学位論文要旨



No 125472
著者(漢字) 結城,剛志
著者(英字)
著者(カナ) ユウキ,ツヨシ
標題(和) 労働証券論の歴史的位相 : 貨幣と市場をめぐるヴィジョン
標題(洋)
報告番号 125472
報告番号 甲25472
学位授与日 2010.03.10
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第270号
研究科 経済学研究科
専攻 経済理論専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小幡,道昭
 東京大学 教授 柴田,徳太郎
 東京大学 教授 竹野内,真樹
 東京大学 准教授 石原,俊時
 東京大学 教授 丸山,真人
内容要旨 要旨を表示する

本稿では、貨幣と市場のヴィジョンをめぐる労働証券論の歴史的位相を以下のように再構成している。まず、第1章において、プルードンーマルクス論争の焦点が、市場は真に安定的なのか、それとも原理的に無規律な性格を持っているのか、という市場ヴィジョンの相剋問題であることを明らかにした。プルードンが無償信用を与える交換・人民銀行の設立を挺子として安定的で理想的な市場像の実現を追求していたことにたいして、マルクスは現実の市場への分析的接近を通じて無政府的な生産活動が助長する市場の無規律性を指摘し、両者が対極的なヴィジョンを有していることが解き明かされた。市場が、原理的には、あるいは理想的にはどのような姿をしているのかという論点をめぐってたたかわされた論争の帰結は、当為的なプルードンと分析的なマルクスとの思考法の相違からもたらされていたのである。そのような対極的な市場ヴィジョンの基底には、貨幣が市場を撹乱するという実体に近い貨幣把握によるのか、それとも貨幣は本来交換へ干渉することのない中立的な媒体にすぎないのか、という貨幣ヴィジョンの相剋がある。それは、貨幣がそれ自身商品から派生する実体的なものなのか、あるいは貨幣それ自体は実体を持たず生産者間の関係性を代表する理念や象徴にすぎないのか、という問題でもあるだろう。この論争を通じて、市場を理解するためにはまずなによりも貨幣を解き明かさなければならないのだという原問題も明確に摘出されたのである。マルクスの価値形態論を白眉として、貨幣問題に着目しつつも貨幣の理念像からの乖離幅を秤として性急に貨幣改革論を打ち出したプルードンの市場像には原理上の理論的困難が含まれていることがはっきりとし、プルードンのヴィジョンの望ましさが殺がれてしまったかのようである。だが、市場の廃絶を目指したと考えられるソ連型社会主義の崩壊という現実的なインパクトを受けて、否定的な市場の原理像を提示したマルクスのヴィジョンから離れ、それとは異なるオルタナティブが求められ始めているということは自然な成り行きなのかもしれない。プルードン的な市場像が現代的にある範囲の人々に受け入れられ、自由で平等な市場世界の理想像が再び掲げられることで、それが社会のあり方を構想するきっかけを与えているのだといえよう。このような理論と思想の捻れともいえる状況を受け止めるならば、分断された市場像の意味を問い続ける必要性が増すはずであり、また翻って実在論的なマルクスの市場像と計画経済型の社会主義に帰着するかのような展望論との関連性も改めて問い直されなければならない。プルードンーマルクス論争の帰結として、二分された実在論的市場ヴィジョンと理念論的市場ヴィジョンが立ち現れるのである。また、プルードンの継承を自認するゲゼルによって理念論的な市場ヴィジョンが20世紀初頭のドイツの地でも再現されていることについて第7章で関説した。

マルクスはプルードンにたいし市場内因的な動力によりそれ自身が撹乱される点を強調していたのであるが、他面では生産の無政府性が社会的な需給調整の困難をもたらし市場の不安定性をもたらすと論及していた。後者の説明の論理的な帰結から、小ブルジョワ的な貨幣改革論である労働貨幣論が非現実的な提案であるといいうるばかりではなく、背理的には非貨幣的な労働貨幣であればそれは実現可能だということがいえるのではないか、ということを第2章で指摘した。

だが、オウエンはプルードンと同様の理念論的な市場像を有しているにもかかわらず、生産の無政府性という観点からは、オウエンとプルードンの想定する生産体制の異質性をもって直ちにオウエンが肯定されてしまうのであり、そこではもはや貨幣と市場のヴィジョンをめぐって争われることがなくなってしまう。マルクスは労働貨幣論の貨幣論的な偏向を論難するあまり、将来社会の素描においてはプルードン批判で発揮された実在論的な貨幣把握が十分に活かされていないようにみえ、生産の無政府性が克服されれば無貨幣経済が可能になるとするマルクスの将来展望とオウエンのそれとの同値性がかえってマルクスへの疑義を強めてしまうのである。マルクスは実在論的な貨幣・市場ヴィジョンを発見していたにもかかわらず、将来展望論ではその知見が十分に反映されなければならないような論理的関連性が欠落しているのである。

