学位論文要旨



No 128944
著者(漢字) 施,赫肸
著者(英字)
著者(カナ) セ,カクシ
標題(和) K中間子水素原子の精密X線分光
標題(洋) Precision spectroscopy of kaonic hydrogen atomic X-rays
報告番号 128944
報告番号 甲28944
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5921号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 櫻井,博儀
 東京大学 教授 下浦,享
 東京大学 教授 浜垣,秀樹
 東京大学 教授 初田,哲男
 東京大学 講師 山口,英斉
内容要旨 要旨を表示する

K- 中間子水素原子 X 線で、生成閾値での KN 強い相互作用を探ることができる。クーロン力で束縛される K- 中間子と陽子の原子状態の準位は、強い相互作用が働くために電磁相互作用のみで決められる値からシフトし、幅を持つ。励起状態の np 軌道から 1s 軌道に遷移する際に放出される K-シリーズ X 線を測定すると、1s のシフトと幅を決めことができる。このシフトと幅から直接 Kp の S-波の散乱長を簡単に計算できる。S-波の KN の強い相互作用は閾値の27MeVより下にある Λ(1405) 共鳴に支配されていて、Λ(1405) の構造の解釈によって、KN の束縛エネルギーも大幅に変わる。閾値での散乱長を精密に決めるほど、閾値から KN 強い相互作用の理論構築に厳しい制限をあたえられる。

一方、K- 中間子が原子軌道に入る直後から脱励起して最後に核子に吸収されるまでの全過程を記述するカスケードモデルは、過去十数年で信頼性が高まってきた。このモデルによって、標的に止まった K- 中間子ごとに発生する X 線の絶対収量が計算できる。最近、標的密度依存のStark 効果、そして高励起状態にある K- 中間子の運動量の不確定性などの要素は、理論的・実験的に明確にされてきた。 X 線の収量計算を大きく左右する唯一のパラメータは K- 中間子が 2p状態から核子に吸収される幅である。このように、実験から決めた X 線の収量を異なる 2p 幅を使ったカスケード計算結果と比較すれば、2p 状態の核子吸収幅を定量できる。P-波に起こる核子吸収は、 KN 閾値付近の Σ(1385) [J=3/2] に支配され、KN の P-波の相互作用を決めるために重要な知見を与える。とくに、K- 中間子が大きい運動量を持てる核子束縛状態においては、P-波相互作用の寄与は大きい。しかし、今まで収量の実験値が正確に評価されたことがまだなく、本研究の主な課題の一つである。

K- 中間子水素 X 線測定を始めて成功させたのは、1997 年 KEK-PS で行われた E228 実験だった。この実験が決めた散乱長は、Kp 散乱実験の結果とまとめて、 KN の S-波相互作用は引力的であることを確立した。また、この実験ではカスケード計算の結果を使って、Kα 線の収量と、Kα と全K-シリーズ X 線の比と評価した。

それから、2005 年にイタリア LNF-INFN 研究所の DAΦNE 電子陽電子衝突型加速器で行われた DEAR 実験はより高い精度で K- 中間子水素 X 線が測定された。しかし、実験の誤差範囲内で二つの結果が一致しないこと、そして DEAR 結果と散乱データとの整合性がいくつかの理論に問われていることは新たな課題となった。また、DEAR 実験では X 線の収量を正確に評価できなかった。

この論文は以上の課題を解決した SIDDHARTA (Silicon Drift Detector for Hadronic Atom Research with Timing Application) 実験の全容と結果について論ずる。前述の物理的動機と歴史的背景に関しては、導入部である第1章で詳しく記述する。

さらに、KN 散乱のアイソスピン I = 0 と I = 1 成分を分離させるためには、K- 中間子重水素原子の 1s シフトと幅を測定することが必要である。しかし、一般的にその収量が水素より十分の一以下と予言されているため、K- 中間子重水素の X 線はまだ測られたことがない。本研究では、二つのシナリオを想定して、重水素標的の測定も試みた:1)収量が今までの予想に反して十分大きく、有意義な X 線を検出してシフトと幅情報を抽出する;2)予言通りにバックグラウンドレベル以上の事象を検出できなかったら、水素標的測定のバックグラウンド評価に使う。

第2章では、実験の原理と装置を紹介する。この実験では、DAΦNE 衝突点において e+e- →φ(1020)→ K+K- 反応から発生する K- 中間子を温度 23 K、圧力 1 bar の気体標的に止めて K- 中間子原子を作る。衝突点で作られた φ 中間子は実験室系でほとんど静止しているので、49% の分岐比で生成される K- 中間子が低い運動量を持つ。この低エネルギー K- 中間子は気体標的で止めることに適している。

