学位論文要旨



No 125607
著者(漢字) 井上,心愛
著者(英字)
著者(カナ) イノウエ,ムネノリ
標題(和) 高感度磁気トルク測定技術の開発とそれを用いた鉄フタロシアニン伝導体の磁気トルク測定
標題(洋) Development of experimental techniques for highly sensitive magnetic torque measurements and their application to the iron (III) phthalocyanine conductors
報告番号 125607
報告番号 甲25607
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5515号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 田島,裕之
 東京大学 教授 濱口,宏生
 東京大学 教授 上田,寛
 東京大学 准教授 島田,敏宏
 東京大学 教授 大越,慎一
内容要旨 要旨を表示する

1 緒言

磁化の非線形部分を力学的に検出する磁気トルク測定は、磁性を研究する力学的手法として古くから知られている。これに対して、最近、市販のAFMチップ(SII 社製SSI-SS-ML-PRC400)を用いて磁気トルク測定を行う手法が大道らにより提案された(RSI,73 3022 (2002))。この手法は著しく感度が高いことが特徴であり、微小単結晶を用いたドハース・ファン・アルフェン効果の観測などで威力を発揮している。しかしながら、これまで報告された実験はトルクの絶対値に関して言及したものはなく、精密磁気測定に用いられた例はほとんどない。そこで本研究課題においては、この手法による定量的な磁気測定ができるかどうかに関して詳細な検討を行い、さらに巨大負磁気抵抗を示すTPP[Fe(Pc)Br2]2 塩の磁性研究に適用し、磁気状態を明らかにした。

ちなみに磁性の測定装置としてはSQUID 素子を用いた高性能磁化測定装置が市販されており、数多く実験結果が報告されている。この装置は外部ノイズに極めて敏感なため、高磁場の印加時においては逆にノイズが増える傾向がある。これに対して、磁気トルク測定の場合は、シグナルが磁場強度の二乗に比例するため(磁化が磁場に比例するとしたとき)、高磁場測定で有利である。本研究で用いたAFM チップを用いた磁気トルク測定では、10 T 程度の磁場で、市販の磁荷測定装置の100 倍~1000 倍程度の感度を有しており、例えば本研究で扱ったTPP[Fe(Pc)Br2]2 など、異方性を有する微小単結晶の磁気物性の研究には、最も適した手法であるという特徴を有する。

2 実験

本研究では、Oxford社製ソレノイド型超電導マグネット(B < 16 T)を用いて実験を行った。ソレノイド型マグネットに設置した温度可変インサートの中で試料の回転ができる一軸回転型試料ホルダー(図1(a)、写真)を自作し、図1(b)の回路を組んで( Vsense/V+-V_)を測定した。カンチレバーの感度を調べるために、グラファイトをいくつかのカンチレバーに取り付け感度を調べた。その結果、個々のカンチレバーには個体差が存在するが、同じバッジのカンチレバーであればその差は5%程度であること、また、同一ケース外のカンチレバーであっても適当な補正係数をかけてやることで、図2に示したように温度ごとにほぼ同一の校正曲線を描くことが分かった。このことを利用して、出力からトルクτの相対値(場合によっては絶対値)が決定できることが分かった。

トルクτの正負は、磁気的に安定な点であるか、不安定な点であるかを判断する上で重要である。以下に述べる実験結果では、グラフを左下から右上へと横切り、dr= 0;dr /dθ= 0あるいはdr /dφ= 0(θ、φ は角度変数)となる点が磁気的な安定点となるように定義した。

3 伝導性フタロシアニンへの適用

フタロシアニン環を有する分子性伝導体TPP[Fe(Pc)L2]2 (L = CN, Cl and Br)の大きな特徴の一つは、巨大な負の磁気抵抗を示す点にある。本研究ではそのメカニズムの解明の一助とすべく、磁気状態を磁気トルク測定により決定することを試みた。