オウエンは、マルクスのように労働時間概念に内包される私的労働と社会的労働の対立といった労働の私的社会性や商品の二要因の摘出といった精緻な分析を行っているわけではない。オウエンは市場を総供給と総需要の対抗関係で把握しているところがあり、金貨幣の干渉により総量不一致がもたらされることから、購買力不足の過少消費型恐慌に発展するといわれたのである。総需給の不一致をもたらす要因に関する両者の分析は根本的なレヴェルでは異なっているのであるが、オウエンは購買力の量的問題に限らず、それと対応する生産の部門間編制の問題もコミュニティ建設計画案として提示していた。貨幣改革を通じて総需給を量的に一致させることの限界性を察し、部門間編制の問題を捉えていたからこそ、貨幣問題を克服するためには貨幣の改造のみでは不十分であり、貨幣の揚棄とそれに伴う市場の廃棄がなされなければならないという結論の一致がもたらされるのである。ただし、繰り返しになるが、結論の一致は同一の論理的過程から導出されたものではなく、特にオウエンが市場の質的問題を看過していることは明らかであり、この点を析出したマルクスの場合も展望を論じるにあたってその成果をどのように活かそうとしているのか十分に読み取れないところでもある。オウエンは金素材に阻害されて貨幣がその理想的な姿から逸脱してしまっているのだと考え、貨幣を金の重荷から解放しつつも、労働という錨をつけることで無価値の紙券による労働証券システムの安定化を目指している。そのような紙券管理の政策的手法は第6章で考究されたグレイの労働証券論にも採用されているところである。

第5章と関わる論点にもなるが、非貨幣的な労働貨幣という語義矛盾的な貨幣のあり方が理論的にも実践的にも可能なのであれば、そのような視座から現代の地域通貨諸運動を捉え返してみると、タイムダラーという地域通貨をその射程に捉えうるのではないだろうか。マルクスも労働貨幣論者もともに市場的=生産的領域で運動する貨幣を考察していたのであるが、タイムダラーは非市場的な領域内で限定的に流通しているのである。地域通貨との関連で、労働貨幣論をめぐる所説を検討することで、これまで市場や生産の内部のみで考えていた問題を、社会の維持と再生産のための領域とみなしてしまうのでは狭すぎるということが垣間見えてきたのではないだろうか。拡張された再生産領域での交換においては等価性を追求するよりはむしろ不等価性を受容するような関係の構築が肝要なのであり、また市場外部の領域は再生産にとって付随的なものなのではないということも併せて指摘した。

とはいえ、オウエンによっても、地域通貨によっても、それらに提示される市場像は極めて理念論的である。それらが依拠する認識的基盤の頑健性には疑わしいところがあるし、実在論的認識に基づかない制度設計の脆さや危うさを感じさせるところでもある。労働証券と地域通貨の理論・思想・実践の三面にわたる総括的把握から地域通貨のさらなる改進を望むのであれば、実在論的市場の知悉から、いまそこにある世界の様態から出発しなければならないことは自明であろう。

労働証券論は理念追従的に社会主義論を構築し体系的学説として脱皮しようとしていたのであるが、より現実的な認識を基礎とすることでそれを地域通貨論として脱体系化していかなければならない。そのための基礎的作業として、第3章から第4章にかけてオウエン型の労働証券論にたいして提示されたウォレンとペアによる批判的学説を考究した。

オウエンはコミュニティ・ベースの平等主義的な労働証券論を展開していたのであるが、これにたいしてウォレンの労働証券論はニュー・ハーモニーでの実践的な反省を踏まえて、個人の責任と自発性を引き出すような工夫がなされていた。それは例えば、異種の労働評価に格差を設けた点や証券の発行主体を個人に設定した点などである。さらに、コミュニティ内部での競争が促されている。このようにオウエンの平等主義的な労働証券論の欠点を克服しようとしたウォレンの労働証券論であったが、微視的観点からのアプローチへとシフトしてしまったために、オウエンが目指していた社会的な観点での公平性や協同性の確保といった論点が抜け落ちてしまったところがある。また労働の評価格差を容認することが、労働そのものの犠牲の公平な測定につながるのかという点も疑わしい。ニュー・ハーモニーは、個人の責任・自発性や経済的な誘因問題とコミュニティや社会全体にわたる協同性や平等性とを両立させることの困難さが労働証券論の課題として提示された事態でもあった。

