を調べる。例えば、q_2は任意の古典混合に対して増加しないことを示せる。これは、どんな「量子性」の尺度も持つべき基本的な性質である。また、指数pの時と同様に、部分系に対するCPオペレーションを考えた場合、CPオペレーション前後でのq_2の値、CPオペレーションの成功確率、CPオペレーションが作用する部分系の体積、の間についてのトレードオフ関係式を導くことができる。さらに、指数q_2も指数pと同様に、量子多体系の安定性に密接に関連していることを見る。最後に、具体例として、量子計算のアルゴリズムの一つである、量子数え上げアルゴリズムに現れる状態に対して指数q_2を計算し、実際に第二レジスターにおいてマクロに異なる状態の重ね合わせが出現することを示す。

混合状態の分解の非一意性が、混合状態におけるマクロに異なる状態の重ねあわせの分析を、純粋状態におけるそれと比べてはるかに複雑にしており、そのため指数q_2以外にも様々な指数を考えることができる。そこで我々は第四章において、特に有用な4つの指数、q_1、q_2'、q_c、 q_s、を紹介し、それらの物理的意味や、指数q_2との関係、それぞれの指数の長所、短所について議論する。

最後の第三部(第五章)においては、マクロに異なる状態の重ね合わせの可視化を考える。第一部、第二部で考えてきた指数たちは、マクロに異なる状態の重ね合わせの有無を判定することはできても、その重ね合わせがどういう構造をしているのか、どういう物理的意味を持つのか、という点については何も教えてくれない。そこで、それらの指数を用いて検出したマクロに異なる状態の重ね合わせを十分に理解するためには、その状態を可視化することにより、重ね合わせの構造を直感的に理解することが必要である。我々は、二つの非可換なマクロ物理量の準同時確率分布を導入し、それをプロットすることによってマクロに異なる状態の重ね合わせを可視化する方法を提唱する。この方法においては、可視化に適した物理量を系のサイズの多項式時間で見つけることができるというメリットも有る。さらに、実際にこの方法を用いて、物性系や量子計算機等の量子多体系に現れるマクロに異なる状態の重ね合わせを可視化し、これらの多体系に現れるマクロに異なる状態の重ね合わせの構造や物理的意味を直感的に理解する。最後に、可視化に用いた準同時確率分布自身の性質や物理的意味についても考察を行う。この準同時確率分布は一般には負の値も取りえるが、その負の値はウィグナー分布関数のそれのように、状態の何らかの「量子性」を表していると期待できる。そこで我々は、この負の部分の振る舞いやその物理的意味、ウィグナー分布関数との類似性や相違点等について考察を行う。また、量子系は古典系と異なり、同じ量の測定でも考える測定モデルによって異なる(準)同時確率分布を与える。これは、同時測定される二つの物理量が一般には交換しないためである。我々は、この可視化に用いた準同時確率分布の物理的意味を明確にするために、この準同時確率分布がどのような測定モデルに対応するのかということについても議論する。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は6章からなり、第1章は序論、第2章は純粋状態に対する指標p について、第3章は混合状態に対する指標q2 について、第4章は混合状態に対する他の指標について、第5章はマクロに異なる状態の重ね合わせ状態の可視化について、第6章はまとめと結論、をそれぞれ論じている。

本論文では、マクロに異なる状態を重ね合わせた量子状態について研究している。量子論がそのような奇妙な状態を許すことを最初に指摘したのは、シュレディンガーであった。しかしその当時は、よもやこのような状態が実際に作れるとか、物理的に重要な状態であるとは考えられておらず、半ば形而上学的な議論に留まっていた。ところが、時が下るに従って、このような状態の重要性が認識されるようになってきた。

たとえばA. J. Leggett は、量子論(特に重ね合わせの原理)がマクロレベルにまで適用可能であることの、実験的検証が未だになされていないことを指摘し、マクロに異なる状態を重ね合わせた量子状態について適切な実験を行えば、検証が可能であることを指摘した。また、N. D. Mermin は、そのような状態ではベルの不等式が指数関数的な大きさで破れることを指摘した。さらに、清水・宮寺らは、量子系の相転移の問題でも、そのような状態が本質的な役割を演ずることを指摘した。また、浮穴・清水らは、そのような状態が量子計算のスピードアップに必須であるということを指摘した。

このような重要性に鑑み、本論文は、マクロに異なる状態を重ね合わせた量子状態について詳細な研究を行ったものである。

第1章では、このような背景と動機を説明している。さらに、きちんとした解析をするためには、まずこのような状態を一般的な定義することが必要であるにも関わらず、従来の定義には種々の問題点があって、そのままでは解析に耐えられないことも指摘し、まず一般的な定義をすることが必要であることも述べている。