我々は高精度を達するために次の二点に着目した: (1) 高分解能 (6.5 keV で FWHM が 150eV)、一個の有効面積 1 cm2 のシリコンドリフト検出器 (SDD) 144 個を、標的周り全立体角の10% を覆うように配置し、X 線の検出効率を増やす; (2) SDD が持つ 1 μs の時間分解能を利用して、K+K- 対生成と時間相関を持つ事象を選ぶことで、ビームライン起因のバックグラウンドを除去する。静止φ中間子の崩壊から生じる K+K− 対が正反対方向に飛び出すので、衝突点の上下二つのシンチレータを設置し、同時に K 中間子イベントが検出されることで粒子が識別でき、時間情報がえられる。

第3章にデータの概要をまとめてから、第4章では検出器のデータ解析結果を示す。まずシンチレーターにおける K 中間子事象の同定から始まる。DAΦNE では K 中間子より重いハドロンからなるバックグラウンドがほとんどなく、衝突点から検出器まで K 中間子が一番遅く到達する。一方、電子と π 中間子などの荷電粒子は光速に近い速度で進行するので、Minimum IonizingParticles (MIPs) と考えられる。そこで Time of Flight (ToF) 情報と検出器でのエネルギー損失カットより、時間分解能の四倍以上で K 中間子事象と MIPs 事象を分離することができた。また、X線検出器のエネルギー校正は、X 線管で高純度の Ti と Cu のフォイルに照射する際発生する Tiと Cu の Kα 特性 X 線を使って行った。フォイルは気体標的の内部と底面付近に設置され、10 分間の照射で SDD ごとに eV 精度で校正できる統計量のデータがためられる。数ヶ月のビームタイムの間、エネルギー校正は数時間ごとに行われた。そのデータから SDD 一個ずつに対してADC channel とエネルギーの関係を細かい期間間隔ごとに決めた。

第5章では K- 中間子 X 線スペクトルの解釈をする。図2. において、上は水素標的、下は重水素標的のスペクトルである。この論文の解析では、二つのスペクトルを一つのグローバル関数で同時に Fit をした。この Fit 方法の効果が主に二つあげられる。一つは水素標的結果の統計誤差を減らすこと、二つはバックグラウンドをより正確に評価すること。ここでいうバックグラウンドは、全エネルギー範囲にわたって分布するビーム起因のものと、他の K- 中間子原子の X 線を含む。後者の方は、K- 中間子が標的容器の構成材料にある酸素と炭素原子に静止する際に発生する。その中に K- 中間子水素 X 線と重なる成分は、同時 Fit によって同定できた。さらにスペクトル Fit の際次の点を配慮した:np (n > 2) 状態から 1s への K-シリーズ遷移 X 線(まとめてK(complex) と呼ぶ)強度はカスケード計算に参照しない;Fit 関数のパラメータを最終 Fit で全部自由にさせる。このように、分離できない K(complex) による不確定性を考慮した X 線の数の統計誤差を、実験データのみから決めることに成功した。

X 線の絶対収量を求めるために、静止 K 中間子の数と SDD の X 線の検出効率を Geant4 シミュレーションで見積もった。その結果を実験値と比べることで、静止 K 中間子ごとに発生する K 中間子水素の Kα X 線と K-シリーズ全 X 線の絶対収量をそれぞれ、 Y(Kα) = 0.012(-0.004)(+0.003)、Y(Ktot)= 0.045(-0.012)(+0.009)と求めた。カスケード計算に依存しない収量評価としてこれは初めてである。

第6章では、X 線の絶対収量と 1s シフトと幅の結果について議論を行う。まず X 線の収量に関して、図2.のように、実験値をカスケード計算に比較することで、K- 中間子水素原子 2p 準位の幅のが 0.2 meV と 0.4 meV の間であると決めた。この幅は、ほぼ P-波における Kp→Σ (1385)の吸収幅で説明できる。Σ(1385) とのカップリングによって解釈した KN の P-波相互作用は、強く束縛される KNN システムに大きく寄与していると、最近土手らによって議論されている。

そして 1s のシフトと幅の結果に関して、SIDDHARTA 実験における全水素データを使って決められた結果はすでに 2011 年に先行研究によって発表されている。図1.に示された本研究の解析に使われたデータ量は先行研究の 1/3 に相当する。X 線の絶対収量の評価が本研究の主な目的の一つなので、標的密度が安定し、検出器アクセプタンスがよく評価できる期間のデータセットを選ぶのが必要である。少ない統計量の X 線スペクトル解析からきめた K- 中間子水素 1s 状態のシフトと幅は、先行研究の結果とよく一致し、誤差が大体 25 % 大きくなっている。先行研究で決めたシフトと幅は、KEK 結果と誤差範囲内で一致して、過去最高精度である。現在の精度で許されている KN 相互作用の理論には Chiral SU(3) モデルと Akaishi-Yamazaki モデルの二つが最も有力候補である。Λ(1405) の解釈は両者において根本的に異なっているが、それを選別するには閾値以下の K N 散乱長を他の実験方法で探る必要がある。ただし、我々の到達精度は最近のChiral モデルの進展に大きく寄与したことを指摘したい。