肝心なのは、このようなウォレンによる反省的契機が貨幣ヴィジョンの深化という意外な結果をもたらしているという点である。ウォレンによってオウエンの労働証券論はかなり大胆に組み替えられているのであるが、その労働証券の発行方式や制度を刷新することにより、かえって貨幣の実存が逆照射されるのである。とはいえ、開拓者コミュニティの内部的な機構として労働証券論を理解していたウォレンには自身の貨幣ヴィジョンの実在論的前進が理解できず、真にウォレンの革新性を詳明したのはペアであった。

ペア自身の記述によっても貨幣の機能は「価値標準と流通手段」と規定されていることからペアの貨幣ヴィジョンはオウエンのそれとそれほど大きく違わないような外観を呈している。ところが、ペアによって「価値標準と流通手段」と規定されているはずの貨幣が、実際の市場ではその規定を逸脱した働きをしていることが観察されるのである。ペアは「同量の労働または労働生産物の譲渡と受取」という行為を時間的にも空間的にも異なる契機として検出し、市場取引の局地性や未完結性を強調している。労働や労働生産物の売買の契機がそのように分断されるのは、市場の交換が貨幣によって担われているためであり、貨幣が支払・決済や蓄蔵の手段として将来に持ち越されるためである。市場では取引の完了性がいつも約束されているわけではないし、労働や労働生産物を販売する場所・時間と購買する場所・時間とが異なっているはずである。それらは明白な事柄であるにもかかわらず、総需給の一致やコミュニティ内部の労働配分のみを関心事としているだけでは見えることのない現実の市場のすがたでもあるのだ。

貨幣の持ち越しと取引の未了性が市場の常態であるならば、代替的に提示される労働証券も現実の貨幣のあり様からの変革として開始されるべきであり、理念論的に語られる「価値標準と流通手段」という2機能に純化したものとして構想される必要はないのではないか。将来の支払いのために持ち越される貨幣の代替物という性格を付与された労働証券は既にウォレンによって解説されていたものであるが、ペアはこのウォレン型の労働証券論を提示されてはじめて貨幣に歪曲される市場のありのままの姿を受け入れることができるようになったのである。

特筆すべきなのは、微視的アプローチというペアの問題提起であろう。オウエンも、またウォレンもある程度は巨視的・長期的、そして社会的な観点から市場と経済を観察し、社会的な需給調整の問題や個人生活への社会的配慮のための様々な提言を行っていた。ところが、ペアによっては、そのような社会性といった観点はほとんど忘却されもっぱら微視的個人からのアプローチが用いられている。微視的な生産が社会的な需給の調整を困難にし、また短視眼的な個人が社会的配慮を欠いた利得追求行動に走ることで社会的調和を乱すというそれまでの市場観を覆すものであろう。確かに、ペアのアプローチは視野狭窄に陥りがちな個人の言動にたいして無批判的にすぎるということもできるのであるが、しかし、ペアが力説しているのは社会変革という一大事業は主体的なひとりひとりの個人からしか始められようがないということではなかったか。ペアは、オウエンのような博愛的事業家によって与えられるユートピアでもなく、何らかの抽象的な社会的カテゴリーに主体を求めるのでもなく、無政府的で微視的なままであっても労働証券取引という公正商業の学舎を通じて個人の自覚が育ち主体性を獲得していくことを期待したのである。その意味で、ペアのアプローチの微視性はそれまで社会主義者によって過度に強調されていた社会的協同性に反省を促す契機として重要な役割を果たしているのである。

審査要旨 要旨を表示する

1 概要

本論文は、さまざまな社会主義論のなかに広く埋め込まれている多様な労働証券論の検討を通じて、それぞれの背景に潜む貨幣・資本認識の歴史的位相を究明した経済学説史研究である。全体は目次、本論、参考文献の合計162頁(1頁あたり40×40字)からなり、本論は6つの章と序論、結論で構成されている。その概要は以下のとおりである。

