学位論文要旨



No 127198
著者(漢字) 佐々田,槙子
著者(英字)
著者(カナ) ササダ,マキコ
標題(和) 非勾配型の系に対する流体力学極限と平衡揺動
標題(洋) Hydrodynamic limit and equilibrium fluctuation for nongradient systems
報告番号 127198
報告番号 甲27198
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(数理科学)
学位記番号 博数理第379号
研究科 数理科学研究科
専攻 数理科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 舟木,直久
 東京大学 教授 片岡,清臣
 東京大学 教授 俣野,博
 東京大学 教授 楠岡,成雄
 東京大学 教授 中村,周
 東京大学 教授 時弘,哲治
 東京大学 教授 吉田,朋広
 パリ大学 教授 Stefano,Olla
内容要旨 要旨を表示する

統計物理学は、原子や分子といったミクロな系の性質から、その系のマクロな性質を導出するための理論である。ここでミクロな系として考察の対象となる系は、一般に非常に多くの自由度、または構成要素を持ち、複雑な相互作用をしながら時間発展しており、大規模相互作用系と呼ばれる。統計物理学の数学的な基礎付けには、大数の法則をはじめとした確率解析に基づく大規模相互作用系の研究が大きな役割を果たしている。特に、ミクロな系の時間発展を表す確率過程を、時間と空間について適切なオーダーの比でスケール変換をし、スケーリングパラメータに極限操作を行い、大規模相互作用系の局所平衡による平均化を示すことで、マクロなパラメータが従う時間発展方程式を導出する手法は、流体力学極限と呼ばれている。平衡遥動は、このパラメータのゆらぎの時間発展を表す確率微分方程式を、スケール極限により導出する手法であり、流体力学極限が大数の法則の一種であるのに対し、その中心極限定理にあたるものである。

流体力学極限や平衡揺動が考察される確率モデルは、勾配条件と呼ばれる良い性質を満たす場合、勾配型と呼ばれる。勾配型の系に対する流体力学極限や平衡揺動の証明は、Guo らにより導入されたエントロピー法、および後にYauにより導入された相対エントロピー法により、可逆で良いエルゴード性を持つマルコフ系に対してはほぼ完成した。一方、勾配条件を満たさない非勾配型の系に対しても、Varadhan が導入した「勾配置き換え」のアイディアを用いることで研究が進んでいる。しかし、勾配型の場合に比べ、モデルに依存した議論が必要な部分が多く、いまだ発展途上である。

本博士論文では、物理的に興味深く重要だが、Varadhanの手法を適用するにはそれぞれ個別の技術的な難しさを持つ、いくつかの非勾配型の系に対する流体力学極限、平衡揺動を研究した。本博士論文で扱ったのは、非可逆な格子気体モデル、多種粒子系、ハミルトン系に確率的な摂動を加えた系である。本博士論文の構成は以下の通りである。第一章では、速度を持つ排他過程に対する流体力学極限、第二章では、古典的ハミルトン系に確率的な摂動を加えた非調和振動子鎖の系に対する平衡揺動、第三章では、多種粒子系排他過程に対するSpectral gapの評価を示した。

1 速度を持つ排他過程に対する流体力学極限

ハミルトン系で与えられるミクロな時間発展から熱拡散方程式を導出することは、非平衡統計力学における重要な未解決問題である。この問題へ数学的に厳密なアプローチをするための重要な手法が、ハミルトン系に確率的な摂動を加え流体力学極限を証明することである。しかし、このようにして定まる非可逆かつ非勾配型の系への、Varadhanの手法の適用は、技術的にまだ多くの難しさが残されている。本研究では、格子気体モデルにおいて、非可逆かつ非勾配型であり、状態空間が各粒子の位置と速度で与えられるなどハミルトン系にいくつかの点で類似した性質を持つモデルを導入し、そのモデルに対し流体力学極限を示した。

対称単純排他過程と完全非対称単純排他過程は、格子気体モデルの最も代表的で重要な例である。本研究で導入したモデルは、これらの中間物に相当しており、これら三つのモデルの極限方程式の比較も物理的に重要である。実際、本研究で扱った系の時間発展は、モデルのパラメータ が1のとき対称単純排他過程、0のとき完全非対称単純排他過程と同じであると考えられる。

