学位論文要旨



No 215544
著者(漢字) 鳥海,千冬
著者(英字)
著者(カナ) トリウミ,チフユ
標題(和) SBD-Fを用いたペプチド・タンパク質の微量定量法の開発と応用に関する研究
標題(洋)
報告番号 215544
報告番号 乙15544
学位授与日 2003.02.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第15544号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 今井,一洋
 東京大学 教授 新井,洋由
 東京大学 教授 関水,和久
 東京大学 教授 夏苅,英昭
 東京大学 助教授 三田,智文
内容要旨 要旨を表示する

【序論】遺伝子から作られる生理活性ペプチド及びタンパク質は、プロセシングやリン酸化のような翻訳後修飾を受けるため、遺伝子の構造から予側できないペプチド・タンパク質の分子種が生体内に存在する。また、これら修飾により、生体内に存在するペプチド・タンパク質の数は10〜30万種にも上ると考えられ、ゲノム情報から細胞内で発現しているペプチド・タンパク質の種類及びその量を予測し、生命の分子基盤を理解することは困難である。それゆえ、生命維持に関するホメオスタシスを理解するためには、ペプチド・タンパク質自身を分析化学の手法により分離・定量することが必須であると考えられる。現在、生体内のペプチド・タンパク質の定量は、主に免疫学的方法を用いて行われている。しかし、この方法は特異的抗体の作製が必要であること、並びに定量性及び再現性が十分得られないことなどの問題点がある。

 私は、定量性及び再現性が良いHPLC法をペプチド・タンパク質の分析法に応用することを考えた。従来のHPLC-UV検出法では感度が低く、生体内にpM以下のレベルで存在するペプチド・タンパク質を定量することは困難であるため、HPLC-蛍光検出法を取り上げることにした。従来の経験によれば、ペプチド・タンパク質の立体障害のために完全な蛍光標識が困難であることや、標識の結果、疎水性が増大することによるタンパク質の吸着や析出のために、これら試薬の高分子量ペプチド・タンパク質の分離・定量法への適用は現実的ではなかった。そこで私は、高感度で水溶性のチオール基選択的な蛍光誘導体化試薬(SBD-F、図1)を、チオール基を含有するペプチド・タンパク質の誘導体化に適用し、それらを高感度に分離・定量する方法の開発を考えた。

 本研究では、ペプチドとしてインスリンを取り上げ、その分離・定量法を開発し、これを用いて糖尿病ラットのランゲルハンス島(ラ島)中インスリンアイソマー(Ins 1及びIns 2)を分離・定量し、それらのmRNA発現量との関係を調べた。一方、本誘導体化方法を細胞内に存在する不特定多数のタンパク質の分離、定量及び同定法、すなわちプロテオーム解析法に応用し、特定の環境、時間及び空間において細胞内に発現しているタンパク質を見出す方法の開発を目指した。

【本論】

1.HPLC-蛍光検出法を用いたインスリンアイソマーの高感度分離・定量法の開発

 本研究ではインスリン分子内の-S-S-結合を還元剤(tris(2-carboxyethyl)phosphine(TCEP))によりChain A及びBに還元し、両Chainのチオール基の全てにSBD-Fを反応させ、生成したChain A及びB誘導体をそれぞれHPLC-蛍光検出法により高感度に定量することを試みた。

 今回、水溶性の高いSBD-Fによる蛍光誘導体化反応を水系で行うため、水溶性の高いTCEPを還元剤に選択した。条件検討の結果、pH9、40℃及び5倍モル以上のTCEP存在下においてインスリンは速やか(30min以内)にChain A及びBに還元された。