まず「課題と方法」と題された導入部では、「労働貨幣」に替え「労働証券」という用語を用いた理由、「小ブルジョア社会主義」「アナーキズム」「リカード派社会主義」「ユートピア社会主義」という伝統的な範疇が抱える難点が示されている。そのうえで、労働証券をめぐる論争の概要が次のように図式化されている。ただし、この「論争」は各論者が直接戦わせたものではなく、異なる時期にある論者が他の論者を一方的に批判評価するというかたちで進行したのであり、相互の応酬があったわけではない。こうした意味での「論争」をセットしたのは、マルクスであった。彼はプルードンを徹底的に批判する一方、オウエンを相対的に持ちあげるかたちで問題を提示した。ところが、このオウエンを支持しコミュティ・ベースの労働証券を追求した論者のなかから、その限界を内在的に批判したウォレンや、これを評価継承するペアのような論者が排出する。またこれとは別に、オウエンのコミュニティ型社会主義を批判するグレイのような、いわゆるリカード派社会主義の流れも登場する。さらに20世紀にはいると、プルードンを評価継承しマルクスへの反批判を試みるゲゼルのような論者が出現し、その間に一面で接近し他面では離反する多面体的な労働証券論が生成される。こうした長期の論争の成果が、ソ連崩壊後の今日、再考を求められる。ここには、社会主義と市場経済の関係をめぐる根深い問題が潜んでいるというのである。本論文ではこうした一般的な図式のもとに、各章ごとに論争の諸相が解明されてゆく。

第1章「プルードンの社会主義とマルクスの市場理論:無償信用論と価値形態論」では、労働証券をめぐる論争の方向をきめたマルクスのプルードン批判に焦点が当てられる。プルードン自身の貨幣信用論の眼目は、直面する恐慌、不況現象の根底に金属準備制度とそれが引きおこす高金利にある、という点にあり、これを交換人民銀行の設立と商業手形の無償割引といった経済改革で克服しようというのが基本的主張であった。これに対してマルクスの批判は二重に展開される。両者は密接に関連しているが、一つは『経済学批判要綱』におけるプルードン主義者、ダリモンへの批判にみられるような、商品価値の実体は労働であっても、それは貨幣価格をもって表現される必然性がある(したがって、労働時間を単位とする労働貨幣は貨幣として機能しない)という論点であり、もう一つは直接生産者の貨幣不足を無償信用によって補い、金属貨幣の優位を利用した商人的な利潤が抑止できれば、搾取のない市場が実現できるという主張は誤っている(価値どおりの売買でも労働力商品の価値規定による剰余価値は必然的に生まれる)という論点であった。しかし、こうした批判は、プルードン自身の貨幣改革論を正面から受けとめたものとは言い難いところがある。プルードンもマルクス同様、眼前の資本主義的市場がそれ自身でうまく機能すると考えたわけではないし、また、金貨幣の廃棄を標榜するプルードンの(労働貨幣というより)労働証券論は、単に既存の市場の部分的改良を主張するものではない。両者の間にあるのは、社会主義社会へのアプローチに根本的な対立があり、これが市場に対する認識に投影されたとみるべきである。プルードンは一種の「理念論」の立場で社会主義を標榜し、マルクスはこれに存立可能な市場の「実在論」を対置したかたちで、両者は真っ向から対立しているようにみえるが、今日の視点から見れば、プルードンにしてもマルクスにしても、市場経済がさまざまな非市場的要因と結びついてはじめて機能する側面を理論の射程外とする盲点を抱えていた。このようなプルードンとマルクスの類同性は、第2章以下でみるコミュニティ・ベースの労働証券論が非市場的な領域における広い意味での労働をも射程に入れた展開を内包していることと対比してみるとはっきりするのである。__

第2章「マルクスによる労働貨幣論批判の理論的含意:社会主義と地域通貨幣の射程」では、マルクスによるオウエンに対する積極的評価が検出される。マルクスは、無政府的生産のもとで市場を通じて事後的に調整し、また私的労働を社会的に評価するためには、労働貨幣ではなく商品貨幣(金貨幣)が不可欠だというプルードン批判の裏側で、オウエンの労働証券をプルードンのものと明確に区別し、これに対して好意的な評価を与える。その根拠は、オウエン型の労働証券が共同的生産、コミュニティ(ニュー・ハーモニー)を背後においたものであり、それはいわば目的と場所を共有する特定の劇場の観客の間で通用する切符のようなもので、貨幣の域を事実上脱しているという認識にある。そして、マルクスによるこのようなオウエン評価は、個々の労働者の事情、労働不能な者の存在などを考慮したコミュニティにおける合意をもとに、等労働量交換ではなく不等労働量交換を受容する方向に進みうる。こうした方向性は非市場的労働をも評価し、非市場的領域における労働と市場的領域における労働との同等性を明示化しようとする、現代における信頼の地域通貨(タイムダラーなど)などの発想に通底することが附言されている。