境界条件についての問題を避けるため、トーラス上での粒子系を考える。TN := (Z=NZ) =f0; 1...;N-1gを1 次元離散トーラスとする。各粒子は+1 または-1の速度を持つとする。状態空間は、πN := f1; 0;-1gTNで与えられる。状態空間の元をω=(ωx)x2TN2 πNで表す。速度を持つ排他過程ω(t)をπN 上のマルコフ過程として以下の生成作用素LN

により定める。ただし、ωx;yは状態ω からωxとωyを入れ替えた状態、ωxは、ωxの符号を変えた状態とする。はじめの二つの項は、各粒子の速度方向への移動、および異なる速度の粒子間の衝突による速度の交換を表し、第三項は、外部要因による各粒子の速度の反転を表す。は外部要因の強さを表す正のパラメータである。この系の巨視的な粒子密度の経験分布πNt (du)は、拡散型の時空のスケール変換により

で与えられる。ただし、πx := ω2xはxにおける粒子数を表す。このとき、次が成り立つことを示した。

定理1 (流体力学極限). πN0 (du)はある可測関数π0 : T ω [0; 1]により定まる測度π0(u)duに確率収束しているとする。このとき、任意の時刻t > 0に対し、πNt (du)は次の非線形拡散方程式

の一意的な弱解を密度にもつ測度π(t; u)duに確率収束する。ただし、拡散係数D(π)はある変分公式により与えられる。特に、D(π)は

を満たす。すなわち、ω 1 および ω 0でのふるまいは、それぞれ対称単純排他過程、完全非対称単純排他過程の拡散型のスケール変換のもとでの巨視的な粒子の密度のふるまいと対応する。

2 非調和振動子鎖におけるマクロなエネルギーの拡散

第一章で述べたように、時空間に対する拡散型のスケール極限により、ハミルトン方程式で定まる微視的な系から巨視的なエネルギーの時間発展に対する熱拡散方程式を導出することは、非平衡統計力学における最も重要な問題の一つである。一次元の振動子鎖は、この問題の考察のためのシンプルなモデルとして用いられてきた。ハミルトン系で定まる振動子鎖においては、ポテンシャルの非線形性により、各振動モードの相互作用を引き起こすことが、エネルギーの拡散現象を導出するために不可欠である。しかし、一次元の振動子鎖では、ポテンシャルの非線形性だけでは、エルゴード性が十分でないことが知られている。本研究では、系に十分なエルゴード性を与えるため、ハミルトン系に確率的な摂動を加えることで、一次元の振動子鎖におけるエネルギーの拡散現象に対する数学的に厳密なアプローチを行い、平衡揺動定理を示した。本章の内容は、Stefano Olla氏との共同研究である。

はじめに、ハミルトン系で定まる一次元非調和振動子鎖を導入する。周期的な境界条件をもつ、質量1のN個の非調和振動子鎖を考える。各粒子をj=1; ...Nで表し、N + 1と1を同一視する。qj ; j=1; ...;Nを各粒子の位置、pjを運動量(=速度)とする。連続する二粒子の位置の差を表す変数rj=qj-qj-1を導入し、系の状態を、(pj ; rj)j=1;πππ ;N 2 R2Nで表す。各連続する二つの粒子の組(j-1; j)は、非調和なばねでつながれており、そのポテンシャルはV (rj)であるとする。ハミルトニアンH =ΣNj=1Ej , Ej=12p2

j + V (rj), j=1; : : : ;Nで与えられるハミルトン方程式:

を考える。この系の巨視的なエネルギーの経験分布は、拡散型の時空間スケール変換により

で与えられる。このN ω 1の極限として得られる長さ1のトーラスT 上の分布が考察の対象である。

本研究では、ハミルトン系にある確率的な摂動を加えた、エネルギーをただ一つの保存量とする非調和振動子鎖を考える。この系は、温度の逆数βで特徴付けられる確率測度βNβを平衡測度として持つ。β(e)をβNβ(e)のもとでのE1の期待値がeとなるものと定める。系がβ(e)で特徴付けられる平衡状態にあるとき、巨視的なエネルギー分布のゆらぎが、拡散型の時間発展をすることを示した。すなわち、時間に依存したゆらぎの分布

