学位論文要旨



No 216230
著者(漢字) 吉戒,直彦
著者(英字)
著者(カナ) ヨシカイ,ナオヒコ
標題(和) 複数金属によって制御される有機合成反応の機構に関する研究
標題(洋) Mechanistic Studies on Synthetic Reactions Controlled by multi-metallic Centers
報告番号 216230
報告番号 乙16230
学位授与日 2005.04.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第16230号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中村,栄一
 東京大学 教授 川島,隆幸
 東京大学 教授 奈良坂,紘一
 東京大学 教授 西原,寛
 東京大学 教授 山内,薫
内容要旨 要旨を表示する

古くは銅触媒によるグリニャール試薬の共役付加反応を始めとして、遷移金属と典型金属の組み合わせによる有機合成反応は数多く知られているが、これらの反応機構の議論は主に単核遷移金属錯体の素反応研究に基づいて行われ、反応系内に共存する典型金属化合物の役割は無視されることが多い.また、遷移金属多核錯体を用いる触媒反応も近年注目を集めているが、単核錯体との反応性の相違が何によるものか不明なことが多々ある。

本論文は遷移金属・典型金属複合反応系として代表的なd1O遷移金属(CuI、Ni0、Pd0)による有機典型金属(Li、Mg)とハロゲン化アリール・アルケニルのクロスカップリング反応の反応機構の理論的・実験的検討及びそれに基づく反応設計開発を述べている。また、遷移金属クラスター触媒反応として、ロジウムニ核錯体によるジアゾ化合物とアルカンのC-H挿入反応及びルテニウムニ核錯体によるプロパルギルアルコールの求核置換反応の理論的検討に関して述べている。8章よりなる本論文の各章の内容を以下に要約する。

第1章では複数金属により制御される有機合成反応について、まず金属協働効果の基本的概念を述べた後、反応を金属の組み合わせごとに(典型金属・典型金属、遷移金属・典型金属、遷移金属・遷移金属)分類し、各々の反応系で現在までに得られている重要な合成化学的成果及び反応機構的知見を概説し、これらと本研究との関連を述べている。

第2章では有機銅リチウムアート試薬によるハロアルケンの求核置換反応の機構の理論的・実験的検討について述べている。本反応はニッケル・パラジウム触媒によるクロスカップリング反応の原型と言うべき反応であるが、反応機構の詳細は不明であった。密度汎関数計算(B3LYP)による検討の結果、炭素-臭素結合解裂の経路が2通り存在することが明らかとなった(Scheme l).1つの経路では、銅が3中心型の遷移状態を経て炭素-臭素結合間に挿入し、平面4配位・3価の銅錯体を与え、引き続く還元的脱離によって生成物に至る。もう1つの経路は、銅がβ炭素との相互作用を保ちつつα炭素上に移る過程で、臭化物イオンが脱離してリチウムカチオンに捕捉され、中間体を経ずに生成物に至る(脱離型経路)という、従来考慮されてこなかったものである。炭素の速度論的同位体効果の測定値と理論計算による予測値の比較から、実際の反応が脱離型経路で進行することが支持された。

第3章では0価ニッケル・パラジウム錯体へのハロゲン化アリール・アルケニルの酸化的付加におけるルイス酸金属の効果に関する理論的検討を述べている。本反応は最も重要な有機金属素反応の1つであり、多くの実験的・理論的検討が行われてきた。現在、3中心型の遷移状態が一般に受け入れられているが、触媒的クロスカップリング反応では共存する典型金属試薬が反応経路に何らかの影響を与える可能性がある。本章ではML2型錯体(M:Ni, Pd, L:ホスフィン)に対するハロゲン化ビニル・アリールの酸化的付加におけるマグネシウム塩の効果が密度汎関数計算(B3LYP)により検討された(Scheme 2).

その結果、MgCl2・(OMe2)n(n=0-2)を脱離基(Br, Cl, F)に配位させたモデルでは、3中心型の遷移構造は求まらず、脱離型の遷移状態のみが得られた。マグネシウムの影響は脱離基がフッ素の場合に最も大きく、活性化エネルギーが大幅に低下した。一方、脱離基がアルコキシ、アルキルチオ基の場合はマグネシウムが配位した状態で3中心型・脱離型両方の遷移状態が求まり、活性化エネルギーの低下もそれほど見られなかった。これは、遷移状態において生じつつある脱離基のアニオンの性質の違いによると考えられる。すなわち、等方的なハロゲン化物イオンがルイス酸の配位の方向性を問わないのに対し、アルコキシド、チオラートイオンは異方性を有するため、遷移状態においてマグネシウムが効果的に負電荷を捕捉することが困難になっているものと考えられる。

以上の結果は、ニッケル及びパラジウム触媒によるグリニャール試薬とハロゲン化アリールのクロスカップリング反応(熊田-玉尾-Corriu反応)において反応系中に共存するマグネシウム塩が触媒サイクルに関与している可能性を示唆する。

