学位論文要旨



No 125257
著者(漢字) 山口,道弘
著者(英字)
著者(カナ) ヤマグチ,ミチヒロ
標題(和) 勘気と宥免 : 戦国期武家刑事法史の一齣
標題(洋)
報告番号 125257
報告番号 甲25257
学位授与日 2009.09.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第232号
研究科 法学政治学研究科
専攻 総合法政専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 和仁,陽
 東京大学 教授 新田,一郎
 東京大学 教授 齋藤,誠
 東京大学 教授 白石,忠志
 東京大学 教授 高見澤,磨
内容要旨 要旨を表示する

(1)本論文は、戦国期に於ける、刑事法史研究の一環として、戦国大名(戦国期守護)に依る、家臣処罰の構造及び其の構造の意義変遷とを叙述した者である。

(2)法規範に定められた罪科を忠功に依って相殺(負の価値たる罪科の、正の価値たる忠功に依る、中和・無力化)する事は、従者(家臣)に取って、一つの特権であった。此の事自体は、江戸時代に於いても変化は無い。但し、主君の側としては、無限定に相殺を認めて仕舞うと、自身の領域的支配者としての役割を軽んじた事に成り兼ねない。其処で、戦国期には、忠功に依る罪科相殺に対し、様々な見解が並立した。或る者は、忠功に依る罪科相殺を否定し、或る者は、如何なる罪科であっても忠功が有れば宥免するとし、亦、或る者は、場合に依っては、相殺も有り得る、と規定した。

(3)其処で問題と成るのは、此れ等の諸態度が、単なる分裂割拠の産物で、互いに無関係の者なのか、其れとも、何等かの構造に依って、統一的に説明し得る者なのか、と言う点である。

(4)此の課題に答える為、本論文に於いては、一旦、法規範(罪科)の問題を離れ、勘気に着目する事にした。勘気とは、主君の怒り其の者である。重要な事は、勘気事例の場合、従者の宥免が伴う事例が、罪科の場合に較べて多く、若しくは、宥免を予定して居る場合すら見受けられる事である。此の「勘気」処罰事例を手懸りとして、戦国期に於ける、宥免(相殺)の論理に就いて探究し、翻って、忠功に依る罪科の相殺規定の多様性に就いて考察を行う。

(5)戦国大名の中で、「勘気」処罰に関して規定を置いた、防長の大内氏は、被勘気者を分国外追放すべし、とする一方、被勘気者の宥免嘆願を常時認めて居た。斯かる、勘気処罰と宥免の聯関は、他の罪科事例には見られぬ、勘気処罰独特の者である。然らば、其れは、如何なる論理に依って生じたのであろうか。

(6)此れに答える為に、戦国期に先行する時代の、追放と宥免の聯関に就いて調べた。結果、中世後期(南北朝期以降)から近世初期に至る迄、追放と宥免に関する、以下の如き慣行が明らかと成った。第一に、主人は主人たるの資格に於ける、完全なる権限行使の一様態として、追放者(被勘気者を含む)や、自発的「他宿」「蟄居」状態に在る者を宥免する事が出来た。寧ろ、当初から宥免を予定して、追放等を行う場合さえ在った。詰り、追放等の処罰が、「侘言」(宥免嘆願)の前提条件として機能して居た。第二に、「侘言」の際には、「罪」の「軽重」が勘案され、亦、特別な軍功や譜代性が、宥免を引き出す機能を有した。第三に、宥免後には、必ずしも完全ではないが、原状恢復(「本領安堵」)が指向された。