最後に、K- 中間子重水素のスペクトルはシナリオ2)どおり、図1.に示される同時フィットに使われ、標的壁に止まった K- 中間子に起因するバックグラウンドの評価に大きく寄与した。また、Kα 遷移 X 線の収量の上限値を 90% 信頼度で、0.011 と見積もった。この上限値は、実験の S/N を 10 倍向上させることによって、有限時間で DAΦNE で K- 中間子重水素 X 線測定から有意義なスペクトルを得る可能性を示している。

第7章に結論と今後の後続研究を展望する。

図1: 得られた重水素と水素標的の X 線スペクトル。同時 fit の結果も示されている。

図2: K 中間子水素 X 線絶対収量の結果。横軸は標的の比密度、青い点は本研究、紅い点は KEK の結果。曲線は Jensen et al. (2003) 計算値で、異なる 2p 幅のもとに計算された。注意すべきのは、KEKの結果と誤差は他のカスケード計算に依存している。実験データだけで収量を決めたのはこの論文が初めて。実験値とカスケード計算の比較より、2p 幅が 0.2 meV ~ 0.4 meV であると結論できる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、7章からなる。第1章は、序文であり、K中間子水素原子を用いたこれまでのX線分光研究がまとめられ、本研究の背景、位置付け、目標および論文提出者の寄与について述べられている。第2章では本研究で利用したイタリア・DAΦNE電子陽電子衝突型加速器施設、SIDDHARTA実験の装置概要と検出器群・回路系の詳細が述べられている。第3章では取得したデータの概要がまとめられており、第4章では、K中間子事象の同定、X線検出器のエネルギー較正に関するデータ解析の詳細がまとめられている。第5章には取得したK中間子X線スペクトルに関する解析方法の詳細が述べられており、スペクトル中のバックグランドの同定、線スペクトルの統計処理方法などがまとめられている。第6章では、本研究で得られた実験値と従来の実験値・理論値との比較ならびに本成果の将来への波及効果などが議論・考察され、第7章では結論と今後の展望について述べられている。この他、付録として、標的密度の計算、モンテカルロ計算、K中間子ヘリウム原子のデータなどが収録されている。

本論文は、原子核物理学での主要課題のひとつ、K中間子と陽子間に働く強い相互作用に関する実験研究である。運動量移行がほぼゼロでの研究は、K 中間子水素原子のX線分光がもっとも有力なツールであり、X線分光による原子準位のエネルギー精密測定と理論計算との比較により強い相互作用を評価することができる。

K中間子水素X線測定に初めて成功したのは1997年にKEKで行われたE228実験であり、この実験での1s軌道のシフトと幅からS波の散乱長に関する情報が取得され、S波相互作用は引力的であることが確立され、その後イタリアで行われたごく最近の実験でも再確認されている。一方、P波に関する情報は、2p状態から陽子に吸収される幅から得られる。2pの幅は、K中間子が原子軌道にはいってから陽子に吸収されるまでの全過程を支配するパラメータであり、カスケード計算と実験収量との比較から2pの幅を推定することができる。しかし、これまで収量の実験値が正確に評価されたことがなかった。

本研究ではこのK中間子水素X線の精密測定により、S波だけでなくP波の情報を世界で初めて実験情報を提供することを目的とし、質のよい大強度K中間子が得られる、イタリア・DAΦNE電子陽電子衝突型加速器施設で低バックグランド下での精密K中間子水素X線測定を行っている。過去の実験に比べバックグランド事象の除去およびX線エネルギー測定の分解能向上が図られており、具体的には、高分解能シリコンドリフト検出器(SDD)の採用によるエネルギー分解能の向上と速い時間特性を利用したバックグランド除去、水素ガス液体中での静止K中間子事象の選別、重水素ガスを利用したバックグランドデータの取得などをあげることができる。

本研究でのデータ解析においても徹底したバックグランド事象の除去とシミュレーションを行い、X線エネルギー分布の完全理解を達成している。特に、特性X線に関する統計処理では、重水素ガスデータを積極的に生かしつつ、水素ガスデータと同時に処理し、系統誤差を小さくすることに成功している。これら新しい実験手法と解析によって、X線の絶対収量を初めて実験的に決定した。この収量から2p軌道の幅が0.2~0.4 meVであることを推定し、この幅はほぼP波におけるKp->Σ(1385)の吸収による効果として説明することができることがわかった。同時に1pのシフトと幅についても最高精度で実験値を導出し、これまでの値と誤差の範囲内で一致した。

以上の成果はK中間子と陽子との強い相互作用に関する基礎的かつ重要な情報であり、Physical Review C誌に掲載を予定している。

なお、本論文は共同研究であるが、論文提出者が主体となって、本実験の主要検出器SDDの動作、調整、データ収集といったハード面での貢献とともに、データ解析はもちろんのこと、シュミレーションなどのソフトウェア開発も行い徹底した解析を行っている。これらは本研究にとって不可欠な要素であり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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