 インスリンは、低分子化合物の蛍光誘導体化条件(pH9.5、60℃、1h)において全くSBD-Fと反応しなかった。そこで、反応系に各種界面活性剤を添加することにした。その結果、CMC以上のndodecyl-β-D-maltopyranoside(DM)添加によりChain A及びB誘導体の生成が著しく促進されることが明らかとなった(図2)。さらに、蛍光誘導体化条件を最適化した結果、0.7mM TCEP、1.7mM SBD-F、2mM EDTA、1mM DM存在下、pH9、40℃、3h反応において分子内のチオール基全てをSBD化することができた。

 HPLCカラムにシラノール基が残存するODSを用いることによりラットのIns 1及びIns 2を分離し、定量法を確立することができた。本方法はラ島1個中のインスリンアイソマーの分離・定量を可能とした。本方法を用いて正常及び遺伝的糖尿病ラット(GKラット)のラ島中インスリンアイソマーを分離・定量し、比較した結果、本糖尿病ラットにおいてヒトインスリンに対応すると考えられるIns 2含量の低下を見出した。

2.デキサメタゾン誘発糖尿病ラットと非投与ラットにおけるインスリンアイソマー及びmRNA発現量の比較

 デキサメタゾン(Dex)は2型糖尿病を誘発することが知られているため、新たにDex誘発による糖尿病ラットを作製し、ラ島中インスリンアイソマーを分離・定量した。さらに、これらのmRNAを測定してアイソマー含量との関係を調べた。

 Dex 10mg/kgを1日1回、4日間連続皮下投与し、糖尿病を誘発させた。GKラットと同様に、本糖尿病ラットにおいてラ島中Ins 2含量の低下が認められた(図3)。この低下の原因としてIns 2 mRNAの発現量の低下が確認された。そこで、このIns 2低下の原因がDex自身または糖尿病から生じる高血糖状態によるものかを検討するために、培養ラ島を用いて調べた。その結果、Dex存在下では両インスリンアイソマーとそのmRNAがいずれも減少するが、Ins 1と比べてIns 2及びそのmRNAの方がより大きく低下することを見出した。一方、高グルコース状態ではIns 2及びそのmRNAのみが低下した。以上のことから、デキサメタゾン自身及び高血糖状態によりIns 2 mRNA発現量がより大きく低下することにより、本病態ラットのラ島中Ins 2含量が減少するものと推察された。

3.SBD-Fを用いた新規プロテオーム解析法の確立とその応用

 SBD-Fはペプチドに限らずチオール基を含有するタンパク質の分離・定量法にも応用可能と考えられた。そこで、SBD-Fによる蛍光誘導体化法を用いた新規プロテオーム解析法の開発を試みた。BSA(Mw:66385)を標品として新たにタンパク質の誘導体化条件を検討した。タンパク質を変性させるために6M塩酸グアニジンを添加し、さらにペプチドの誘導体化に必須であった界面活性剤の添加を検討した。その結果、CHAPS添加によりBSA誘導体の生成量が最も増大した。さらに、BSAを用いて蛍光誘導体化反応条件の最適化を行い、タンパク質の誘導体化の最適条件(1mM TCEP、3.5mM SBD-F、2mM EDTA、10mM CHAPS、6M塩酸グアニジン存在下、pH9及び40℃にて3h反応)を設定することができた。

 本誘導体化方法の各種タンパク質への適用性、並びに感度及び定量性について調べた。各種タンパク質誘導体は、HPLCクロマトグラム上でそれぞれsingle peakを示し、検量線は10〜1000fmolの間で良好な直線性(r>0.9994)を示したことから、本法の定量性と各種タンパク質への適用性が示された。一方、本法の検出限界は0.2〜6.0fmol(S/N=3)であり、高感度な検出が可能であった。

 SBD化タンパク質をタンデム質量分析装置(MS/MS)により同定するため、BSA誘導体のトリプシン消化ペプチド混合物のMS/MS分析を行った。その結果、改良したデータベース検索ソフト(SBDの分子量の増加分を加味)を用いてSBD化タンパク質の同定法を確立することができた。

