学位論文要旨



No 216358
著者(漢字) 佐藤,康邦
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,ヤスクニ
標題(和) カント『判断力批判』と現代 : 目的論の新たな可能性を求めて
標題(洋)
報告番号 216358
報告番号 乙16358
学位授与日 2005.10.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16358号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高山,守
 東京大学 教授 関根,清三
 東京大学 助教授 熊野,純彦
 東京大学 助教授 小田部,胤久
 埼玉大学 教授 渋谷,治美
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、カントの『判断力批判』を、目的論の展開という観点に立って検討することを主眼にしている。もとより、『判断力批判』はその全体にわたって目的論が論じられている著作であるのだから、それは当然のこととも見られるかもしれないが、しかし、本論文が、『判断力批判』を所謂カント研究という枠のなかで論じるというよりも、目的論という概念の持つ哲学的、科学論的可能性を探求するという方向づけのもとで論ずるという特徴を持つ以上、改めてこのことを確認しておく必要があろうかと思う。目的論はアリストテレスの目的因の概念にその源泉を持つ古い概念であり、ともすれば前近代的な形而上学的概念とみなされかねないものであるが、それの持つ科学論的意義は、一方において生命科学の新たな展開、システム論、複雑形の諸理論、認知心理学等の諸科学の新たな展開が見られ、また他方において、環境問題の深刻化の背景のもとでエコロジー的自然観の復権が要求されている現代においてこそ再検討が求められる考え方であると言える。そのような問題意識は、本論文で目的論を論ずる著者の心に底流として流れていたものであった。

著者は、すでに1991年に『ヘーゲルと目的論』を上梓しており、その内容は、目的論の現代における科学論的可能性を追求するという視点に従ってヘーゲル哲学全体の検討を行うというものであった。この時の発想は今日においても基本的には変わっていない。それでは、今、改めてカントの『判断力批判』を中心素材として論ずることの積極的意義はどこにあるのかということが問われるであろうから、それに次の三点で答えておこう。

まず、第一にあげられることは、カントの『判断力批判』こそ、近代において目的論の問題を最も大規模に追求し、展開した書物であったということである。そこでは、目的論の持つ美的(直観的)側面から、論理的側面、さらには倫理的、神学的側面にわたるすべての側面への考察が見て取られるということがある。

第二にあげられることは、「批判哲学」という枠組みのもとで展開されたカントの目的論についての考察のうちには、ヘーゲルの場合とは異なった意味での現代的意義が含まれているということである。『判断力批判』において、カントは、目的論に関してもあくまでも「批判哲学」という近代科学的水準での認識論にこだわりながら考察し、その上でさらに、これを介して、単なる認識論の水準を超える次元への展望を与えたと言える。そのために、『判断力批判』には認識や知覚に関して、ただ同時代の理論と関わるだけではなく、彼の時代を飛び越えて、20世紀の現象学の問題圏や認知心理学の問題圏と重なるものが認められることにもなっていったのである。さらに、機械論と有機体論とのせめぎ合いという観点に従って展開されたカントの有機体の定式化や進化論的発想には、今日の生命科学の立場から見てかえって取り上げるに値するというものが見出せるのである。このように目的論の科学論的可能性の探求という観点に立つことによって、閉ざされたカント解釈の枠から解き放された『判断力批判』解釈の可能性が開かれてくるはずである。

第三にあげられることは、『判断力批判』に視座をすえることによって、カント哲学全体の体系構成に新たな光を当てることが可能になるということである。本論文が狭義のカント研究としてではなく、広く目的論の研究という文脈に従って書かれたものであると語りはしたが、それでも、『判断力批判』を研究主題とした以上、カント哲学そのものと向かい合うという手続きは経なければならなかった。『判断力批判』にとっての基礎概念である判断力、理性、構想力、感情、自然といった概念を確定するためにも、それらが三批判書全体のなかでどう規定されているか、それぞれの著作でその位置づけに相違点があるか否か、あるとするならばそれはどのようなものなのかをテキストに即して厳密に検討することが必要ともなったのである。そして、以上の作業を通じて明らかになったことは、『判断力批判』が批判哲学の枠組みを崩壊させかねないような問題を提起していること、にもかかわらず、カントがあくまでも批判哲学の枠組みにその問題を取り込もうとしたこと、そこで様々の困難な問題が生じたことも事実ではあるが、逆に豊かな可能性も展望し得るようになったということである。