第2章では、純粋状態におけるマクロに異なる状態の重ね合わせを分析している。純粋状態においては、物理量の揺らぎは状態の重ね合わせの存在を意味するので、マクロ物理量の揺らぎを定量化することによりマクロに異なる状態の重ね合わせを検出することが可能である。実際、清水と宮寺によりマクロ物理量の揺らぎをうまく定量化する量「指数p」が提唱されている。そこで本論文では、指数p を軸として純粋状態におけるマクロに異なる状態の重ね合わせの分析を進めている。指数p の定義および物理的意味、効率的な計算方法、量子多体系の安定性との関係、等についてのこれまでの先行研究を簡単に復習した後、指数p の有用性を理解する為に、具体的に物性系や量子計算機等の量子多体系に現れる純粋状態の指数p を計算する。指数p を計算することにより、幾つかの重要な多体状態において実際にマクロに異なる状態の重ね合わせの出現を確認するとともに、指数p がそれらの多体系の持つ様々な物理的側面を明らかにしてくれることも見る。また本論文は、指数p の物理的意味の深い理解を得るために、指数p 自身の性質についても分析する。その結果、指数p はマクロに異なる状態の重ね合わせの指数としてだけでなく、それ自身が「量子性」の尺度として幾つかの面白い性質を持っていることを見る。例えば、指数p はマクロ物理量の揺らぎだけではなく、マクロ物理量と状態との非可換さを用いても定義できることを指摘する。これにより、マクロに異なる状態の重ね合わせは、マクロ物理量と状態の非可換性からも判断することができることが分かる。また、部分系にCP オペレーション(最も一般的な量子操作)を作用させた時に、全系の指数p がどう変化するかということについても考え、CP オペレーション前後の指数p の大きさ、CP オペレーションの成功確率、CP オペレーションを行う際にアクセスする部分系の体積、との間にはトレードオフの関係が成り立つことを示す。さらに、トポロジカルオーダーを持つスピン系やクラスター量子計算機等の「エキゾチック」な量子多体系においては、量子性が多地点間に隠されている為、一見すると指数p は役に立たないように見えるが、実は局所演算子を再定義して指数p を考えることにより、このような多体系でもマクロに異なる状態の重ね合わせを検出することができるようになることを指摘する。最後に、指数p と量子情報理論で使われているエンタングルメントの尺度との間の関係についても調べる。エンタングルメントとはある種の量子的な相関であり、量子情報処理を行う際のリソースと考えられている。エンタングルメントを定量化する尺度には様々な種類があるが、指数p はその中のあるものとは密接に関係しており、またあるものとはそれほど関係が無いということが分かる。これにより、マクロに異なる状態の重ね合わせがどのような意味で「マクロに大きな」エンタングルメントを持っているのかということを明確にすることができる。

第3章では、混合状態に対する、マクロに異なる状態の重ね合わせの指標q2 について記述している。混合状態の場合には、物理量の揺らぎは必ずしも重ね合わせの存在を意味しないので、指数p はもはや役にたたない。そこで本論文では、第三章において、新しい量「指数q2」を導入する。指数q2 はマクロ物理量と状態の非可換さを1‐norm で定量化したものであり、混合状態においてもマクロに異なる状態の重ね合わせを検出することができる。本論文は、まず始めに指数q2 の定義とその物理的意味を説明した後、具体例も交えつつ、指数q2 の持つ物理的性質を調べる。例えば、q2 は任意の古典混合に対して増加しないことを示せる。これは、どんな「量子性」の尺度も持つべき基本的な性質である。また、指数p の時と同様に、部分系に対するCP オペレーションを考えた場合、CP オペレーション前後でのq2 の値、CP オペレーションの成功確率、CP オペレーションが作用する部分系の体積、の間についてのトレードオフ関係式を導くことができる。さらに、指数q2 も指数p と同様に、量子多体系の安定性に密接に関連していることを見る。最後に、具体例として、量子計算のアルゴリズムの一つである、量子数え上げアルゴリズムに現れる状態に対して指数q2 を計算し、実際に第二レジスターにおいてマクロに異なる状態の重ね合わせが出現することを示している。

第4章では、混合状態に対する他の指標について述べている。、混合状態の分解の非一意性が、混合状態におけるマクロに異なる状態の重ね合わせの分析を、純粋状態におけるそれと比べてはるかに複雑にしており、そのため指数q2 以外にも様々な指数を考えることができる。そこで、特に有用な4つの指数、q1、q02、qc、qs、を紹介し、それらの物理的意味や、指数q2 との関係、それぞれの指数の長所・短所について議論している。

第5章では、マクロに異なる状態の重ね合わ状態の可視化について述べている。第4章までに述べられた指数たちは、マクロに異なる状態の重ね合わせの有無を判定することはできても、その重ね合わせがどういう構造をしているのか、どういう物理的意味を持つのか、という点については何も教えてくれない。そこで、それらの指数を用いて検出したマクロに異なる状態の重ね合わせをなんらかの方法で可視化することにより、重ね合わせの物理的構造を直感的に理解することが必要である。本論文では、二つの非可換なマクロ物理量の準同時確率分布Ξ を導入し、それをプロットすることによってマクロに異なる状態の重ね合わせを可視化する方法を提唱する。この方法においては、可視化に適した物理量を系のサイズの多項式時間で見つけることができるというメリットが有る。さらに、実際にこの方法を用いて、物性系や量子計算機等の量子多体系に現れるマクロに異なる状態の重ね合わせを可視化し、これらの多体系に現れるマクロに異なる状態の重ね合わせの構造や物理的意味を直感的に理解する。また、可視化に用いた準同時確率分布Ξ 自身の性質や物理的意味についても考察を行う。Ξ は一般には負の値も取り得るが、その負の値はWigner分布関数のそれのように、状態の何らかの「量子性」を表していると期待できる。そこで本論文では、この負の部分の熱力学極限での振る舞いやその物理的意味、Wigner 分布関数との類似性や相違点等について考察を行っている。また、量子系は古典系と異なり、同じ量の測定でも考える測定モデルによって異なる(準) 同時確率分布を与える。これは、同時測定される二つの物理量が一般には非可換なためである。本論文では、Ξ の物理的意味を明確にする為に、Ξ がどのような測定モデルに対応するのかということについても議論している。

以上のように、本論文は、マクロに異なる状態を重ね合わせた量子状態について、その定義から性質・可視化まで、詳しく解析したものになっており、当該分野の研究の進展に重要な貢献をしている。

なお、本論文は、清水明氏との共同研究であるが、論文提出者が主体になって分析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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