学位論文要旨



No 216043
著者(漢字) 佐藤,斉華
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,セイカ
標題(和) 共同性の近代的状況 : ネパールのヨルモにおける「民族」とその同時代
標題(洋)
報告番号 216043
報告番号 乙16043
学位授与日 2004.06.24
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第16043号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 関本,照夫
 総合分化研究所 教授 山下,晋司
 総合分化研究所 助教授 森山,工
 東洋文化研究所 助教授 名和,克郎
 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 教授 石井,溥
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、北東ネパールのヨルモという地における、またこの地出身の人々による社会的共同性を構成する諸実践についての民族誌的研究である。いわゆる近代化の進展、とりわけナショナリズム思潮の浸透に伴ってローカルな共同性が(再)構成されつつある現状を、今日このヨルモの名において集合的自己を形成する途上にある人々の社会的実践の具体相において探究する。

 現代世界におけるローカルな共同性のあり方は一般に異種混淆的様相を呈するといえよう。一方では近代に誕生して以降ほぼ世界中に流布するに至った(それゆえすぐれて近代的というべき)ナショナリズム/「民族」という規範的共同体モデルを経由した共同性構成の実践がある。他方ではこのモデルが伝わる以前から継続されてきた、それぞれのローカルな歴史的・社会的多様性を刻んだ共同性構成の諸実践がある。これら異質な共同性が相互に交錯し交雑しつつ同時代の現実として併存することで織りなす、本質的に異種混淆的な社会編制が、いわばグローバル化しているのである。本論文で共同性の近代的状況と名ざし論述の主題に据えているものは、すぐれて近代的なこの「民族」モデルが伝播し、ローカルな社会・歴史を通して定着され、ローカルな既存の共同性を折り込んだ独自の持続を有する一つの「民族」という全体として再編成されようとする、そのプロセスにおいて必然的に生成せざるをえない所の、既存のローカルな共同性を巻き込もうとする「民族」構成実践とこの実践に巻き込まれきらないローカルな共同性が折り重なって同時代に存する、異質性を孕んだ状況のことである。

 ヨルモとはそもそも、幾つかの仏教聖地を中心とした曖昧な広がりを有するヒマラヤ南面の一地域のチベット系名称であり、そこからその(主な)仏教徒住民や彼らの話す(主な)チベット系言語にも状況に応じて用いられてきたものである。首都カトマンズに移住したこの地出身の人の中から、このヨルモというアイデンティティを再認識し、「民族」として捉え直し名乗りをあげ、それを共同体として語り構成しようと企てる人々が近年出てきている。「ヨルモ民族」という共同体を構成する実践が組織的に遂行されつつあるのである。他方でヨルモの村々では、この「民族」導入以前から存しきて、その導入後も(「民族」構成に利用されたりそれが地歩を固めるにつれ相対的に位相をずらしたり意義を減じたりしつつ)なお一定の自律性をもって継続されている共同性構成の様々な実践も明らかに存在している。ヨルモの村々で「民族」以前から存してきた共同性と、ヨルモの名において構成されつつある「民族」としての共同性が、併存しつつ相互に接合している近代的状況を民族誌的詳細において考察すること、これを本論文は行うものである。

 「民族」以前からヨルモの地に存してきた共同性として、部分的には重なりつつも緩やかな独立性を保つ実践系が各々担い/構成する共同性の三つの領域−「村」という共同体、親族名称使用において架橋される共同性、「ラマ」という関係性 −を検討した。

 ヨルモの「村」は、地理的まとまりとしての集落という側面と寺院を中心とする祭礼共同体という二側面を持つ。集落は境界の曖昧な村人の暮らしの場であるが、祭礼共同体は(少なくとも各祭礼ごとに見れば)明確な境界(=成員権)と構造(成員間の序列・役割分担)を有する統合された社会を形成している。とはいえどちらの側面に(さらにはどの祭礼に)焦点を合わせるかにより「村」の境界は揺れ動き伸縮するのであり、またその可変性を固定化しようとする志向があるわけでもない。広汎かつ頻繁に繰り返されるヨルモにおける親族名称使用実践は、実の親族関係の存在にも指示の必要性にも還元されない、その過剰性を特徴とする。親族名称の使用は何より相対する他者に対する(その応答を見込んで行う)呼びかけ、自他の交渉を可能ならしめる共同性を架橋する行為なのである。その都度都度の呼びかけ/応える相互行為において実現される共同性であり、その行為以前から既にありあるいは行為以後にあり続けることを原理的に保証されない共同性である。ヨルモにおける二者間関係は、一般にこうした共同性を基準線として取り結ばれ不断に更新されているといえる。「ラマ」は、ヨルモ地域社会における「上」の階層から、特定の父系氏族、僧侶、寺院長、高僧まで様々な対象に適用される範疇であったが、その使用においてそう呼ばれる方が「上」、呼ぶ方が「下」という関係性に配分される点で一貫している。多様な指示対象は、そう呼び/応える二者間の特定の関係性を異なる文脈において実現することの結果としてむしろ生じたものであり、各指示対象がこの関係性から離れて実体化する可能性は(全くなくはないにせよ)限定されたものである。