3.1 TPP[Fe(Pc)Br2]2 のトルク曲線 ac 面内

磁場をTPP[Fe(Pc)Br2]2 のc 軸を含む面内で回転させたときの、トルク曲線を図3に示す。この面内では2 回対称軸が存在するため、トルク曲線も2 回対称となっている。その形状は正弦型であり、磁場の印加に伴いトルク曲線の最大振幅は上昇するものの、測定磁場の範囲内でその形状に大きな変化は見られない。これはc軸を含む面内ではg 値の異方性が特に大きいため、印加磁場を回転させてもg 値の大きな方向へ磁化が生じやすいためである。

磁場の角度を45o に固定した時のトルクの振幅を磁場の二乗で割った値 τac /B 2、即ち磁化率の差に比例した値を温度に対してプロットしたグラフを図4に示す。この量は常磁性体のときは印加磁場方向の磁化率に比例する。実際、以前に測定された磁化率の温度依存性においても~12K 以下で磁化率が大きく磁場に依存する挙動が得られている。τac /B 2 は低磁場(B ≦2 T)においては、12 K 以下で大きく上昇するが、中磁場(2 T < B < 10 T)では、この上昇は抑えられる。さらに高磁場(B ≧ 10 T)では、6 K 付近で見られた極大が消失し、緩やかな上昇がみられる。これらの結果は後述する磁気転移と関連している。

3.2 TPP[Fe(Pc)Br2]2 のトルク曲線 ab 面内

10 T の磁場を印加し、ab 面内で回転させたときのトルク曲線の結果について示す。磁場角度の原点は、図5(a)に示したように軸配位子をab 面内に投影した方向に取っている。磁場をab 面内で回転させたときは図5(b)にしめすように正方晶系の結晶構造を反映した4 回対称のトルクカーブが得られた。トルク曲線の形状は22 K ~ 14 K の範囲で正弦型であるが、~12 K以下で鋸型となってずれることがわかる。これは~12 K 以下で内部磁場が生じたことを意味する。6 K 以下の温度では鋸型の曲線はさらに分裂するが、これは、この温度以下でd 電子系とπ電子系の両方が磁気秩序を形成していることを意味する。

3.3 TPP[Fe(Pc)Cl2]2 のトルク曲線

軸配位子がCl の場合に関しても実験を行ったが、本質的にはBr 塩と類似しており、CN 塩とBr 塩のような大きな差はないことがわかった。

3.2 TPP[Fe(Pc)L2]2(L =Cl,Br)の磁気構造

TPP[Fe(Pc)(CN)2]2 は図6に示すような磁気構造(電荷分離型フェリ磁性)を有しているものと考えられている。この塩では、まず、25 K においてFe(III)d 電子の局在モーメントに由来する反強磁性短距離秩序(SRO)が形成され、その後にπ電子によるフェリ磁性の揺らぎが14 K 以下で表れ、6 K 以下でフェリ磁性による自発磁化が出現する。この塩で現れるフェリ磁性は、通常のタイプではなく、電荷分離の結果出現していることが重要である(電荷分離型フェリ磁性)。

以下このモデルを基にTPP[Fe(Pc)L2]2(L= Cl,Br)の磁性を議論する。まず重要な点は、CN 塩では、ab 面で磁場を回転させたときのトルク曲線がd 電子のSRO に伴って反転することが報告されているが、Br, Cl 塩ではこのような反転は見られない。このことは、磁化率の温度依存性に相当する図4が、高温では極大を持たないことに対応しており、Br,Cl 塩では、d 電子のSRO が10 K かそれ以下まで低下していることを意味する。ついで、ab 面内で12 K 以下で観測された鋸歯型のトルク曲線、および低磁場で観測されたτac /B 2の増加であるが、これらはπ電子による電荷分離型フェリ磁性が既にこの温度で生じていると考えれば説明できる。すなわち、Br, Cl塩では、フタロシアニン環に由来するπ電子の作る電荷分離型フェリ磁性の転移温度は~12 K とCN 塩とほぼかわらない一方で、d 電子に由来する短距離秩序生成の温度は~10 K 以下へと大きく低下していることが示唆される。ab 面内のトルク曲線は、6 K 以下で複雑な形状をしているが、これは、少なくともこの温度ではd 電子系のSRO ができていることを示している。