第3章「R・オウエンとJ・ウォレンの労働証券論」では、オウエンのコミュニティ建設に参加し、その過程でオウエンに対する内在的な批判を展開することになるウォレンの議論が検討される。マルクスは私的所有制に基づく生産システムに「労働貨幣」(労働証券)を被せるプルードンの試みは不可能であり、この点で、コミュニティを基礎にして労働証券の可能性を説いたオウエンのほうがまだましだと評価した。オウエンはこのコミュニティ建設を、新天地インディアナ州のニューハーモニーで試みる。その実現の過程で顕在化していった問題点が、この章の前半で詳述されている。その要点をウォレンによる批判との関連に絞っていえば、次の2点になる。(1)本来のコミュニティ形成の「準備社会」とはいえ、多数の参加者を寄せ集めた集団において、各自の労働を、外形的に1時間は1時間というかたちで同一な労働と見なされたこと、(2)全員参加の合意を前提に、個人の責任が明示されない帳簿方式がとられたこと、である。しかし、こうしたニューハーモニーの挫折とそれに対するウォレンの反省を通じて、むしろ労働証券論は独自の発展を遂げ、合衆国に根づくことになる。本章の後半では、あまり知られていないウォレン自身に関して概説した後、上記の2点に関して、次のようなウォレンの見解が紹介される。(1)労働の評価を欠いた外形的な「時間」では、本当の意味での「同等」な労働が基準とされたことにならない、だから、市場から購入してくる原材料に関しては市場による価格評価を受け容れ、付加される労働に関しては複雑労働の評価を加味し、「時間には時間を」というオウエンの形式的な「平等原理」にかえて、「労働には労働を」という真の「同等原理」を実現する必要がある。また(2)集中的な帳簿方式に代えて、個々の生産者がその発行者、保証者を明らかにした個別の労働証券を発行する証券方式で責任を明確にする必要がある。これによって、同一商品を生産するのに通常をこえる時間を要するような生産者は、もっと彼に適した別の生産に移ることが促され、生産部門のバランスも自然に維持できる。こうしたアイデアに基づいて、ウォレンはタイムストアの実験を展開し、一定の成果を収め、これが英国にも逆輸入されたことが指摘されている。

第4章「ウィリアム・ペアの労働証券論:貨幣の諸機能から市場像へ」では、オウエン主義運動の独自の発展として、イギリスにおける「労働交換所」の活動と、これに関与したペアによる労働証券論が考察されている。ペアは合衆国におけるウォレンの労働証券を英国に紹介すると同時に、それを貨幣論として一歩先に進めた。ウォレン型の労働証券は、タイムストアなどの調整センターとなる基準化装置(必要とされる商品の価格と数量を掲示する「需要報告書」など)を背景に具えていたのに対して、ペア型の労働証券はこうした機能を労働証券自体に担わせるかたちをとっていた。ペアは価値尺度、流通手段という側面でウォレンの主張を引き継ぎながら、さらに時空的広がりをもつ支払手段、蓄蔵機能をある範囲で労働証券に与え、事実上、労働主体が発行する信用貨幣に近い内容のものとして労働証券を位置づけなおした。この点でペア型の労働証券は、全体として計画性をもった生産と消費の対応、需要と供給の全体としての事前の一致を想定したオウエンの労働証券と対照的な性質を帯びるようになる。しかも、ペアは労働証券の覆う領域が部分的であることを積極的に認め、外部の市場価格と労働証券による価格の併存を受け容れ、現実の競争的な市場の覆う領域と非市場的な領域とを接合し、労働証券を通じた公正な取引の原理を部分的・漸進的に拡充してゆこうとする。ここには、現代の地域通貨論者が目指す理念が先取りされているという。

第5章「オウエン型労働証券と地域通貨の比較検討」では、第2章から第4章までの展開をうけて、オウエンに発するこれらの労働証券論を、現代の地域通貨との対比において見なおす作業がなされている。前半ではまず、現代の地域通貨を代表するものとして「タイムダラー」とLETSの歴史的背景と概要が紹介され、またオウエン型労働証券においても、ニューハーモニー型から労働交換所型への展開が内包されていたことが再確認されている。後半ではこれをふまえて、オウエン型労働証券と地域通貨の比較検討がなされる。比較のポイントとなるのは、(1)尺度単位としての「労働」をどのように評価するのか(「時間には時間を」を貫くのか、異種労働への評価を勘案するのか)、(2)労働証券あるいは地域通貨発行時に既存の生産物を「資産」として必要とするのか、あるいは将来の労働でもよいのか、(3)既存の市場が対象としてきた労働をこえて、非市場的な領域の労働も労働証券の対象に含めるかどうか、といった論点である。こうした観点から比較検討してみると、労働証券にしても、地域通貨にしても、一枚岩的なものとは言い難いが、全体としてみると、そのヴィジョンにおいては、オウエン型の労働証券が現代における地域通貨の萌芽としての性格を秘めていることが確認される。