 こうした諸共同性を生きてきたヨルモの人々が、「民族」モデルを吸収し、それを用いて集合的自己を(再)想像/創造するという新たな展開は、カトマンズにヨルモ出身者の定住コミュニティが形成されるのに伴い、またこのコミュニティを舞台として起こってきたことである。1990年民主化後のネパールでは、独自の「文化」を有する単位たる「ジャナジャーティ」(=ネパール公定ナショナリズムへの対抗/その転位として生み出された「民族」の一亜種)という自己規定のもとでマイノリティ諸集団が自己主張を活発化させていた。この流れにも乗る形で、首都のヨルモ・コミュニティにおいて「民族/ジャナジャーティ」として「ヨルモ」を組織化し構成するという実践が始まったのである。この実践には、大きく二つの対照的な方向が認められた。一つは「ヨルモ」の包括的組織化を目指す団体ヨルモ・サマージ・セワ・ケンドラに代表されるもの、もう一つは小団体ながら「ヨルモ」を語る/書く実践を活発に展開してきたヨルモ・ファウンデーションである。

 セワ・ケンドラは、ヨルモの首都における葬祭等の会場となる施設(「ヨルモ寺院」)を建立するプロジェクトを中核に据えてその「ヨルモ民族」構成を実践していた。即ち、このプロジェクトの達成において体を成すような共同体としての「ヨルモ」(=ヨルモの地における「村」と相同の、寺院を中心とする祭礼共同体)、あるいはこのプロジェクトの達成を可能にするような共同体としての「ヨルモ」(=資金調達のためできるだけ多くの加入者を集めることが望ましい)を創ろうとしていた。その結果形を現した共同体は、「ヨルモ民族」という旗印にも関わらず、通常の「民族」イディオムにおいて「語る」ことが極めて困難な人々の集合となっていた。即ち一般的に見て、加入者は「雑多な」文化的背景を有する寄せ集めであり、その全員が共有する「ヨルモ文化」を語りえないという状況が招来されたのである。この共同体全員に共有され、またこの全員にしか共有されない特徴を名指すのは難しく、結局この範疇は家族的類似を構成するに留まっている。こうした事態は、初期ケンドラ幹部における「文化」(従って「民族」)概念理解のあり方とも関連する。彼らにとって「文化」とは、「民族」に固有の何かというより、ある「民族」の成員に見出される(起源も雑多なら必ずしも均一とも限らない)社会的諸慣行の束なのである。

 これに対しヨルモ・ファウンデーションは、ケンドラ流のヨルモ・コミュニティの実際的組織化とは対照的に、言説レベルでの構成実践にほぼ特化し、典型的「民族」モデルにのっとった「ヨルモ」を描きだす。彼らにとって「ヨルモ」とは不変で純粋な「ヨルモ文化」を共有すべき単位であり、また「ヨルモ」だけがこの「ヨルモ文化」を有すべきだということになる。「ヨルモ文化」を切り取る境界として彼らは「ヨルモ語」という指標を特権化し、それを含むチベット起源に繋がる諸要素−チベット仏教的諸実践、チベット的衣装、チベット的舞踊etc.−からなる「ヨルモ文化」を語る。彼らはまたこの語りの実践を発展・深化させ、書記という手段を通しても、「ヨルモ/ヨルモ文化」(あるいはそれと「ヨルモ」たる自己との関係)にさらに豊かで詳細で陰翳に富んだイメージを与えようとする。そこでは、あるいはヨルモとの同一化を希求し、あるいはヨルモへのノスタルジアに沈潜し、あるいはヨルモを知的分析の俎上にのせるという諸実践が展開される。

 このような首都における「ヨルモ民族」構成の進展は、故地の村々における共同性の編制にも揺らぎを与えつつある。首都における「ヨルモ寺院」への加入は個々のヨルモが故地の村を離脱する選択肢を用意し、ファウンデーションが尖鋭に体現する「純粋なヨルモ文化」の言説的構成は、村に今ある社会的諸実践への批判を生みだす。村からカトマンズへの移住の流れの止まないなか、ますます多くのヨルモ達が「ヨルモ民族」構成が遂行されている磁場により深く引き込まれつつあり、またヨルモに残り続ける村人達にとってもそのことの影響から自由でいることはさらに困難になりつつある。「民族」への巻き込みは確実に進行しつつあるが、しかし、それが完遂されないことには注意する必要がある。「民族」が本来的に充足した「全体」をめざすとしても、まさにその全体化運動こそが異質性を、つまり「民族」に折り込まれきらない残余を創出せざるをえないからである。