 本手法を用いてDex投与及び非投与ラットのラ島中タンパク質のプロテオーム解析を行った。ラ島中タンパク質を蛍光誘導体化後、2次元HPLCにより合計129本の蛍光ピークに分離した。これらを定量し、Dex投与により変化した蛍光ピークのみを分取し、ついでトリプシン消化し、生成したペプチド混合物のHPLC-MS/MS分析とデータベース検索を行った。その結果、Dex投与ラットのラ島中における5種のタンパク質の増加及び3種のタンパク質の減少を見出した(表1)。

【総括】インスリン分子内の酸化型チオール基を還元すると同時に、水溶性でチオール基選択的な発蛍光試薬であるSBD-Fを反応させることにより、インスリンアイソマー(Ins 1及びIns 2)のHPLC-蛍光検出による高感度分離・定量法を開発した。本方法は、ラ島1個でインスリンアイソマーの定量が可能であった。

 開発した分離・定量法を用いて、Dex誘発糖尿病ラットのラ島中インスリンアイソマーを分離・定量し、ヒトインスリンに対応するIns 2選択的な減少を見出した。その際、Ins 2 mRNAの発現量も低下していたことから、本糖尿病ラットではDex自身及び糖尿病から生じる高血糖状態により選択的にIns 2 mRNA発現量が低下し、Ins 2含量が大きく低下したものと考えられた。

 タンパク質をSBD-Fにより蛍光誘導体化し、新規プロテオーム解析法を開発した。本方法は、刺激等により変動したタンパク質のみを高感度に定量及び同定することが可能であった。本方法を用いてDex投与ラットのラ島中の数種のタンパク質の変動を見出すことができた。

 以上のように、ゲノム情報の最終的な表現型であるペプチド・タンパク質の分析法を確立し、薬物投与及び病態におけるそれらの変動を捉えることができた。今後、本方法により病態に関わるペプチド・タンパク質を発見することができれば生命維持に関するホメオスタシス、ひいては生命の分子基盤を理解することが可能になるものと期待される。

図1.Ammonium 7-fluoro-2,1,3-benzoxadiazole-4-sulfonate(SBD-F)

図2.インスリンの蛍光誘導体化に及ぼす各種界面活性剤の影響

図3.デキサメタゾン誘発糖尿病及び非投与ラットのランゲルハンス島中SBD化インスリンアイソマーのクロマトグラム

1.Chain A誘導体、2.Chain B2誘導体、3.Chain B1誘導体

表1.デキサメタゾン投与により変動したランゲルハンス島中タンパク質

審査要旨 要旨を表示する

 生体内のペプチド・タンパク質は、現在、主として免疫学的方法で定量されているが定量性及び再現性の点で難点がある。HPLC法は定量性及び再現性に優れているため、それに代わるべきペプチド・タンパク質の分離・定量法として期待されている。しかし、従来のHPLC-UV法は感度が低く、また、蛍光誘導体化-HPLC法による高感度化も試みられてきたが、蛍光試薬の疎水性が高いため標識されたペプチド・タンパク質が前処理過程で吸着あるいは析出するため実用的とはいえなかった。

 申請者は水溶性でチオール基選択的な発蛍光試薬であるAmmonium 7-fluoro-2,1,3-benzoxadiazole-4-sulfonate(SBD-F)を用いてペプチド・タンパク質を蛍光誘導体化することで吸着や析出を回避し、HPLC-蛍光検出法により高感度にペプチド・タンパク質を分離・定量することを目指した。さらに本蛍光誘導体化法をプロテオーム解析法に応用し、細胞内に発現するタンパク質を見出す方法の開発を行った。