(7)それでは、追放の単位が、分国である事は、如何なる事情に依るのか。此れは、鎌倉幕府以降の守護の機能を考えねば成らない。鎌倉幕府御家人制に於いては、将軍―侍所―守護―各国御家人の統轄関係が存在して居た。其れゆえ、将軍の勘気は、此の統轄関係に従って発動される為、御家人に対する勘気処罰が、各御家人の所領単位ではなく、国を領域として遂行乃至構想される場合が存在した。続く室町幕府制度に於いては、守護の権限が済崩しに増大する。即ち、守護は、南北朝期以降一五世紀前半迄に、分国内の安堵・追捕(犯罪者逮捕)機能を、室町幕府と直接の関りを持たない形で、自主的に遂行し得る様に成って居た。此れに基づき、守護自専に依る分国外追放と言う処罰形態が、定式化された。此処に於いては、凡そ「罪科人」(具体的「罪科」の種類を問わない)を分国外に追放する、分国内に安堵しない、と言う慣行が醸成された。

(8)斯くして、守護に依る、汎用性の高い分国外追放が成立した訳だが、何故、勘気処罰と分国外追放が結合するのであろうか。其れを知るには、鎌倉・室町期の検断に対する同時代人の思考構造を探る必要が有る。鎌倉・室町期の人間に取って、検断とは、(A)具体的罪名未定の状態に於いて、抽象的に何等かの犯罪の存在の有無を問う、即ち、抽象的「罪科人」を処罰する段階、即ち、《兎にも角にも悪い人間》を処罰する段階と、(B)具体的罪名を「糺明」して決定し、具体的「罪科」を処罰する段階とに、構造的に二分されて、思考された。彼等が、勝義に、検断が終了(「落居」)した、と把握するのは、上記の(B)段階、即ち、具体的罪名に従った、「罪科」処罰が行われる場合である。(A)段階に止まる限り、勝義の「落居」、即ち(B)段階への移行を求めて再審請求し得たのである。処で、勘気処罰は、本質的に、「楚忽御沙汰」であり、「糺明」手続が介在しない、検断の第一段階((A)段階)に止まる処罰である。即ち、「罪科人」に対する、謂わば暫定的な処罰である。此処に於いて、勘気処罰と、(7)で述べた、「罪科人」を分国内に安堵しない、と言う慣行との接点が生じる。「罪科人」に対し、暫定的安堵喪失(「他出」)を科し、若しくは、分国外追放した場合、其れは、検断の第二段階((B)段階)に届かぬ、飽く迄も暫定的処罰であるから、処罰者は、「侘言」を受け入れねば成らない。検断の第一段階に止まる処罰は、具体的「罪科」に基づく者ではなく、抽象的「罪科人」処罰であるから、被勘気者は、「人」としての有用性を恢復すべく、主人に対し、特別な軍功や、譜代性を以って、「侘言」が出来るのである。無論、検断の第二段階((B)段階)手続を要求する事も可能であろうが、態々「罪科」を蒙りたい人間など居ない事は言う迄も無い。以上が、(5)に於いて論じた、勘気処罰(分国外追放)と宥免の聯関を支える構造である。

(9)検断の二段階構造は、「罪科」処罰の場合にも、其の執行の思想的基盤であった。「罪科」を犯した者を宥免したい場合や、「罪科」が疑わしい場合、敢て、検断の第一段階((A)段階)に処罰を止める事が行われた。(2)で述べた、「罪科」相殺の場合も、同様の思考が働いた。即ち、予め如何なる犯罪を犯しても忠功が有れば許す、と言う場合は、「罪科人」を許すと言う事に外ならない。即ち、此の場合、検断の第一段階((A)段階)に常に止めるべき人間を設定して置き、検断の第二段階((B)段階)手続に触れない。然し、検断の第二段階((B)段階)迄、手続が進行し、検断が勝義に「落居」した場合は、忠功が有っても、原則的には許されない。此れが、(3)の疑問に対する回答である。即ち、戦国大名(戦国期守護)は、「罪科人」は許しても、「罪科」は許さない仕組に依って、家臣の忠功を評価すべき自己と、領域的支配者たる自己を、矛盾無く並存させて居たのである。戦国大名(戦国期守護)は、実質的には忠功に依る「罪科」相殺を認めつつも、形式論理的には、「罪科」相殺を認めて居なかったのである。

