学位論文要旨



No 125534
著者(漢字) 岩田,真実
著者(英字)
著者(カナ) イワタ,マミ
標題(和) 動的事象の臨界揺らぎに関する理論 : ガラス転移の理解をめざして
標題(洋)
報告番号 125534
報告番号 甲25534
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第983号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々,真一
 東京大学 教授 清水,明
 東京大学 准教授 福島,孝治
 東京大学 准教授 加藤,雄介
 東京大学 教授 田中,肇
内容要旨 要旨を表示する

1 背景

ガラス状態は、単純な粒子から構成される普遍的な巨視的状態の一つである。液体状態の粒子系を急冷したとき、系は一旦、液体と同じアモルファスな粒子配置を持つ過冷却状態に留まる。その後、粒子の再配置運動によって熱力学的に安定である固体状態へ緩和する。固体状態への緩和に要する時間は温度の低下とともに長くなり、ある温度以下では観測時間の範囲でアモルファスな粒子配置のまま凍結してしまう。この凍結した状態が、ガラス状態と呼ばれる。

ガラス状態を理解する試みは、動力学や統計力学などのさまざまな立場からなされてきた。その一つに、動力学的異常性による以下のような特徴付けがある。例えば、過冷却液体においては、密度場の2体時間相関関数(二時間相関関数)は単純な指数緩和ではなく2段階緩和を示し、ある転移温度に近づくにつれ緩和時間が発散傾向を示す。この緩和時間が有限の値から発散する転移は非エルゴード転移と呼ばれ、次のような物理的描像が考えられている。転移温度より高温では粒子は互いに邪魔しあいながら平衡状態を探すための再配置運動を繰り返すが、転移温度に近づくと、再配置のためにまわりの粒子から抜け出すという動的な事象の頻度が次第に減り、ついに転移温度で配置が凍結してしまうという描像だ。とりわけ近年の研究では、この動的事象を表現する試みによって、ガラス転移点における特徴的な長さと時間の発散傾向が以下のように示唆され、新たな展開が期待されている。まず、温度を与えると密度場の2 体時間相関関数の緩和時間が決まる。液体状態のある温度でこの緩和時間の間の粒子の変位を描画すると、粒子配置は空間的に均一に存在する(図1 左)。その一方、ガラス状態に近い低温側では不均一に存在し(動的不均一性)、さらに特徴的長さの増大が見られる(図1 右)。より正確には、この動的相関は密度場の4 体時間相関関数で定量化され、ついにある転移点では、驚くべきことに、緩和時間と同時に揺らぎの振幅と特徴的長さの発散が起きる。この臨界的振る舞いは、統計物理学の問題として刺激的な可能性を提示しているように思える。

【着眼】このようなある転移点における時間空間スケールの発散は、ガラス転移が協同現象であることの証拠であり、平衡系の臨界現象との類似性を示唆している。つまり、この現象が理解されたときには、臨界現象のときにあったような、簡単な構造による分類ができる可能性がある。臨界現象においては、分類の基本要素となったひな形は、ギンツブルグ・ランダウ模型である。具体的には、秩序変数の分岐(温度を変化させたときの秩序変数の定性的変化)を最小に表現する有効ハミルトニアンに基づいて、揺らぎの解析が行われ、臨界現象を特徴づける指数が定量的に計算された。

平衡系の臨界現象においては静的な量である熱力学量に特異性が現れるのに対し、ガラス転移においては静的構造因子などの量に特別な変化が無く、密度場の高次時間相関関数という動的な量に特異性が現れる。そこで、ガラス転移の動的側面のうちその力学系の性質に焦点を当てる。そして、非エルゴード転移点で現れる臨界揺らぎと臨界現象との類似性に対する着眼を具体化するために、ギンツブルグ・ランダウ理論に着想を得て、動力学に対する分岐(温度を変化させたときの軌道の定性的変化)に着目し、この分岐に付随する揺らぐ場の解析から、" 臨界的"ふるまいの記述を試みた。

2 内容

ガラス転移に関係するいくつかの模型の分岐構造

【モード結合転移の分岐(第二章)】モード結合理論は、実験に先駆けて構造ガラスにおける非エルゴード転移を予言し、ガラス転移の研究において重要な役割を担ってきた。この理論の中核をなす方程式は、モード結合方程式と呼ばれ、密度場の2体時間相関関数が満たす式に対してバーテックスコレクションを無視して得られる。この方程式は時間に依存する履歴項を含んでいるため、分岐理論の立場では、無限次元サドルノード分岐を示す。少数自由度による記述ができないため、解の最小表現が自明ではない。この方程式の理論的解析は、非線形性の強い記憶項の取り扱いの困難さから進展せず、数値積分を介してその振る舞いの予言を行うことが多かった。