第4章では第2、3章で述べた遷移金属・典型金属によるsp2炭素ハロゲン結合の同時活性化の概念に基づく、ニッケル触媒によるフッ化アリールとグリニャール試薬のクロスカップリング反応の設計開発について述べている(Figure 3).リン原子近傍にヒドロキシ基を有する配位子の存在下、C-F結合の切断が容易に起こることが分かった。「リン原子近傍」「ヒドロキシ基」という2つの条件を満たさない類似配位子の触媒活性は非常に低い.これはC-F結合活性化においてニッケルとマグネシウムの協働作用が働いていることを示唆する。

本反応は種々の電子不足・電子豊富なフツ化アリールに適用可能である。特筆すべきは4-フルオロアニソールの反応である(右式参照)。一般にニッケル触媒はC-O結合の活性化も起こすことが知られているが、本反応系ではC-F結合活性化のみが選択的に進行した。

第5章ではロジウムカルポキシラート複核錯体触媒によるジアゾ化合物とアルカンのC-H挿入反応の機構の理論的検討および複核構造の効果に関する考察を述べている。本反応は、不活性なC-H結合を直接的かつ位置・立体選択的に変換する手法として近年飛躍的な発展を遂げている。しかし、反応設計の基盤となるべきC-H結合切断及びC-C結合生成の機構は不明であり、複核構造の役割も議論されてこなかった。

ロジウム錯体としてRh2(O2CH)4(15)、ジアゾ化合物としてジアゾメタン及びジアゾ酢酸メチル、アルカンとしてメタン及びプロパンを用い、密度汎関数計算(B3LYP)による検討が行われた(Scheme3).反応経路の概要は、(1)ロジウムへのジアゾ化合物の配位(15-16)(2)窒素の脱離を経るカルベン錯体の生成(16-19)(3)協奏的なアルカンのC-H挿入(19-21)である。計算結果は、窒素脱離の活性化エンタルピー、C-H挿入の速度論的同位体効果、C-H結合の反応性(2級>1級>CH4)などの実験結果をよく再現した。局在化軌道解析により、C-H挿入はアルカンのC-Hc結合性軌道とカルベン炭素の空のp軌道との3中心相互作用を主たる駆動力として進行することが分かった。他の単核金属カルベン錯体のC-H挿入反応との構造の比較やNatural Bond Orbital解析の結果、C-H挿入ではカルベン炭素p軌道の求電子性のみならず金属-カルベンσ結合の切断されやすさが重要な要素であることが分かった。ロジウム錯体では、Rh2(カルベンが配位していないロジウム)がRh1に対する強力な配位子として働くことにより、C-H挿入の段階でロジウムーカルベンσ結合の切断が促進されることが示唆された。

第6章では、第5章の検討の展開として行われた、ロジウムカルベン錯体の分子内C-H挿入を経る種々の環化反応における立体選択性の発現要因の理論的解析について述べている。

第7章では、チオラート架橋ルテニウムニ核錯体によるプロパルギルアルコールの触媒的求核置換反応の理論的検討を述べている。本触媒反応は二核錯体のみに特異的であり、ルテニウム間の距離と触媒活性に相関関係があることは実験的に示されていたが、その本質は明らかではなかった。

密度汎関数計算(B3LYP)によって明らかとなった本反応の経路の概要は以下の通りである(Scheme 4).配位不飽和錯体22を出発点として、π錯体生成(23)、1,2-プロトン転移によるビニリデン錯体生成(24)と引き続く脱水によりアレニリデン中間体25を与える。アレニリデン中間体と求核剤の反応は触媒サイクル前半部の逆反応と同様に、ビニリデン錯体24',π錯体23'を経て進行すると考えられる。ここで、溶媒(MeOH)がプロトンの円滑な移動を促進していることが分かった。MeOHを2分子導入した場合、23はビニリデン錯体を経ずに25に至る。最も重要な段階は、ルテニウム上における生成物と基質の交換(23'->22->23)である。二核錯体ではこの段階で生じる配位不飽和錯体22がRu-Ru結合の再生によって安定化されるのに対し、単核錯体では安定化が得られない。すなわち、Ru2(基質と相互作用しない金属中心)がRu1(活性金属中心)に対する受容基として働くために配位子交換が円滑に進行することが分かった。

第8章では以上に述べた多金属複合反応系に関する検討を総括している。第2-4章では遷移金属・典型金属による協働的なsp2炭素ハロゲン結合活性化という新規概念が理論的・実験的に示された。第5-7章では金属-金属間、金属-有機基間の電荷移動が複核金属触媒の1つの重要な動作原理であることが明らかとされた。いずれの反応系においても、複数金属原子の空間配置の精密制御が協働効果発現のための鍵であることが示された。

Scheme 1. Two Pathways of the Reaction of Cuprate 1 with Vinyl Bromide 2 to Give Propene (B3LYP/SDD for Cu, Ahlrichs SVP for Br, 6-31G(d)for the rest)a

a A and B rotations refer to rotation along the Cu-C1 axis. Energies(kcal/mol) are relative to [1+2]. Energy changes are shown together with arrows.