第6章「ジョングレイの労働証券論:貨幣と労働の関連性」では、地域通貨的性格を具えたオウエン型労働証券の対極をなすグレイの労働証券論が検討される。本章の前半ではまず、リカードの投下労働価値説に立脚しているという通説的なグレイ解釈の限界が示される。グレイの労働証券論は、むしろ、スミス以来の支配労働価値説との混成体ともいうべき価値論を基礎にしている。さらに「労働」の側面に過度にウェートをおいて理解すると、紙券による総需要の創出を狙うグレイの労働「証券」論の本領を見逃すことにもなるという。このような従来の学説史研究に対する批判を述べた後、本章の後半では、中期と後期とに分けてその考察の展開を追うかたちで、グレイの議論の本質が炙りだされてゆく。このようにして最終的に確認されたグレイの基本的性格は、(1)労働証券論における労働の意義は、貨幣が「支配」できる労働量を一定に維持することで貨幣貸借における構成が保たれるという点にあり、また(2)技能熟練の問題を一貫して重視し、賃金格差の存在を不可避のものとされている。さらに(3)その生産体制も、国民的商工会議所の管理機能と国民銀行のセンター機能を重視したものであり、コミュニティベースの発想とは対極的な一国ベースの総需要供給の調整が基本となっている。公正の問題を静態的な分配の問題から、成長する経済における異時点間の分配の問題として捉えなおされている点も含め、グレイの労働証券論は、オウエン- ウォレン- ペアの労働証券論は大きく異なる、いわば管理通貨的性格を帯びたものになっているという。

第7章「S・ゲゼルの資本理論」では、1930年代のウェルグルW¨orgl で発行された労働証明書Abeitsbest¨atigungen やシュヴァーネンキルヒェンSchwanenkirchen のヴェーラW¨areに影響を与え、近年、地域通貨に注目が集まるなかで、その一つの源流と目されているゲゼルの「消耗貨幣」説の背景が検討される。本論文の流れに沿ってみるとゲゼルは、第1章で論じたマルクスによって全面的に批判されたプルードンの立場を引き継ぎ、マルクス主義経済学者(カウツキーやレーニン)に対して、反批判を展開した論者と位置づけることができる。ゲゼルはエゴイスト的な人間の本性に叛くことなく搾取を廃絶するには、市場中心的社会主義が不可避であると主張し、ソ連型の社会主義を否定し、生産手段の私的所有と市場経済を基礎としたアナーキズムの経済学を展開し、独立小生産者を基礎とする市場経済を次のようなかたちで構想する。(1)無地代で利用可能な「自由地」を確保すると同時に、優等地に関しては土地国有化を通じて差額地代をすべて国庫に納めることで、土地に関する搾取を全体として廃絶する。(2)それでも残る搾取は、貨幣の優位性に由来する。物財の劣化に対して貨幣は劣化しないという特性をもち、これが利子所得をもたらすのであるから、保有すれば減価する貨幣を通じてこの搾取も廃棄できるという(「自由貨幣」論)。しかし、ゲゼルの貨幣論の内実は貨幣国定説に近いものであり、市場中心的社会主義のヴィジョンも、コミュニティをベースとした生産の組織性を重視したオウエン-ウォレン-ペアのラインとはっきり区別されるものである。それは、社会全体を俯瞰したかたちの市場の組織性を重んじたグレイの主張に近いものであり、地域通貨論との距離は大きいといわざるをえない。

最後に「貨幣と市場をめぐるヴィジョン:労働証券論の可能性」と題された結論が付されている。ここでは、本論で検討された、オウエン、プルードン、ウォレス、ペア、グレイ、ゲゼルの労働証券論が、当為(理念論)/分析(実在論)、生産手段の共有(コミュニティ型)/私的所有(独立小生産者型)、直接の労働時間(同一の「時間には時間を」型)/複雑労働の評価(同等な「労働には労働を」型)、帳簿方式(管理主体の統一)/証券方式(個人の個別発行)、外部貨幣との互換(市場価格の参照可能性)/外部貨幣との切断、社会的再生産全体をカバー/部分的補完的(固有の非市場的労働の評価にウェート)、といったいくつかの観点から縦覧的に比較され特徴づけられている。このような総括をふまえて、労働証券型の地域通貨は、それはさしあたりウォレン=ペア型の労働証券から展望すべきだという。そして、労働証券だけでは、オウエンやマルクスが望んだ生産の無政府性の克服や生産体制の組織化は荷が重すぎるが、しかし、地域通貨に通じる労働証券論には固有の課題があるという。それは通常の市場ではカバーできない領域、ボランティアやコミュニティ形成の活動を社会化し、一方的な贈与と負い目に基づく支配従属関係に代わる、対等で公正な「交換」関係を確保する手段となる。それには、上からの労働評価、外部からの査定ではなく、労働に対する自己評価と労働証券の個人発行が前提となる(ウォレン=ペア型)。そのうえで、労働の内容と目的がコミュニティに固有な領域を核とするものとされれば、労働の種差、難易による厳密な評価制度は意味を失うことになろうと付言されている。