第二章では、モード結合方程式を解析的に扱うための準備として、モード結合方程式の解を摂動論的に構成する。p 体球スピングラス模型では、モード結合方程式が厳密に導出され、その動力学はもっとも簡単なモード結合方程式で記述される。本研究では、このモード結合方程式に対して非エルゴード転移点の近くで、転移点からのずれを摂動パラメータとして、解を構成する系統的な摂動論を初めて構築した。転移点近傍においては、解の様相が摂動に対して大きく変化するため、素朴な摂動論は破綻する。そこで、3つのタイムスケールを導入し、特異摂動法を使うことで、系統的な摂動解の構成を行った。その際、モード結合方程式は遅い時間スケールでディラテーション対称性を持つことが重要な役割を果たす。この性質を使って、転移点からのずれを表す小さいパラメタ依存性を明示した、解の最小表現を得た。

【k コアパーコレーション模型の動力学の分岐(第三章)】先行研究では、粉体のように排他性が本質的に強く効く系におけるガラス転移に焦点を当てるため、動力学に制限の入った格子模型が研究されてきた。この動力学の制限は、粒子がお互いの配置の交換の邪魔をし合う寄与を表している。これらの動力学は、粒子密度や温度に関してある転移点が存在し、緩和時間の発散が起こることが知られている。この転移点は、グラフに対してある制限を課したときのパーコレーション転移と同じである。このようなパーコレーション模型の一つに、k コアパーコレーション模型がある。この模型は、k 本以上の辺を持つ格子点だけから成るクラスタ(k コア)のサイズが、密度を変えるとシステムサイズに到達するパーコレーション転移を示す。第三章では、初期状態としてランダムグラフを与え、最後にk コアだけが残るように辺を消す確率過程を考える。そして、この過程が、熱力学極限(決定論的極限)で厳密にサドルノード分岐することを示した。さらに、この分岐点において、緩和時間の発散と軌道の揺らぎの振幅が発散することを見いだした。これは、秩序変数の不連続転移と二次転移的な揺らぎが臨界的になる振る舞いが共存することを意味している。このような性質はガラス転移の一つの特徴付けとされており、k コアパーコレーションの動力学が、そのようなもののうちの最小模型になっていることが分かった。

分岐の周りの揺らぎの解析

以上のように、ガラス転移に関係する二つの模型の動力学が、分岐論の立場からはサドルノード分岐の仲間として表現されることが分かって来た。そこで、サドルノード分岐に付随する揺らぎの解析を行い、臨界揺らぎの臨界指数を計算した。この中で、臨界的振る舞いが現れる簡単な数理構造が明らかになった。

【サドルノード分岐に付随する揺らぎの解析(第四章)】第四章では、動力学がサドルノード分岐を示す揺らぐ場の有効確率過程を考え、この経路積分を与える作用を特異摂動法を用いて解析した。この解析では、分岐点近傍で、分岐形に起因した時間並進対称性を破った解の周りで揺らぎの記述を摂動論的に行うことに成功した。その結果、模型が元来持っている対称性を破ることに付随したゴールドストーンモードが存在し、このゴールドストーンモードの揺らぎが特異的になることで軌道の揺らぎが臨界的になることが分かった。このゴールドストーンモードはサドル点から離れる時刻に対応するので、より広く構造ガラスの問題においては、粒子再配置が起きる時刻のゆらぎの特異性が非エルゴード転移点近傍の臨界的振る舞いをもたらす可能性を提示することができた。

3 考察

ガラス転移点における臨界的ふるまいは、素朴な量の観察からは見えにくく、密度の高次相関という複雑な量で定量化される。この量が強い非線形性を持つことから、モード結合理論に基づく解析などの先行研究では、系統的な解析が困難であった。一方、本研究は、ガラス転移に関するいくつかの模型に対して転移を力学系の立場から見直して、その分岐に着目し、非線形性の強い分岐構造を拾った未摂動状態のまわりで揺らぎを摂動論的に記述することで、より簡単に高次相関の異常性を記述することに成功した。その結果、臨界点に近づくにつれて特異的揺らぎが次第に稀になる様相を簡潔な理論で示すことができた。これにより、ガラス転移に関係するいくつかの模型における臨界的振る舞いが、動的事象の協同現象として捉えられた。

本研究が提示した新たな着眼がガラス転移の本性を捉えているかどうかは未知である。しかし、いくつかのガラス転移と関係する重要な模型に対して本研究が提案した理論的枠組を着実に展開することができたことは、将来のさらなる発展を期待させると考えている。

図1: それぞれの粒子が、二体時間相関関数で決まる緩和時間の間に動いた変位を描画した図[山本量一、小貫明、日本物理學會誌、60 (8)、602 (2005)]。左:液体状態の温度。右:左の図よりガラス転移点に近づいたときの温度。

審査要旨 要旨を表示する

ガラスの性質を系統的に理解するのは古典的難問のひとつである。特に、理論的には、熱力学の意味でガラス転移が存在するかどうかすら未解決なままである。それでも、近年、主に平均場解析の結果として、その特異的な様子が少しづつ明らかになりつつある。提出された岩田真実氏の博士論文では、それらの進展状況を踏まえて、ガラスを理解することを目指した独自の問題設定が立てられ、それに従った研究成果が5章144ページにまとめられている。