Scheme2. Reaction Pathways for the Oxidative Addition of Alkenyl/Aryl Halide to ML2(M=Ni0,Pd0;L=phosphine)with or without Coordination of MgCl2

Figure 3. Catalytic activities of phosphine ligands in Ni-catalyzed cross-coupllng.reaction between 4-fluorotoluene and phenylmagnesium bromide

審査要旨 要旨を表示する

本論文は8章から構成されており,複数の金属中心によって制御される有機合成反応の反応機構研究について述べられている.第1章では,複数金属の協働効果の基本的概念が述べられた後,金属の組み合わせごとに反応が分類され,各々の反応系で得られている重要な合成化学的成果及び反応機構的知見が概説されている.

第2章では,有機銅リチウムアート試薬によるハロアルケンの求核置換反応の機構について述べられている.本反応はニッケル・パラジウム触媒によるクロスカップリング反応の原型と言える反応だが,反応機構の詳細は不明であった.本研究では密度汎関数計算による検討を行い,炭素-臭素結合解裂の経路として,従来提唱されてきた3中心型に加え,脱離型の経路が存在することを見出している.さらに,速度論的同位体効果の実験値と計算値の比較を行い,本反応が脱離型経路を経て進行するものと結論している.

第3章では,0価ニッケル・パラジウム錯体へのsp2炭素ハロゲン結合の酸化的付加の機構について述べられている.本反応は重要な有機金属素反応の1つであり,現在,3中心型の機構が広く受け入れられているが,触媒反応において共存する典型金属試薬が反応経路に及ぼす影響はあまり考慮されてこなかった.本研究ではML2型錯体(M: Ni, Pd, L: ホスフィン)へのハロゲン化ビニル・アリールの酸化的付加におけるマグネシウム塩の効果を密度汎関数計算により検討している.その結果,特にハロゲンがフッ素の場合,酸化的付加は3中心型ではなく遷移金属( Ni, Pd)とマグネシウムが協働的に関与する脱離型の機構で進行することが示唆された.

第4章では,第2,3章で述べられた遷移金属・典型金属によるsp2炭素ハロゲン結合の同時活性化の概念に基づく反応の設計開発について述べられている.本研究では,リン原子近傍にヒドロキシ基を有する配位子を用いることにより,一般に困難なニッケル触媒によるフッ化アリールとグリニャール試薬のクロスカップリング反応を達成している.種々の配位子の検討の結果,炭素-フッ素結合切断の段階におけるニッケルとマグネシウムの協働作用が示唆されている.

第5章では,ロジウム複核錯体触媒によるジアゾ化合物とアルカンのC-H挿入反応の機構について述べられている.本反応は,不活性なC-H結合の直接的変換手法として注目されているが,反応機構ならびに複核構造の役割は不明であった.本研究では,密度汎関数計算による検討を行い反応経路の全容を明らかにするとともに,C-H挿入における複核金属の効果を考察している.C-H挿入はアルカンのC-Hσ結合性軌道とカルベン炭素の空のp軌道との3中心相互作用を主たる駆動力として進行するが,金属-カルベンσ結合切断の容易さも重要な要素であり,カルベンが配位していないロジウムがもう片方のロジウムに対する強力な配位子として働くことによりロジウム-カルベンσ結合の切断が促進されることが示唆された.

第6章では,第5章の研究の展開として行われた,ロジウムカルベン錯体の分子内C-H挿入を経る環化反応における立体選択性の発現要因の理論的解析について述べられている.

第7章では,ルテニウム二核錯体によるプロパルギルアルコールの触媒的求核置換反応の機構について述べられている.本反応は二核錯体のみに特異的であり,ルテニウム間の距離と触媒活性の相関関係は実験的に示唆されていたが,その本質は明らかではなかった.本研究では,密度汎関数計算による検討を行い,反応経路および複核錯体の協働作用を明らかにしている.本反応における重要な段階はルテニウム上における生成物と基質の交換であり,二核錯体では,この段階で生じる配位不飽和錯体がRu-Ru結合の再生によって安定化されるため配位子交換が円滑に進行することが示された.

第8章では,以上に述べられた多金属複合反応系に関する検討が総括されるとともに,今後の展望が述べられている.第2-4章では遷移金属・典型金属による協働的なsp2炭素ハロゲン結合活性化という新規概念が示され,第5-7章では金属-金属間,金属-有機基間の電荷移動が複核金属触媒の動作原理の1つであることが明らかとされた.

なお,本論文の第5章は山中正浩氏,第7章はSalai Cheettu Ammal氏との共同研究であるが,論文提出者が主体となって検討を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する.

本研究はこれまで不明であった有機金属触媒反応における複数金属の協働効果の本質を明らかとし,かつ触媒反応の合理的設計への指針を提示したものであり,有機金属化学,有機反応化学の分野に多くの知見を与えた.したがって,本論文は博士(理学)を授与できる学位論文として価値のあるものと認める.

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/49009