審査要旨 要旨を表示する

 佐藤氏の論文は、ネパール中部、ヒマラヤ南山麓高地のヨルモとよばれる地域で行われた長期にわたる住み込みフィールドワークにもとづき、この地域の住民が現在、「民族」という新しい概念に影響されながらヨルモという範疇を意識的、反省的にとらえ直し、社会的共同性のあり方を変容させつつある状況を描いた、詳細で情報量の高い民族誌である。ヨルモ地域に止まらず、その住民が多数移り住み一個のコミュニティーを形成している首都カトマンズでも持続的調査を行い、カトマンズ起源のヨルモ民族主義が故地ヨルモにおよぼしている影響を克明に描くことで、本論文の記述と議論はおおいに深みを増している。ネパールの諸民族については日本、欧米などで多数の文化人類学的研究が公刊されている。その中で、これまでまとまった研究のなかったヨルモ住民をめぐり質の高い民族誌を提示した本論文は、ネパール民族誌研究、さらに文化人類学全般に、大きな貢献をなすものである。民族誌的データの量・質について言うなら、本論文は、英語及び日本語で出版された近年のネパール地域の諸民族誌と比較して何ら遜色なく、加えて従来検討されることの少なかったネパール語による資料をも駆使しており、博士論文として要求される水準以上の内容を持つものである。

 論文は、ナショナリティ、エスニシティ等をふくむ民族という現象をすぐれて近代的なもの、それ以前の社会的共同性の諸形態との連続性とともに、なんらかの断絶をもふくむものととらえる立場に立っている。そして、人類に時代と地域を越えて普遍的にあてはまる民族概念の再構成を試みているいくつかの先行理論を批判する。また他方では、民族を近代に固有な歴史的現象と見てそれ以前から存在する共同性の諸形態との相互関係を捨象する人文社会科学上のいくつかの議論をも批判し、民族をふくむがそれに止まらない社会の「共同性」とその変容過程を、全体としてとらえるべきだという重要な理論的主張を説得的に提示し、このことにより、文化人類学はもとより、人文社会科学全般への理論的貢献を果たしている。

 論文は、上記の理論的視角に対応する 統一された構成を備えている。第一部は、ネパール的近代以前から続いてきたヨルモ社会のいくつかの共同性の形を取り上げ、村、親族、尊称であり階層でもあるラマなどについて、フィールドでの豊かなデータにもとづく分析を行っている。村自体がけっして自明な存在ではなく多義的な概念であること、そうしたなかで、村の寺院を支える祭礼共同体としての村というモデルが、もっとも組織的、持続的なものであること、親族名称を拡張的にもちいて行われる人々のあいだでの呼びかけ行為が、言語の遂行的側面において人々の共同性を築いていること、汎チベット的概念としてのラマが、やはり多義的な指示機能を持ちながら、人々をつなぐと同時に分離し、共同性の中に不均衡性をもたらしていることなどが、3つの章にわたって描き出される。第二部では、近代に特有の民族的な共同性がヨルモ社会に導き入れられる様が、ネパール国家とネパール人自身による民族をめぐる諸議論、カトマンズにおける、いくつかの傾向に分裂したヨルモ民族構成運動、ヨルモの人々がさまざまな「民族的」メディアを通じて文章に描くヨルモとしての自己像の分析によって明らかにされる。これに続いては、こうした事象が、第一部で論じられたいくつかの共同性と、どのように微妙に接合しているかが、村の分裂という事件のエピソードを通じて論じられ、全体としてヨルモにおける共同性の近代的情況が明快に明らかにされている。第1部と第2部とは別々のものとして提示されているのではない。土地、村、祭礼、親族イディオム、ラマという名乗りや尊称などが、民族である「われわれヨルモ」と言う観念や運動にどう利用され、またそれらをどう規定しているか、さらに民族言説と運動が民族以前的な共同性にどのような影響をおよぼしているかが、各章を有機的に結びつけて論じられている。

 論文では、「共同性」と「近代」という二つの鍵概念が十分には定義され議論されていないという点が指摘されたが、これは人文社会科学者のあいだでもさまざまな議論があって、およそ容易には決着のつかない問題であり、もし佐藤氏が今後この問題について、さらに明快な議論を提示できるなら、博士号授与というレベルをはるかに超えた、真に重要な学術上の貢献となるであろう。博士論文として提出されたものはすでに、学位授与に際して要求される水準を大きく超えたものである。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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