まず、第1章で、ガラス転移に関する近年までの理解の状況が概説され、研究の大きな方針が述べられる。一言でまとめると、近年の研究で明らかになってきたガラスに固有な異常な動的振る舞いを様々な動的協同現象の中に位置づけようとする方針である。つまり、現象を分類する営みを介してガラスの理解に迫ろうとしている。この考え方は、臨界現象において普遍性クラスという言葉が確立した以降は、統計力学の研究者には標準的であろう。また、臨界現象だけでなく、非線形動力学現象を理解するときにも、分類する視点は重要な役割を果たしてきた。それらの延長上にガラスの問題を位置づけるのは、本論文の独自な点である。

具体的に、第2章でモード結合方程式の性質を調べることから議論が始まる。モード結合方程式は、構造ガラスのダイナミクスの近似的記述として80年代から研究されてきた。ガラス転移を示す特別な平均場スピン模型の動力学として厳密に導出されているので、ガラスに付随する動力学の雛型の役割を果たす。これまでに蓄積されてきた結果に対して本論文でつけ加えた知見は、方程式に対する解の標準的表現である。この表現は、特異摂動法により解を構成することで得られ、既知事項を全て再現するだけでなく、クラス分けの点からは次の重要な視点を与える。第1に、モード結合転移が無限自由度サドルノード分岐として位置づけられること。第2に、その標準的表現では、時間の目盛を拡大縮小する変換に対する対称性(ディラテーション対称性)に付随する任意性が決定される様が記述されること。以上の2点は、モード結合方程式の知見としては、技巧的な詳細ともみなせるが、引き続く議論の中でその意義が浮かび上がることになる。

第3章では、k コアパーコレーションに付随する確率的動力学が議論される。この確率過程模型は、ガラス転移に類似しているジャミング転移に関係することが指摘されていた。ランダムグラフ上で定義されたこの模型が厳密に解析されることにより、そのパーコレーション転移が力学系としてはサドルノード分岐に対応することが示される。この時点で、ガラス転移のひとつの雛型であるモード結合方程式とジャミング転移と関係するk-コアパーコレーションが、「サドルノード分岐」という言葉で結ばれることになる。ただし、ここでのサドルノード分岐は、モード結合方程式のそれとは異なり1自由度の分岐であり、もっとも簡単な形になっている。それに伴い、モード結合方程式の解の標準的表現で現れたディラテーション対称性が、ここではより単純な時間並進対称性に置き換わる。

この簡単さを踏まえて、第4章では、1自由度サドルノード分岐点近くでの動的異常性が理論的に解析される。これまで、サドルノード分岐点のゆらぎの異常性については、平均場レベルでも十分に解析されていなかった状況を踏まえ、まずは平均場での動的ゆらぎが徹底的に解析される。動的異常性を解析するために、軌道を空間配置に読みかえる記述が定式化され、仮想的な時間変化をする動力学の簡約によって、軌道の統計分布が特徴づけられる。具体的には、ゆらぎの特異性を決めているのは時間並進対称性に付随するゴールドストーンモードであることが明らかにされる。実際、動的不均一性と呼ばれる現象を特徴づける臨界指数がこの方針で厳密に計算される。

この結果を踏まえると、モード結合転移点近くの動的異常性の記述には、ディラテーション対称性に由来するゴールドストーンモードが本質的役割を果たすと予想される。そして、その描像にもとづいて、モード結合転移点近くの動的不均一性についても解析できることが期待される。この予想については、今後、具体的に検討されるだろう。さらに、有限次元空間における振る舞いについて平均場解析を超えることは、ガラス転移研究における現在の大きな課題のひとつであるが、それについてもひとつの示唆を与えている。そこでの大きな問題は、活性化過程とよばれる非摂動ゆらぎを記述することである。本研究結果で明らかにされたゴールドストーンモードは標準的な摂動理論の枠内では非摂動ゆらぎに属するものであり、活性化過程とも関係している。従って、非摂動ゆらぎの摂動論的定式化につながる可能性をもたらしている。第5章で、このような様々な展望が具体的に述べられている。

以上のように、岩田真実氏はその論文において、現象を分類する視点によってガラスの理解に迫ろうとする萌芽を与えた。個々の問題に対して高い数理技術を駆使して明晰な結果を得ただけでも十分な評価に値する。それにとどまらず、より長期的研究の中に位置づけられる営みを開始したことの意義も大きい。すなわち、本論文は、ガラスの研究に対して新しい視点を明確な形で持ち込んだものであり、将来大きく発展する可能性を秘めている。

なお、本論文の内容は、第2章、第3章、第4章の1部がそれぞれ論文として出版されており、第4章の主たる部分が論文投稿準備中である。また、第5章で言及されている関連する研究について、論文2編が既に出版されている。

以上の点から本論文は博士(学術) の学位を与えるのにふさわしい内容であると審査委員会は全員一致で判定した。

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