学位論文要旨



No 124528
著者(漢字) 辻本,久美子
著者(英字)
著者(カナ) ツジモト,クミコ
標題(和) メコン河下流域における湖と大気水循環の相互作用と地域水利用への影響
標題(洋) Land-Lake-Atmosphere Interaction in the Lower Mekong Basin and its Effects on Local Water Use
報告番号 124528
報告番号 甲24528
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6962号
研究科 工学系研究科
専攻 社会基盤学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小池,俊雄
 東京大学 教授 佐藤,愼司
 東京大学 教授 沖,大幹
 東京大学 教授 中山,幹康
 東京大学 教授 高薮,縁
 東京大学 教授 溝口,勝
 東京大学 講師 知花,武佳
 首都大学東京 教授 松本,淳
内容要旨 要旨を表示する

本論文は,地球温暖化やそれに伴う水問題が世界各地で深刻化している現代社会において,気候や降水パターンの変化に対する人々の関心が高まってきている中,「地域の気候や降水パターンの変化をもたらす原因は必ずしも温室効果ガスによる地球温暖化だけではなく,地域の土地利用変化による影響もそれと同様に重要である」というRoger A. Pielkeらの主張と同じ視点に立ち,季節的に拡縮する巨大湖沼の周辺域を対象として,大気-陸面-湖面の相互作用が周辺域の降水に対してどのような影響を及ぼしているのか,また,こうした局地循環によって生じている降水が地域住民の水利用に対してどのような役割を果たしているのか,さらには,湖面積が将来的に変化した場合には周辺域の降水パターンや水利用にどのような影響が生じる可能性があるのか,というテーマについて,地球観測データの解析や数値モデルによる実験,さらに現地での調査・観測を通して取り組んだ.

本研究の対象地域は,インドシナ半島南部のカンボジア,トンレサップ湖周辺域である.この地域は,中国・タイ・ラオス等の新興国を流れる国際河川メコン河の下流に位置していることから,上流国や自国内の都市化に伴う水資源開発・水力発電開発といった人間活動が,様々な環境因子に対して影響を及ぼすことが懸念されている.特にトンレサップ湖に関しては,メコン河と接続しメコン河の自然の遊水地的存在であることから,湖の面積はメコン河の水位に大きく依存しており,現況では乾季から雨季にかけて5 倍程度に大きく変化している.それゆえ,メコン河の流況が変化すればトンレサップ湖の面積をも変化させ,延いてはトンレサップ湖周辺域の水文気象環境に大きな影響を及ぼす可能性がある.

こうした背景の中で,本研究は,トンレサップ湖周辺域の大気水循環がどのようなメカニズムで形成されているのかを明らかにすることによって,本地域やその上下流域での持続的発展に貢献し得る,今後の開発に伴う影響の一部に関する科学的見地からの情報を提供することを目的として行った.

湖の存在と地域水利用との関係という観点から得られた本論文の成果は以下の通りである.

1)トンレサップ湖と周辺陸域の乾季少量降水との関連性を示した.

トンレサップ湖が,プレモンスーン期,ポストモンスーン期ともに明瞭な湖陸循環を生起し,この湖陸循環がそれぞれの季節において異なる様態で水蒸気の空間分布に影響を与え,さらには周辺陸域の対流活動や降水にも影響を与えている可能性が高いことを示した.また,湖面積が変化すれば,周辺陸域の降水量も変化し得ることを示した.

とりわけ,ポストモンスーン期に湖西岸の平野部でしばしば生じる深夜の降水は,トンレサップ湖とカンボジア国内のCardamomes 山地,ベトナムからラオスにかけてのAnnam 山脈という3 者の相互作用によって生じている可能性が非常に高いことを示し,現地雨量計データの解析と領域気象モデルによる数値実験結果からそのメカニズムを明らかにした.

このような「乾季の雨」は,カンボジアの地域住民や気象局・水文河川局の職員らにも広く知られており,現地語で「乾季の雨」を意味するPhleang Khokerという言葉はhappiness を象徴する比喩的表現として用いられているそうである.本論文の結果は,カンボジアの人々にhappinessをもたらしている乾季の雨,特にポストモンスーン期の雨が降るメカニズムを明らかにし,それがカンボジアの人々にとって馴染みの深いトンレサップ湖によって生起されていることを示したものである.

2)湖水利用という直接利用形態以外にも,トンレサップ湖が乾季水利用に対して貢献している可能性が高いことを示した.

大規模利水システムの整備率が極めて低いカンボジアでは,雨水や近隣小河川,湖などの天水に水利用を大きく依存している.農業用水も例外ではなく,自給自足率が高いカンボジアでは,雨季のみならず乾季にも,利用可能な僅かな天水を頼って農業が営まれている地域が多い.こうしたカンボジアにおける乾季水利用の観点からは,これまでは,湖辺での湖水利用の農業が着目されてきた.しかし本論文の結果からは,湖水を利用できる湖辺域のみならず,湖からやや離れた陸域においても,湖と大気水循環の相互作用によって生起された雨が降り,それが山岳地域の河川流量を増加させることによって,湖が乾季水利用に貢献している可能性が示された.

