学位論文要旨



No 125558
著者(漢字) 斎藤,俊
著者(英字)
著者(カナ) サイトウ,シュン
標題(和) 摂動論に基づいた銀河分布の非線形パワースペクトルによるニュートリノ質量の精密推定法
標題(洋) Toward a precise measurement of neutrino mass through nonlinear galaxy power spectrum based on perturbation theory
報告番号 125558
報告番号 甲25558
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5466号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 特任教授 村山,斉
 東京大学 准教授 山下,了
 東京大学 教授 安田,直樹
 東京大学 准教授 濱口,幸一
 東京大学 教授 川崎,雅裕
内容要旨 要旨を表示する

本論文では、銀河分布のパワースペクトルの非線形進化を、摂動論に基づいてニュートリノ質量の効果を適切に取り扱うことのできるようなモデルを提案した。さらに、我々のモデルを実存のデータであるSloan DigitalSky Survey (SDSS)のLuminous Red Galaxies (LRGs)のパワースペクトルに適用することでロバストなニュートリノ質量の制限を得た。さらに近未来や将来の銀河サーベイ計画を念頭にどの程度ニュートリノ質量を制限しうるかについて議論した。以下にその詳しい内容を述べる。

ニュートリノが質量を持つという実験事実は素粒子標準模型の破綻を示唆する唯一の実験的証拠であり、ニュートリノがどの程度の質量をもつのかを明らかにすることは、単に素粒子の質量を測定するということ以上に高エネルギー物理学に寄与できると考えられる。地上の実験では、ニュートリノ振動実験によりニュートリノの質量固有値の二乗差が、ベータ崩壊のスペクトルの終端エネルギーから電子ニュートリノの質量が、ニュートリノレスダブルベータ崩壊の探索によりマヨラナ電子ニュートリノの有効質量が、それぞれ測定できる。それに対して宇宙論的観測は、ニュートリノ質量固有値の総和を測定でき、これはニュートリノの混合角パラメータを介せずに質量の絶対値に迫ることのできる唯一の方法として、重要な役割を担っている。さらに現在の宇宙論的観測により得られている制限、 Σmν<0.3-1.5 eV (95% C.L.)、は地上実験による制限、Σmν<6.0eV (95%C.L.)、に比べて非常に厳しい制限が得られている。以上の事実から、現在または将来の宇宙論的観測を用いたニュートリノ質量に対するより厳しい制限、または精密な測定が期待されている。

宇宙論的観測によりニュートリノの質量を制限する方法は大きく分けて2つある。1つは宇宙の膨張則を距離指標を通して観測する方法である。ニュートリノは宇宙の温度がその質量エネルギーよりも小さくなるまで相対論的に振る舞い、その後非相対論的に振る舞うので宇宙膨張に影響を与える。距離指標の例は、宇宙マイクロ波背景輻射(Cosmic Microwave Background, CMB)の温度の非等方性や銀河分布に現れるバリオン振動(Baryon Acoustic Oscillations, BAOs)のスケールのような「標準ものさし」やIa型超新星のような「標準光源」である。もう1つは、宇宙の大規模構造形成に対する影響である。ニュートリノは軽いので非常に大きな熱的速度分散を持つ。したがってフリーストリーミングスケール(宇宙膨張に対して熱的速度で進むことができる典型的なスケール)より小さなスケールでは重力に寄与せず、構造の成長を抑制する効果がある(図1)。

非常に興味深いことに、ニュートリノのフリーストリーミングスケールは偶然にもBAOスケールと同程度である。ダークエネルギーの性質を探るために、銀河分布を観測することによりBAOを測定するという計画が多く提案されている。銀河分布の観測をCMBの観測と組み合わせることにより、ダークエネルギーの性質とニュートリノの質量を同時に決定できるのである。

ここで重要なのは、ニュートリノ質量の効果やBAOが現れるようなスケールでは、重力による非線形進化の影響、銀河バイアス、赤方偏移ゆがみ、等の非線形効果が無視できないということである。近年の摂動論やN体シミュレーションの発展により、非線形パワースペクトルの精密な予言が可能となってきているが、ニュートリノ質量の効果は無視されている。しかしニュートリノ質量によるパワースペクトルの抑制の効果は、振動実験で得られている最小値(~0.05eV)を仮定しても、振幅に対して数%レベルであり近未来または将来の銀河サーベイでは決して無視できない効果である。

そこで本研究ではまず、摂動論的アプローチに基づいて、ニュートリノ質量の効果を取り入れて物質の非線形パワースペクトルを計算する手法を確立した。特に、ニュートリノのゆらぎは線形として取り扱う等の仮定の妥当性を定量的に評価し、我々の導いた非線形パワースペクトルの表式の精度を確かめた。我々の計算により、線形理論ではニュートリノ質量による抑制の効果は小スケールで一定に近づくのに対し、非線形領域では重力による非線形進化の影響によりニュートリノによる抑制の効果が増幅されることを示した(図2)。また、摂動論的アプローチに基づいて銀河バイアスも同時に取り込むことができることを示し、ニュートリノによる抑制の効果と非線形銀河バイアスとの関係について論じた。