(10)以上に述べた、検断の二段階構造こそが、中世後期の「罪科」相殺を規定して居た。然し、中世後期に於いて、此の構造が、常に同一の意義付けをされて居た訳ではなかった。転機は、一五世紀後半、応仁・文明の乱に於ける、室町幕府―守護体制の崩壊に在る。一五世紀中期迄の、室町期に於ける、守護自専に依る分国外追放乃至安堵喪失を過大に評価する事は出来ない。何故ならば、室町期に於いては、守護の権限が増大したとは言え、荘園本所保護政策を採る室町幕府や、荘園本所自体に依る、守護の荘園侵略への抵抗も在ったからである。分国外追放と言う処罰形態は、荘園本所の土地管轄権を侵害しない、飽く迄も犯罪者の人身にのみ及び、土地は安堵されると言う処罰形態であった。荘園本所に取っては、土地の当知行は一時的に喪うかも知れないが、土地の由緒は喪われないのである。即ち、其れは、荘園本所と守護との妥協・協調の産物なのである。守護自専の分国外追放が、荘園制の桎梏を離れ、軍制の視点から、即ち、家臣団統制の視点から為される様に成るには、荘園制が解体する戦国期を待たねば成らなかったのである。本論文第二部に於いては、以下の如く、検断の二段階構造の意義変化に就いて論じた。

(11)戦国期の大内氏、大友氏等に於いて、家臣処罰の際に、検断の第一段階((A)段階)に止める事をやめ、勘気を含む総ての家臣処罰に際し、検断の第二段階((B)段階)に至るべし、とする改革が行われた。此れは、家臣相互の、主君に対する平等性を担保し、主君と特別の関係に在る家臣(「一人」)の出現を排除する為であった。戦国期守護領国に於いては、家臣団が、「一揆」を結び、「一人」の出現に抵抗する基盤が存在した。主君も、此の、家臣の「一揆」に推戴される以上、「一人」の出現を許容する訳には行かなかったのである。検断の第一段階((A)段階)に於ける「侘言」は、個々の「人」の有用性を問う者であるが故に、「一人」排除の目的の為、許されないのである。そうであれば、主君の側も、最初から、検断の第二段階((B)段階)手続迄、完了させて仕舞った方が得策なのである。

(12)右に論じた如く、勘気処罰規定の変遷が、軍制上の事由に依り生じたとすれば、我々は、検断の二段階構造の意義変化を見出した事に成ろう。即ち、荘園制に拘束された、室町期守護領国とは異なり、大名と家臣、大名と百姓の役負担について、その基準を明確にすべく実施された検地等を通じて、私領の恩領化を推進したる戦国期守護領国に於いては、検断の二段階構造が、最早、当知行地安堵と由緒との相関関係から離脱し、純粋に、家臣団統制の為の一手段(手続)へと、意義を変化させたのである。

(13)検断の第二段階((B)段階)迄、執行すべきである、と言う思考は、近世にも受け継がれた。近世に於いては、検断の第一段階((A)段階)に滞留する事は、「其者ハかりを悪」む処罰として忌避される。検断から、「人」の評価の側面が排除され行く傾向が窺えるのではなかろうか。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、戦国期日本の「刑事法」史の試みである。ここでいう「刑事法」は、一定の法規範に則って罪科人に科刑する仕組みを指しているが、一方で当時の日本においては、これとは異なる構造を持った非行処罰の仕組みとして、主従関係に基づいて主人から従者に対し発動される勘気があり、「刑事法」との間に時として微妙な緊張関係を形成した。本論文は、この事態を主従制と法との交錯として捉え、こうした事態を生み出す中世人の思考の構造を分析し、以て「刑事法史の一齣」を描出しようとしたものである。全体を大きく二部に分かった上で「前書」「後書」を付し、第一部では勘気に基づく処分がどのような思考モデルに沿って形式化されていたかを論じ、第二部では、いったん形成されたモデルが時代環境とともにいかなる変化を遂げたかを論ずる。