なお,第1点目で述べたトンレサップ湖西岸域は,カンボジア最大の米倉として知られている.灌漑整備率が低いこの国において,湖による局地循環性の雨がポストモンスーン期にこの地域に降ることが,この地域の豊かな農業生産を支えている可能性が示唆される.

以上の検討の過程で得られた,大気-陸面相互作用あるいは水文気象学分野における科学的成果は以下の通りである.

1)ポストモンスーン期の夜間静穏日に湖上で励起され移動する対流システムの存在を指摘し,そのメカニズムを明らかにした.

ポストモンスーン期静穏日には,夜間に南西湖岸に沿った湖上で励起され,湖上を北東進する対流システムが存在することを数値計算によって示した.また,静止気象衛星による早朝の可視画像から,この夜間湖上対流が実際に存在していることを示唆する傾向を見出した.

この夜間湖上対流に関しては,陸風循環に伴う対流活動に関する一連の既往研究の中で,対流発生には下層収束が効いているのか陸風自体の効果がより重要なのか,という議論があり,本論文による結果からは,本地域に関しては,下層収束が生じる前に湖南西からの陸風および斜面下降風のみによって上昇流が励起されていることを示した.そして,それを可能としている決定的な因子は,年間を通して30 ℃程度以上というトンレサップ湖特有の高い湖面温度であることを示した.この結果は,上記の議論に対して新たな知見を提供するものである.

この夜間湖上対流は,「降水を伴わない対流システムの移動」という特徴をも併せ持つ.対流システムの移動に関しては従来から多くの研究がなされてきているが,その多くは降水を伴う対流システムであり,これに対し本案件は降水を伴わないことが特徴的である.数値計算結果を用いた解析結果から,この対流システムの移動に対しては,湖南西部のCardamomes山地において夜間の放射冷却によって供給される湖上大気に比べて冷乾な,すなわち大気密度の小さい気塊が,山地斜面を重力流によって湖へと連続的に押し流されていることが効いていることを示した.山地斜面から湖に向けて夜間に冷乾な気塊が通過することは,簡易気象観測によって確認された.

2)トンレサップ湖周辺域では,Coriolis力が働かないために夜間の陸風循環が弱いと考えられている低緯度地域に位置しているにも拘らず,高い湖面温度と湖の形状・立地等が効果的に作用する結果,強い陸風循環が形成されることを示した.

湖(海)陸循環に関しては,これまで中緯度地域での研究が中心であり,低緯度地域を対象とした実例に基づく研究は極めて少なかった.理論的・解析的に検討した既往研究からは,昼間に比べて夜間の湖陸間温位差は比較的小さく,夜間の陸風の形成は湖陸間の温位差のみならず昼間の湖風がCoriolis力の影響によってその風向を変えた結果駆動されるものであり,よってCoriolis力が弱い低緯度地域では夜間の陸風は発達しにくいことが指摘されていた.アフリカのタンガニーカ湖を対象とした研究からも,それを裏付ける結果が示されていた.

本論文の解析結果からは,上記の知見に反し,トンレサップ湖周辺域では夜間にも強い陸風循環が生じることが示された.これに対しては,トンレサップ湖特有の高い湖面温度が効いていることが数値実験によって示された.強い日射に加え,湖面積に対して水深が浅いトンレサップ湖特有の形状,さらにメコン河の氾濫に起因する高い濁度によって,効果的に湖面温度が高く保たれていると見られる.また,湖の長軸がCardamomes山地の尾根線と平行で,夜間北東風の風向と垂直であるといった湖の形状・立地等も,湖と周辺陸域との相互作用を効果的に発揮させていると見られる.

一方,トンレサップ湖の高い湖面温度は,NCEP-FNL による再解析データでは再現されておらず,現地観測データによって初めて明らかになった.このことは,現地での観測データの収集やそれを数値計算結果に反映させることの重要性を強く示すものである.

3)インドシナ半島各地で指摘されているポストモンスーン期やプレモンスーン期の降水現象は,少なくとも部分的には局地的な大気水循環の影響を受けている可能性を示した.

インドシナ半島では,トンレサップ湖周辺域に限らず,プレモンスーン期やポストモンスーン期にも間欠的な降水が生じることが従来から指摘されており,これらの降水は総観規模の気象場に起因している可能性が高いことが指摘されていた.

しかし本論文の検討からは,湖面積の違いのみによっても周辺陸域の降水量やその分布には大きな変化が見られることが示された.その上,湖周辺の殆どの地域においては,現況のプレモンスーン期における狭い湖面とポストモンスーン期における広い湖面によって,それぞれの季節において湖によって対流活動や降水が活発化される傾向があることが示された.