2 評価

以上のような内容を有する本論文の積極的意義を述べれば、つぎのようになる。

第1に評価できるのは、労働証券論内の多層性の検出である。第1章、第2章で説明されているように、マルクス主義者が空想的社会主義を批判するなかで、「労働貨幣」論の多分に脚色された面がある。本論文は、従来、大同小異の主張と考えられてきた労働証券論の内部に踏み込み、原典に立ち戻って「労働証券」の原問題を発掘し、そこに異なる「貨幣と市場のヴィジョン」が不整合に堆積している点を発見している。その際、これも奇妙なことにマルクス主義者が見逃してきたところであるが、マルクス自身がプルードンの主張とオウエンの主張をはっきり区別していたことを読み解き、これを逆手にとって、労働証券論の基本タイプの分岐を明確にした点も本論文の創見である。

第2に評価すべきは、労働証券の多層性を二つの基本型の絡み合いとして構造化した点である。市場の組織性(貨幣信用制度の改革)を重視するプルードン型の発想と、生産の組織性(コミュニティ建設)を前提とするオウエン型の発想は、ともに変容せざるをえない契機をかかえており、その結果、両者はそのまま平行線を描くかたちで発展したのではなく、互いに交差し縺れ合う複雑な展開をたどらざるをえなかった経緯が解明されている。とくに、ウォレン、ペアといった、これまであまり注目されてこなかった論者の主張に着目したことは、この経緯を知るうえで重要な役割を果たしている。これにより、労働証券論の変容の基本契機が、主体の個性種差を認めたうえでの共同社会(コミュニティ)の困難にある点が明瞭にされている。この分析は固有の「学説史」研究として評価できる。

第3に、従来の「労働貨幣」に替えて「労働証券」という呼称をあて、広い意味の「紙券」論あるいは「信用貨幣」論としての相貌をクローズアップした点も評価できる。これまで「労働貨幣」論の「労働」の側面については、マルクス以来、私的労働と社会的労働、個別的労働時間と社会的平均的必要労働量の区別、労働量と価値量との関連などを無視したその皮相な理解として、繰り返し批判されてきた。しかし、労働証券論には、こうした批判の陰に隠れたもう一つの相貌、すなわち金属貨幣に替えて「証券」を貨幣として用いるという着想があり、これが不況対策的な意味も含め、労働証券論者の主張のむしろコアをなしていた点が明確にされている。とくに、グレイやゲゼルの議論は、「労働」貨幣というより、労働「証券」として捉えてこそ、その意義が理解できるという。またグレイの主張に対しては、投下労働量に基づく等労働量交換によって「労働全収権」を主張する「リカード派社会主義」というラベルが貼られてきた。しかし、これもまた多分に不正確な理解で、その内実は、スミス的な支配労働量の主張をベースに、購買と支払の時間差、貸付と返済の時間差のなかで、購買できる労働量を一定に保ち、こうして公正を自由な紙券発行で担保するのが「労働」を尺度にとる主眼であったという。その点では、けっきょくゲゼルと同様に、総需要管理を考えていたのだという独自の解釈が提示されている。

第4に、労働証券論が、ソ連型社会主義の崩壊以降、注目されるようになった地域通貨論と深いつながりをもつことに着目した点も新たな貢献といってよい。地域通貨論は単に貨幣機能の優劣の問題ではなく、人間生活の諸領域全体と私的な競争的市場の関わりを問うものであり、その背後に人間社会の共同性のあり方を模索する点で、オウエン、ウォレン、ペアと続く、直接的コミュニティ建設、協同組合運動など、生産の組織化の基礎のうえに労働証券を位置づける論者の関心と通底する。このタイプの労働証券論者は、個人の個性を重んじながら異なる労働の評価をどのようにおこなうのか、主体の自発性を基礎にしながらいかにして共同性を構築するのか、こうしたクリティカルな課題の解決を実践的に取り組んできた。同じように、今日の労働証券論型の地域通貨においても、通常の市場で処理されてきた生産的労働のほかに、市場にのらない、さまざまな労働の評価とその社会化が、重要な課題として追求されている。本論文は、こうした論点を発掘することで、現代社会の基本問題との接点を重視した学説史的研究になっている点でも評価できる。