本論文のこうした主題設定の背景には、パーソナルな主従関係に沿って作動する権力と、一定領域内の人々を均しく捕捉する権力という、権力の二つの作用形式を想定し、その間の関係に着目して国制の問題を論ずるという、日本中世史研究の近時の動向がある。本論文はそうした動向を踏まえ、二つの作用形式が交差するひとつの局面として、家臣の忠功が罪科を宥免すべき理由として「刑事法」の領域に滲入してくる可能性、そうしたケースに対する戦国大名の対応に、着目する。「前書」でそうした研究動向と基本的な視座について簡単に整理言及した後、第一部の叙述に入る。

戦国時代、忠功を理由として罪科の宥免を認めるべきかどうか、という点について、諸大名の対応は多様であり一定しない。例えば上杉氏は積極的に容認するが、大内氏は遮断しようとし、結城氏は迷っている。こうした多様性が、脈絡なく単にバラバラであったのか、それとも共通の条件の上に展開されたヴァリエーションなのか。そう問うた著者は、その多様性の背景をなす思考モデルを見出だすべく、主君の意に違ったことによる勘気処罰の事例を検討する。その結果、勘気による処分がしばしば宥免を予定しつつ、「分国を単位とした追放」という形を取っていることを見出だし、(1)勘気による追放が宥免に対する期待を伴っていたのはなぜか、(2)勘気による処分が「分国を単位とした追放」に帰結したのはなぜか、という二つの問題を提示する。

(1)の問題については、問題を起こした者を本居住地から排除ないし隔離する、という点において追放と相似た位相を持つ逐電ないし他出を取り上げ、それらの処置がいずれも、確定的に罪科に処することを棚上げにし、その後の原状回復の可能性を留保する効果を持ったことを示す。つまり、問題を罪科確定の領域に持ち込まず未断の状態に留め置くことによって、宥免が作動する可能性を残した、とする。

(2)の問題については、鎌倉・室町両幕府のもとで守護に担われた検断の仕組みが参照される。鎌倉幕府のもとで「将軍-(侍所)-守護-御家人」という形で構成された管轄の経路が強い規定性を持ち、この仕組みのもとで管国御家人の統括と犯科人の追捕にあたった守護の権能に、「国」を処罰単位とするモデルの原型が見出だされる。そうした思考モデルの上に「勘当⇒国内不安堵⇒追放」とする観念上の連関が積み上がった、と想定される。室町幕府のもとでは、検断(追捕)の権能に加え、守護による「分国内安堵権能」の掌握が進んだことによって、守護を「一国ごとの法的正当性の求心点」とする観念が強化され、「国」を単位とした思考モデルはいっそう強固に確立される。

但し、守護の検断の作用は、荘園領主との間の微妙な関係にも強く規定されていた。荘園の住人に対して守護検断の作用が直接に及べば、その所領に対する処分に帰結し、荘園領主との間に摩擦を惹起する可能性がある。ところが、罪科の確定に至らない分国外追放は、さしあたり人身に対してのみ及ぶ暫定的な処分であり、荘園領主との摩擦を回避しうるため、荘園領主による「暫定的安堵喪失」⇒「分国外追放」が、妥協的な方法としてモデル化された、とする。

こうした条件のもとで、「分国外追放」と勘気処罰との結びつきが説明される。そこではまず、検断の手続が二つの段階に分けて観念されたことが指摘される。すなわち、「悪いやつ」という抽象的な判断があるものの「悪さ」の計量と罪科の決定には至っていない第一段階と、糺明を経て罪科が決定された第二段階とが区分して観念され、糺明による落居という形式をふむことによって、暫定状態から確定状態へと移行する。こうした思考モデルを前提として、追放ないし他出は事態の進行を「一端之儀」(第一段階)に留め置く効果を持ち、そこに宥免が作用する余地がある。そうした余地を残すために、勘気処罰は「分国外追放」という形をとる。第一段階で問題にされるのは抽象的にのみ「悪い」という評価を受けた「罪科人」であり、「忠功人」に対する肯定的評価は、この罪科決定以前の段階では「罪科人」の「悪い」という評価を相殺する効果を持つのに対し、罪科が決定した場合には、忠功による相殺は認められない。もともと相殺されるのは罪科ではないからである。