このCN 塩とBr, Cl 塩との違いは一見すると奇妙であるが、局在磁気モーメントを形成するdyz、dzx の軌道は実は、図7に示すように、軸配位子のπ軌道と同じ対称性を持っていて、軌道が軸配位子まで延びていることを考慮すると理解できる。

4 結論

本研究では、高感度、定量的磁気トルク測定システムを開発するとともに、フタロシアニンを分子骨格に有する分子性伝導体TPP[Fe(Pc)L2]2 において、静磁場下磁気トルク測定を行った。L= CN の場合は、d 電子間の短距離秩序による磁化率の極大が25 K 付近で見られたのに対し、この塩ではd 電子による短距離秩序の生成は10 K 以下に低下していると見積もられること、一方でπ電子による反強磁性(=電荷分離型フェリ磁性と考えられる)は、CN 塩とBr 塩ではあまり変わらず、14 K 付近と見積もられることを見出した。

図1 (a) 一軸回転型プローブ (b) カンチレバーを含むブリッジ回路

図2 2 K, 100 K, 300 K における補正曲線。24.5 μg, 68 μg 136 μg のグラファイトを載せたカンチレバーの補正曲線を重ね書きしてある。

図3 様々な磁場における、TPP[Fe(Pc)Br2]2のac 面内におけるトルク曲線

図4 様々な磁場におけるTPP[Fe(Pc)Br2]2のac 面内におけるτac./B 2 の温度依存性

図5 (a)TPP[Fe(Pc)Br2]2 の結晶構造とθの定義。(b)様々な温度における、磁場をab面内で回転させたときのトルク曲線

図6 TPP[Fe(Pc)L2]2 における電荷分離型フェリ磁性の模式図

図7 TPP[Fe(Pc)L2]2 における軸配位子の軌道の模式図。L = CN の方が軸配位子上のπ共役により軌道が広がっている。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は五章からなる。

第一章は序論であり、分子性伝導体のこれまでの研究の流れに関して述べた後に、本論文の研究動機に深く関係した伝導性フタロシアニン塩のこれまでの研究成果が記述されている。

第二章では、磁気トルク測定に関する理論的な背景が記載されている。

第三章では、本論文で開発した、カンチレバーを用いた定量的かつ高感度磁気トルク測定法の詳細が述べられている。グラファイトを標準試料とした場合、本研究で開発された磁気トルク測定法は、市販の帯磁率測定装置の100倍(磁場が5Tの時)以上のS/Nを有することが明らかにされている。

第四章では、第三章で開発された高感度磁気トルク測定法をTPP[Fe(Pc)Br2]に適用して得た結果に関して詳述している。磁気トルクのデータを異方的ハイゼンベルグモデルを用いて解析し、π電子による反強磁性転移が14 Kで起こった後に、d電子による反強磁性短距離秩序が8 K以下で起こることを明らかにしている。この章の実験結果の一部は、論文提出者が第一著者としてPhysica B誌に投稿し、すでに受理されている。

第五章においては、本学位論文で得た結果のまとめが述べられている。

本論文の主題は、高感度かつ定量的な磁気トルク測定手法を開発した点、およびTPP[Fe(Pc)Br2]塩の磁気基底状態を、本研究で開発した磁気トルク法により明らかにした点である。本論文で開発された磁気トルク測定法は既報の手法を改良したものであるが、それまでの定性的測定法を定量的測定法へと大きく前進させたことが評価できる。また、TPP[Fe(Pc)Br2]塩では、π電子系の磁気相転移が先行し、その後にd電子系の磁気相転移が引き起こされることが本研究の結果明らかになった。この発見は、磁気トルク法を用いてはじめて明らかになった事実であり、学問的に高く評価できる。

なお本論文第四章は、鳥塚潔、田島裕之、松田真生、D. E. C. Yu、内藤俊雄、稲辺保、花咲徳亮 との共同研究であるが、論文提出者が主体となって研究を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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