我々は摂動論に基づき構築した非線形パワースペクトルを実存のデータである、SDSS LRGのパワースペクトルに適用し、経験的な非線形モデルに基づいた先攻研究における結果との比較を試みた。Tegmark et al(2006)により測定されたdata-release 4 (DR4)のLRGパワースペクトル、Reid et al (2009)により測定されたdata-release 7 (DR7)のLRGパワースペクトルの双方に適用し、先攻研究とのよい一致を確認した(図3)。WMAP5+SDSS DR7で得た Σmν<0.67 eV (95% C.L., wCDMモデル)という制限はその意味でロバストな制限と言え、WMAP5のみである Σmν<1.5 eV (95% C.L.)に比べて約2.3倍厳しい制限である。同時にDR4とDR7で宇宙論パラメータ間の異なる傾向を確認した。DR7で見られた傾向が、我々の用意したシミュレーション内のハローパワースペクトルを用いた解析結果とよく似た傾向が見られたことを考慮すると、DR4でのパワースペクトルの測定そのものの系統誤差を示唆し、これは先攻研究における指摘を異なる形で確認したことになると考えられる。

最後に我々の非線形銀河パワースペクトルのモデルをもとに、将来の銀河赤方偏移サーベイによりどの程度ニュートリノ質量が制限しうるかをFisher解析を用いて評価した。我々の見積もりによれば、PlanckによるCMBの情報を組み合わせることによって、近未来の地上観測計画ではσ(Σmν)0.1eV、将来の宇宙望遠鏡計画によりσ(Σmν)0.05eVが達成可能であり、これらはニュートリノ質量の総和の下限値と同程度であり、宇宙論的観測によりニュートリノ質量が制限されるだけではなく決定できるという可能性を示唆している。さらに、ニュートリノ質量を無視して質量を0として解析することによって、ダークエネルギーのパラメータの決定に関してバイアスされうることを示した。特に、将来の宇宙望遠鏡計画のような高精度の観測では、ニュートリノ質量を無視することによるダークエネルギーパラメータへのバイアスは無視できないほど大きく、ニュートリノ質量を考慮に入れなければならないことを示した(図4)

図1: 物質の線形パワースペクトルにおけるニュートリノ 図2: ニュートリノ質量による抑制の効果の比較。質量による成長抑制の効果。

図2: ニュートリノ質量による抑制の効果の比較理論予言はそれぞれ線形理論(水、点線)、摂動論(赤、実線)、フィッティング公式(青、点線)。

図3: WMAP5+SDSS LRG DR7で得られたニュートリノ質量のmarginalized posterior distribution。WMAP5のみ(緑、点線)に対して、摂動論(赤、実線)、経験的モデル(青、実線)での改善が確認でき、さらに両者はよく一致している

図4: 将来の宇宙望遠鏡計画を念頭においた、ダークエネルギーパラメータの決定精度。ニュートリノ質量を無視することによって、エラー(楕円の面積)を過小評価する。さらに、中心値がバイアスされた結果になる

審査要旨 要旨を表示する

本論文は7章からなる。第1章はイントロダクションであり、宇宙初期の密度揺らぎから成長した(暗黒)物質の質量分布を理論的に計算し、データと比較することによりニュートリノの質量に制限を加えていくプログラムについて解説している。特に、理論的な予言の不定性を押さえることが鍵であることが示されている。第2章では現在のニュートリノの質量の制限をレビューしている。第3章では今までこの分野で用いられて来た宇宙の密度揺らぎの線形理論に基づくニュートリノの質量の制限の付け方を批判的にレビューしている。

本論文のオリジナルな研究は第4章以降にある。密度揺らぎについて非線形な効果も取り入れた摂動論による理論計算を議論し、それにニュートリノの質量の効果を含める定式化を打ち立てている。暗黒物質とバリオンについては流体近似が使えるが、ニュートリノについては非衝突ボルツマン方程式を使わないといけないため、両方を同時に扱うのは難しい。斎藤氏はこの問題を解くため、ほとんどの場合にはニュートリノの効果は一次までで充分であることを示し、技術的な解決を与えている。しかし小さいスケールになると非線形な効果が(ニュー・トリノの効果を含めなくても)重要になることが知られており、摂動論は信頼できなくなる。そこで氏はN体数値シミュレーションとの比較により、どのスケールまで摂動論が信頼できるかを定め、信頼できる範囲内でもニュートリノの効果を引き出せることを示している。こうして理論的に信頼性の高い予言が可能になった。第5章ではSloanDigitalSkySurveyで観測された銀河分布の現存のデータを用い、氏の理論予言との比較によりニュートリノの質量に新しい制限を与えている。三種のニュートリノの質量の合計がO.67eV/c2(95%CL)以下という厳しい上限を出しており、以前のWMAP5のみのよる1.5eV/c2という上限を2.3倍改善している。そして第6章では今後の世界の様々な観測計画でどこまで上限を更に改善できるかを予測し、0.05eV/c2まで迫れることを示している。スーパーカミオカンデの大気ニュートリノの振動の発見によりニュートリノの質量和は少なくとも0.05eV/c2はあることが分かっており、銀河分布から充分この値に迫れる可能性があることを示した。しかし銀河バイアス等理論的に不確定な部分は残っており、この点は第7章のまとめで議論されている。Appendixでは理論計算の詳細がまとめられている。

なお、本論文の研究は樽家篤史、高田昌広氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって計算を完成したもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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