かくして、勘気処罰としての「分国外追放」が、第一段階の「罪科人」処分をモデルとして成型されるが、戦国期に至ると、「一端之儀」と「分国外追放」の連関はモデルとして継承されつつも、質的な変化が見込まれることになる。室町時代に進行した荘園制の実質的な解体をうけて、応仁の乱後は、守護が事実上の「分国主」として領国内の所領領有秩序を主宰するようになると、荘園領主に対する顧慮の必要がなくなり、守護検断の自専・完結化が進む。そこで、所領秩序の構造に即して構築された二段階の思考枠組が、忠功の現場である軍制の構造に沿って流用ないし再利用されることが、この段階で予測として導かれる。また、冒頭で提示された戦国大名の多様性は、この事態に対する対応の多様性として、統合的に理解されることになる。

第二部は、この見通しの検証に充てられる。すなわち、守護をモデルとして自らの役割ないし権能を構築した戦国大名(戦国期守護)が、二段階構造をその法制へどのように取り込んだかが、問題とされる。大内氏と大友氏の事例が検討され、いずれにおいても、検断の第一段階で滞留させることなく、勘気を含む家臣処罰について第二段階にまで至ることを規定していることが見出だされる。すなわち、大内氏においては、(1)勘気処罰への「罪軽重」導入すなわち第二段階化と、(2)宥免歎願の遮断を規定する動きが見られ、大友氏においても、勘気処分においても第二段階に進むべきだという規範観念が形成される。こうした改革によって、罪科に対する宥免の可能性は遮断され、暫定処分の意味は喪われる。

こうした改革が志向されたことの背景として、軍制との関係が示唆される。戦国期守護領国においては、家臣団が互いに「傍輩」としての平等性をもって「一揆」を結ぶという仕組みが存在し、主君は「一揆」に推戴されることによってその地位を保ちえた。そのため、主君との特別な結びつきを持った「一人之儀」が出来することによって「一揆」の平準性が損なわれることを忌避する心性が存在した。検断が第一段階にとどまり、その間に主君との特別の縁故をもって宥免を得る者が出来することは、そうした仕組みを脅かす事態として、回避されるべきことになる。とくに大内氏においては、御家人制の整備が勘気処罰の法制化、第二段階化と併行しており、分国内の武士たちを御家人としての均質性において掌握する企図が、検断の平準化と親和的に捉えられ、相互の関連のもとに遂行されたことが推測される。

以上の検討から、戦国期の「刑事法」をめぐって、検断の過程を二段階に分かつ思考モデルが析出され、主従制と法の交錯はこのモデルの上で展開され処理された、とする理解が導かれる。最後に「後書」において近世の一事例が掲げられ、第一段階への滞留を忌避し第二段階に至る「刑事法」的処罰の遂行が求められることと、忠功で測られる「人」の要素が法規範の領域から排除されることとが、近世への見通しとして示される。

以上が本論文の要約である。

本論文の特に評価すべき点として、次のような点が挙げられる。

第一に、中世日本における「検断の二段階構造」モデルを析出したことである。このモデルは、中世の人々の思考様式を内在的にたどることによって析出され、当時の「法」と「主従関係に沿った制裁」との関係を解析する上で大きな力を発揮しているが、従来のこの分野の研究において指摘されておらず、これを見出だしたことは本論文の重要な功績である。また、この思考モデルが守護からいわゆる「戦国大名」に継承され、その「刑事法」の構造を条件づけたことが示されているが、このことは、「戦国大名領国」の法制が、それぞれに独自性を持ちながらも、共通した思考モデルの上で展開されたことを例示し、いわゆる「戦国大名」を、室町幕府体制下での守護をモデルとして説明する「戦国期守護」論に、有力な材料を提供することにもなる。この点は、中世から近世へと至る国制史的見通しとも関わり、この時代を扱う日本史学・日本法制史学に幅広い影響を及ぼすものと思われる。