こうした降水に対して,既往研究で指摘されているような総観規模の影響が支配的なのか,それとも,トンレサップ湖による局地循環に代表されるような地表面の不均一性に起因する局地的な影響がより効いているのか,という問題は,今後の興味深い研究課題の一つであると考えられる.

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、東南アジアのインドシナ半島南部内陸部、メコン河下流域に位置するトンレサップ湖周辺域において、同地域の乾季の地域水循環の特徴とメカニズムを明らかにすることによって、同地域の農業の持続的開発やメコン河開発が同地域に与える影響評価に資する科学的基礎を与えようとしたものである。本研究では、「局地循環による降水が、同地域の水利用に寄与しているのではないか」という科学的作業仮説に基づいて、領域気象モデルによる数値実験の解析を中心として、衛星観測や現地観測を組み合わせた統合的解析を試みている。

本研究では、まずトンレサップ湖の存在が、プレモンスーン期、ポストモンスーン期ともに明瞭な湖陸風循環を引き起こし、この湖陸風循環がそれぞれの季節において異なる様態で水蒸気の空間分布に影響を与え、さらには周辺陸域の対流活動や降水にも影響を与えている可能性が高いことを示した。インドシナ半島では、トンレサップ湖周辺域に限らず、プレモンスーン期やポストモンスーン期にも間欠的な降水が生じることが従来から指摘されており、それは総観スケールの気象場に起因している可能性が高いとされてきた。しかし本研究の検討から、トンレサップ湖周辺では、プレモンスーン期における小さい湖面と、ポストモンスーン期における広い湖面の、それぞれの影響を受けて、対流活動や降水が活発化される傾向があることが示され、インドシナ半島各地におけるプレモンスーン期やポストモンスーン期の降水現象は、少なくとも部分的にはローカルスケールの大気水循環の影響を受けていることが明らかとなった。

特に、ポストモンスーン期に湖南西岸の平野部でしばしば生じる深夜の降水については、領域気象モデルによる数値実験の詳細な解析により、トンレサップ湖とカンボジア国内のCardamomes 山地、ベトナムからラオスにかけてのAnnam 山脈という3 者の相互作用によって生じるというメカニズムを明らかにしている。これは今後観測ネットワークの構築や、長期のデータ解析から、さらに継続的に検討されるべき課題であるが、湖南西岸の農業生産への有用な情報提供の基礎となる有用な研究成果である。さらにこの深夜の降水を引き起こす湖陸風循環に、湖の面積の大小が強く関係していることも示し、メコン河開発計画の影響評価に資する基礎的知見を与えている。

一方、顕著な降水は伴わないが、ポストモンスーン期の夜間静穏日に南西湖岸に沿った湖上で励起され、北東進する対流システムが存在することを、領域気象モデルの数値計算によって示し、さらに静止気象衛星による早朝の可視画像、現地観測における風速、気温変化などから、この夜間湖上対流システムの存在を明らかにした。一般に、低緯度にあってはCoriolis 力が働かないために夜間の陸風循環が弱いと考えられているが、トンレサップ湖が年間を通して30 ℃程度以上という高い湖面温度を有し、湖南西部のCardamomes 山地によって夜間に供給される冷乾な斜面下降風によって、夜間強い陸風循環が形成され、上昇流が励起されていることも示した。これは低緯度熱帯地域における、湖陸風循環と地域水循環特性の関係の理解を深める科学的に有用な成果と認められる。

本研究では、これらの地域水循環に関する大気-陸面-湖面相互作用の科学的検討に加え、地域水利用の基礎的検討も行っている。大規模利水システムの整備率が極めて低いカンボジアでは、雨水や近隣小河川、湖などの天水に水利用を大きく依存しており、これまでは、トンレサップ湖辺の氾濫原における氾濫水利用の農業が着目されてきた。自給自足率が高いカンボジアでは、豊富な水資源が得られる雨季にはもちろん、乾季にも利用可能な僅かな天水を頼って農業が営まれている地域も多い。本研究では、こうしたカンボジアにおける乾季水利用による農業の持続的な開発を検討する観点から、トンレサップ湖とその周辺地形が形成する湖陸風循環によって形成される降水を入力する分布型河川流出モデルを開発し、乾季の河川流量が湖面積の大小にどの程度影響を受けるかを検討している。これは、将来の地域水利用開発研究の基礎となるものである。

以上本研究は,トンレサップ湖周辺域の特徴的な地域水循環メカニズムを明らかにするとともに、同地域の農業のための地域水利用や、メコン河開発などの開発行為の環境影響評価に資する科学的、社会的有用性に富む独創的な研究成果と評価できる。よって本論文を、博士(工学)の学位請求論文として合格と認める。

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