第5に、固有の学説史研究としてみた場合、特定の経済学者や学派でもなく、またそれら相互の論争でもなく、双方向的な批判の応酬がみられない隠れた論争を炙りだした点でも一定の成果をあげている。労働証券論をいわゆる「論争」として捉えようとすれば、それは労働証券論者とマルクス主義者の間の批判の応酬と見なすのが自然である。しかし、すでに述べたように、それでは労働証券論はマルクス主義の「科学的社会主義」に対立する、「空想的社会主義」の主張として一様におおわれてしまう結果に終わる。本論文では、このような既存の「労働貨幣」観を打破し、労働証券論者の内部の種差に現代的な観点から光を当て、オウエンからゲゼルまで、間歇的であるが100年に及ぶ、かなり異質な議論を独自に関係づけることに重きをおいている。このような「隠れた論争」の通史を独自に再構成することで、ソ連型社会主義崩壊後の社会主義の動向を展望した点に、この論文の独自性を認めることができる。

しかし、本論文には、疑問とすべき論点や、さらに解明すべき未解決の問題も残されている。

第1に、全体の構成に関わる問題がある。労働証券論者として、オウエン、プルードン、ウォレン、ペア、グレイ、ゲゼルに焦点を絞ったこと、そしてこの順序で論じた理由が十分説明されていない。直接的な批判・反批判の応酬がみられない(マルクス主義者による批判とプルードンを支持するゲゼルらアナーキスト経済学者の反批判は多少あるにしても、ここに登場する労働証券論者の相互間では)「隠された論争」にとどまっていることもあり、全体の流れが一読したところではつかみにくい。とくに、第2章から第4章までオウエン、ウォレン、ペアと論じた後、第5章でこれら19世紀の労働証券論と現代の地域通貨との関連を論じ、ここで中間的総括を与える構成になっている。このために、その後に続くグレイ、そしてゲゼルへの展開が切断された観を与える。基本線は、プルードン型の市場の組織性(貨幣・信用改革)とオウエン型の生産の組織性(マルクスが多分に創作した面はあるがコミュニティ建設)という二つの型の分岐にあり、これに対して微妙にズレた批判・継承関係が展開されるのだが、第3章以降の構成については再整理が必要である。

第2に、とくに第7章で取りあげたゲゼルの主張が、労働証券論をめぐる論争のなかでどのような位置を占め、いかなる意義を有するのかに、やや不明確な点が残る。たしかに、近年、ゲゼルの議論は地域通貨論の先駆として再評価されてきたが、本論文に従うかぎり、ゲゼルの貨幣論は必ずしも「地域」性を重視したものではない。また、それが労働証券論という枠組みに収まるかどうかも判然としない。たしかに、本論文で扱っている「隠された論争」の流れに、ゲゼルの議論を含めて論じることは可能だし、また必要でもあろう。しかし、そのためには労働証券論から派生する管理通貨論者に射程を広げ、さらに広い枠組みを用意するべきである。本論文におけるゲゼルは、第1,2章で敷設された基本的枠組みからやや逸脱しており、このゲゼルで終わる構成が全体としての結論を不鮮明にしている。

第3に、この基本線に関わることであるが、序論や第2章で、プルードンが「理念論的」であり、これに対してマルクスは「実在論的」であるという枠組みが提示されている。これがあたかも全体を貫く参照枠であるかのようにとれることもあり、混乱をうむ。「理念論的」「実在論的」という対比も含めて、共有/私有、異種・複雑労働の無視/評価、発行主体の集中管理/個人化、外部貨幣との互換/切断など、この「隠された論争」の争点となった複数の論点全体の構造がさらに明確される必要がある。この諸争点の構造がクリアにされることではじめて、労働証券論の背後に潜む、副題の「貨幣と資本をめぐるヴィジョン」の真義も理解可能になる。

第4に、論文タイトルにいう「歴史的位相」に関わる問題がある。各章では各論者の著作を丹念に解読するかたちで、労働証券論が決して一枚岩のものではなく、多層的で対立を内包した「多面体的」な諸相をもつことは示されている。しかし、それぞれの論者が取り組んだ同時代的な問題状況、思想史的背景に対する論及が不充分であり、そのために諸相をこえた「歴史的位相」が明らかにされているとは言い難い。現代における地域通貨との内的な関連を追及している点は評価できるが、労働証券論をめぐる「論争」全体の歴史的位相をふまえれば、最後の結語的部分が、現代とのつながりがオウエン型労働証券と労働証券型地域通貨の関連性への言及だけで終わることはなかったと思われる。

以上のような問題は残されているが、本論文は博士(経済学)の学位を授与するに足る研究成果であるという結論に審査委員会は一同一致した。

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