第二に、本論文は、日本中世思想史研究に、ひとつのモデルを示したものである。近世中期以前の日本における思想史の困難は、何よりもまず「思想」をそれとして自覚的な叙述の対象としたテキストの僅少さ、もしくは不在に起因する。このことは「法思想」の領域に強く妥当する。したがって、「法」をめぐる中世人の思考構造を分析的に捉えるためには、ことさら言語行為群の中にそれと自覚されない構造的なバイアスを発見し、そのバイアスの含意を明らかにする必要がある。こうした条件のもと、思想史研究のためには、当該時期に作成された膨大な史料群を可能な限り網羅的に渉猟して「思想」の露頭を採集し、それらの背後にある鉱脈を推定的に再構成する必要がある。本論文はこの困難な課題に挑戦し、相当な成功をおさめている。

第三に、本論文において用いられている歴史学的手法の徹底性と水準の高さが挙げられる。刊行された史料集だけでも膨大な数量にのぼるこの時期の史料を幅広く調査して素材を収集し、吟味を施している。史料批判という点では、当然のことながら、従来の研究成果に依存している箇所は少なくないが、その場合にも批判的検討を怠らず、いくつかの慎重な扱いを要する史料については、本文或いは注において精細な検討を施している。関連する二次文献への幅広い目配りと併せ、歴史学者としての著者の高い能力を示している。

しかし本論文にも物足りない点がないわけではない。

第一に、本論文は問題を「刑事法史」に局限することによって堅牢な議論を構築したわけだが、関連する問題について必ずしも明示的に論及しておらず、この特定分野の専門家以外の読者には、議論の含意がわかりにくくなっている場合がある。例えば、主従関係に沿って評価され制御される所領「知行」は、勘気のような制裁と無関係ではありえず、軍制とも密接な関わりを持つと思われるが、本論文では検討対象とされていない。また例えば、近年の戦国大名研究において「東国型大名」「西国型大名」というカテゴリーが用いられることがままあるが、本論文は議論の主たる素材を「西国」の大名に求めているにもかかわらず、その点についての言及がない。本論文における検討結果は、こうした二分法の有効性に対し否定的な含意を有しており、結果的には特に問題ないと判断されるが、そのことも含め、関連する諸問題との関係で、より大きな展望が示されておれば、幅広い読者にクリアな見通しを与えることができたであろう。「前書」においては、著者の関心が「国制史」的展望のもとにあることが示されており、現に本文は「刑事法史」をパラメータとする「国制史」の試みとも読むこともできるのだから、それに対応した展望が「後書」において示されるべきであったろう。

第二に、プレゼンテーションの問題が挙げられる。著者独特の硬質な文体は、読者によっては晦渋の感を禁じ得ず、理解を必ずしも容易ならしめない。また、文体と不可分の問題として、用語選択になお吟味彫琢の余地がある。例えば、忠功によって罪科あるいは「罪科人」が宥免される、という現象について、「相殺」という用語を、一種の分析概念であるかのように用いているが、その概念内容が必ずしも積極的に明示されないために、現代の法学概念としての「相殺」とのズレが、読者に違和感を与える場合がある。叙述を丹念に追えば誤解の余地は少ないものの、近代の間尺に沿うものではない中世人の思考を、どのような用語を用いて描写するかという、それ自体重大な問題には、本論文といえども苦戦を免れていない。

しかしこうしたことがらは、学術論文としての本論文の高い価値を損なうものではない。中世人の思考構造に肉薄した本論文は、この分野の研究の従来の水準を確実に抜くものである。以上から、本論文は、その筆者が自立した研究者としての高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

UTokyo Repositoryリンク