1.はじめに、ヒトインスリン分子内の-S-S-結合を還元剤(tris(2-carboxyethyl)phosphine(TCEP))によりChain A及びBに還元し、両鎖のチオール基の全てにSBD-Fを反応させ、生成したChain A及びB誘導体をHPLC-蛍光検出法により高感度に分離・定量する方法を検討した。システイン等の低分子化合物の蛍光誘導体化条件下では、SBD-Fはインスリンと全く反応せず、各種界面活性剤の内、n-dodecyl-β-D-maltopyranosideの添加により反応が大きく促進されることを見出した。本条件をラットインスリンアイソマー(Ins 1及びIns 2)の蛍光誘導体化に適用し、HPLCによる分離・定量を検討した。Ins 1由来のChain B1誘導体の塩基性がChain B2誘導体のそれより高いことを利用して、シラノール基が残存する逆相カラム(TSK-gel ODS 120T)を用いるとこれらを分離・定量することが可能となった。本分離・定量法の検出限界は約3〜4fmolと高感度であり、検量線も良好な直線性を示した。これにより従来免疫学的方法では困難であったランゲルハンス島1個中のインスリンアイソマーの分離・定量が実現した。本法を用いて正常及び遺伝的糖尿病ラット(GKラット)のランゲルハンス島中インスリンアイソマーを分離・定量したところ、Ins 2含量が低下していることを見出した。

2.1で開発した分離・定量法を用いて、デキサメタゾン誘発糖尿病ラットのランゲルハンス島中インスリンアイソマーを分離・定量し、それらのmRNA発現量と比較した。デキサメタゾン10mg/kgを1日1回、4日間皮下投与することにより惹起される糖尿病ラットのランゲルハンス島中において、GKラットと同様のIns 2選択的な減少を見出すことができた。さらに、それぞれのアイソマーのmRNAを測定したところ、本糖尿病ラットではIns 2のmRNAが大きく低下していることが明らかとなった。このように、糖尿病ラットではIns 2のmRNA発現量が低下するためにIns 2の含量が減少すること、Ins 1は糖尿病で減少しにくいことが本研究により初めて明らかとなった。

3.さらに申請者は、新規プロテオーム解析法の開発を目指した。先に確立したインスリンの反応条件下ではタンパク質の蛍光誘導体化は不十分であり、界面活性剤のCHAPS及びタンパク質変性剤である塩酸グアニジンを添加することにより蛍光誘導体化が初めて達成されることが明らかとなった。本条件下各種タンパク質を蛍光誘導体化し、分離・定量した結果、HPLCのクロマトグラム上でそれぞれ単一のピークを与え、検量線はいずれも良好な直線性を示したことから、本誘導体化方法の各種タンパク質への適用性及び定量性を確認することができた。本法の検出限界は0.2〜6.0fmol(S/N=3)であり、2次元電気泳動法より約10倍程度高感度化することができた。次に、生成したSBD化タンパク質を2次元HPLC-蛍光検出法により高感度に分離・定量し、MS/MS分析及び補正したデータベース検索ソフト(MASCOT:システインの分子量を103.1からSBD化システインの分子量301.0へ変更)により同定する方法の確立を試みた。まず、SBDのスルホン酸基のマイナス電荷を利用して陰イオン交換HPLCを行い、タンパク質を5つの画分に分画し、これらを濃縮後、疎水性相互作用に基づく2次元目の逆相HPLCを行うことでSBD化タンパク質の分離・定量が可能となった。本2次元HPLC法を用いてラットランゲルハンス島中のタンパク質を分離した結果、合計129の蛍光ピークを得ることができた。これらの全てのピーク面積を求め、デキサメタゾン投与及び非投与ラットとで比較することにより、デキサメタゾン投与による5種類のタンパク質の増加と3種類のタンパク質の減少を見出した。これらをトリプシン消化後、生成したペプチド混合物をLC-MS/MS分析と改良したデータベース検索ソフトを用いてそれぞれのタンパク質を同定することに成功した。

 以上、本研究はペプチド・タンパク質の高感度分離・定量法の開発と更なる応用への試みを行ったものであり、薬学の発展に寄与するところ大であると考えられ、博士(薬学)に相応しいと認めた。

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