は、次の線形確率偏微分方程式

の一意な解に収束することを示した。ここでBは時空のホワイトノイズ、D(β)は変分公式で与えられる拡散係数、x(β)はβで特徴付けられる平衡状態のもとでのE1の分散である。

3 多種粒子系排他過程に対するSpectral gap

非勾配型の系に対する流体力学極限の証明では、緩和時間(Spcetral gapの逆数)の上からの評価が重要な役割を果たす。多種粒子系とは、異なる物理的性質、すなわち時間発展規則を持ついくつかの種類の粒子により構成される系である。多種粒子系排他過程のSpectral gapは、空サイトの密度に依存しており、一種粒子系の場合とは質的に異なっている。本研究では、空間的に非一様な多種粒子系排他過程のSpectral gapの詳細な評価を与えた。本章の内容は、永幡幸生氏との共同研究である。

rを2 以上の整数とし、r種の粒子からなる格子気体モデルを考える。各自然数n≧1に対し、格子空間としてd 次元立方体An := {-n;-n + 1; ...; n-1; n}dを考える。各粒子間には排他的な相互作用があるとする。このとき、系の状態空間は,En := {0; 1; 2; : : : ; r}Λnとなる。{qx}x2Zdを、各サイトxにおける粒子の存在確率とし、これらはあるβ 2 (0; 12 ]に対し、β β qx β 1-βを満たすとする。空間的に非一様な多種粒子系排他過程の時間発展を以下の生成作用素Ln

で与える。ここで、g(i)はi種の粒子の動きやすさを表す正の定数、pi(・; ・)は、i種の粒子のZd 上の遷移確率である。すべてのiに対し、piは局所的かつ平行移動不変、Zd 上で既約、対称であるとし、p(0)=0、p0(x; y) β 0、βx;yはβの状態からβxとβyを入れ替えた状態とする。特に、qx がxによらない時、空間的に一様な多種粒子系排他過程と呼ぶ。

この時間発展のもとで、各種の粒子数はそれぞれ保存される。そこで、Σri=0 ki=jβnjを満たす非負整数値のベクトルk=(k0; k1; : : : ; kr)に対し、βn;kをi種の粒子がki個と空サイトがk0 サイトある状態全体とする: βn;k := {β 2 βn;Σx2βn1{βx=i}=ki; 0 β i β r}。

多種粒子系の排他過程の解析の難しさは、{pi}ri=1の選び方により、以下で定義する局所エルゴード性が成り立たない場合があることである。本博士論文では、そのような局所エルゴード性が成り立たない{pi}ri=1の例を2つ与えた。特に、例2ではp1=p2=…=prの場合の例を与えている。また、本博士論文では、局所エルゴード性が成り立つための十分条件も与えた。

仮定1 (局所エルゴード性). あるn0 があって、任意のn≧n0と、非負整数値ベクトルk =(k0; k1; … ; kr)でΣri=0 ki=jβnj かつk0 β 1を満たすものに対し、βn;kはLnの既約成分である。

Ln;kをLnのβn;k 上への制限とする。-Ln;kのSpectral gap β(n; k)を、-Ln;kの0でない最小の固有値とする。仮定1の条件のもとで、空間的に一様な多種粒子系排他過程のSpectral gapはO(β0=n2)であることを示した。ただし、β0 := k0jβnjは空サイトの密度である。

空間的に非一様な場合、Spcetral gapのオーダーを評価するためには、空間の非一様性を定める{qx}x∈Zdについてなんらかの仮定が必要である。そこで、次のような仮定をおく。

仮定2. 次のどちらかが成り立っているとする:

(i)あるq0とT 2 N が存在し、任意のx 2 Zdに対し、{y ∈ 2Tx +ΛT : qy =q0} ≠φである。

(ii){qx : x 2 Zd}は有限集合である。

仮定1と2の条件のもとで、空間的に非一様な多種粒子系排他過程のSpectral gapは、ある正定数Cにより、λ(n; k)≧Cβ0=n2となることを示した。

審査要旨 要旨を表示する

論文提出者佐々田槙子が論じた流体力学極限とは,ランダムな構造を含む相互作用系を対象に時空のスケール変換を作用し,局所的なエルゴード性による平均化を経て,非線形偏微分方程式へと導く極限操作のことである。そのルーツはHilbert展開等の特異極限によるBoltzmann方程式からの流体の方程式系の導出に見出されるが,それをさらに細かい分子レベルから出発して実行するものである。一般に,このスケール変換は発散項を生むが,それが都合よく他の項に吸収されることがある。そのような系は勾配型とよばれる。勾配型であっても,相互作用による複雑な項を含み,その長時間にわたる時間平均を平衡系のアンサンブル平均で置きかえる局所エルゴード性を示す必要がある。しかしながら勾配系は特殊な場合であり物理的に自然なモデルは殆どの場合,発散項がそのまま残るいわゆる非勾配型の系になる。

非勾配型の系を初めて数学的に厳密に扱ったのはVaradhan(1993)であるが,彼の手法は極めて難解で,エントロピー不等式・Feynman-Kac公式によるある種の作用素のスペクトルの評価への帰着,さらに長時間平均の下での中心極限定理分散の評価への帰着等のステップを経た後に,この中心極限定理分散の定めるノルムの下で発散項が"勾配型の項+揺動項"で近似できることを示す。そのためには,ある種の無限次元空間上の閉形式を完全に特徴付ける必要があり,それには相互作用系を有界領域に閉じ込めたときの生成作用素のスペクトルの跳びを正確に求めることが要請される。加えて,局所エルゴード性の精密化,系の緊密性,極限の非線形偏微分方程式の係数の正則性と弱解の一意性などを示す必要がある。これらすべてのステップを個々の系で完全に証明し切ることは,系が複雑になるとともに困難になる。

論文提出者は,提出論文において非勾配型の系について以下の3つの結果を得た。

まず第1に,左右に向き付けられた速度付き1次元格子気体モデルの流体力学極限を示した。格子空間上を相互作用しながらランダムウォークする粒子系を格子気体モデルとよぶ。格子気体モデルの中でも,対称単純排他過程と完全非対称単純排他過程は多くの研究がなされているが,本論文で扱った速度付き格子気体モデルはその中間に位置し,時間的に非可逆な非勾配型の系である。論文提出者はVaradhanの手法を拡張し,流体力学極限を証明することに成功した。極限で得られる非線形拡散方程式の拡散係数は,変分原理によって特徴付けられるが,その上下からの評価を与え解の1生質に関する考察を行った。

第2に,確率的摂動をもつ振動子鎖について平衡揺動定理を示した。Hamilton方程式で定まる微視的な系から巨視的なエネルギーの時間発展に対する拡散方程式を導出することは,非平衡統計力学における最も重要な問題の一つである。1次元の振動子鎖は,この問題の考察のための単純なモデルとして用いられてきた。論文提出者は,系に十分なエルゴード性を与える確率的な摂動を加えることで,1次元の振動子鎖におけるエネルギーの拡散現象に対する数学的に厳密なアプローチを行い,平衡揺動定理を示した。これもやはり,時間的に非可逆な非勾配型の系である。平衡揺動定理は,流体力学極限が大数の法則であるのに対し,中心極限定理に相当するものである。

第3に,多種粒子系について生成作用素のスペクトルの跳びを考察した。それは領域の1辺の長さを4とするときC/e2のオーダーになるが,定数0の空サイトの密度への依存性を詳しく調べ,1種粒子系の場合とは本質的に異なる特性を見出した。非勾配型の系に対する流体力学極限の証明では,緩和時間(スペクトルの跳びの逆数)の上からの評価が重要な役割を果たす。多種粒子系は異なる物理的性質を持ついくつかの種類の粒子により構成される系である。

これらはいずれも重要な結果であり,非勾配型の系に対する流体力学極限の研究において新しい視点を開くものとして大変興味深い。

以上のような理由により,論文提出者佐々田槙子は博士(数理科学)の学位を受けるにふさわしい充分な資格があると認める。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/51814