さらに最後に語っておかなければならないことは、『純粋理性批判』の場合と同様、この『判断力批判』においても科学方法論が展開されているのではあるが、しかしそれはあくまでも哲学としてものにほかならないということである。『判断力批判』には目的論研究という経路を通じて有機体に関する多彩を極めた科学論的発想が含まれているということも真実であるが、それと同様に、われわれを、古代以来人間の心にとりついて離れない哲学的思索の原点というべきものに投げ返すものが含まれていることも事実なのである。

次に本論文の具体的内容を目次の順に要約しておくことにしよう。

序論:

本論文を著すにあたっての私の基本的姿勢を示している。そこでは特にハイデッガーのカントの『純粋理性批判』についての講義録が参照されている。

第一章:

目的論の諸相というタイトルのもとで、目的論という哲学用語の持つ諸側面について、歴史的検討が加えられる。そこでこの概念の創始者であるヴォルフに先立つ先駆者を求めて、古代のアリストテレスの目的因、さらにはプラトンのイデアの想起説に遡る。次に、近世初頭における機械論的自然観の目的論に対する否定的評価と、それに対抗する目的論の再評価の歴史が回顧される。後者の例としてライプニッツが取り上げられ、さらにヒュームの『自然宗教をめぐる対話』における目的論をめぐる論議やスミスの『道徳感情論』『国富論』における「見えざる手」の概念の持つ目的論的構造が検討される。

第二章:

カント哲学における目的論の位置が、カントの初期著作、および『判断力批判』以外の二つの批判書においてどのようなものであったかが検討される。

第三章:

カントの体系全体のなかでの『判断力批判』の位置についての検討を、『判断力批判』のための導入の文章、「緒論Vorrede」と二つの「序論Einleitung」を通じて行った。「序論」のうち、長大な第一番目のものはカント自身によって破棄された。しかし、そこには、現在我々が手にする『判断力批判』に採用された序論、すなわち第二序論においてよりはっきりとした形で『判断力批判』の構成を明示するものが認められる箇所もある。そこで、この二つの序論を比較し、検討することで、カント自身による判断力や合目的性の規定がどうなっているのか、また美的(直観的)判断力と目的論的判断力との関連づけがどうなっているのかが、彼の体系構成の再検討という観点から概観されている。

第四章:

『判断力批判』第一部「美的(直観的)判断力の批判」にとっての合目的性問題が構想力との関わりで検討されている。しかし、『判断力批判』の順序に従って内容を祖述するという方式は避けて、美的(直観的)判断力の諸側面を問題別に論述するという方式が取られている。まず、三批判書における「美的(直観的)(asthetisch)」という言葉の位置づけが検討され、それを踏まえて、『判断力批判』におけるこの概念の特殊性が明らかにされる。第二節以下では、「美的(直観的)」なものが、それと不可分の関係に置かれている構想力との関係において考察される。第六節では美の理想と「規準理念」という純粋な趣味判断の問題からは逸脱した構想力の能力が、また第七節では「崇高」についてのカントの論述を通して構想力の可能性と限界との関係が検討されている。これらを通じて、「美的(直観的)判断力の批判」の次元に属している認識論的、知覚論的契機が主題的に取り出され、それの持つ非カント的と言えるまでに斬新な着想が明かにされる。

第五章:

カントの『純粋理性批判』に伏在していながら顕在的には目的論問題として展開されなかった例が拾いあげられている。第三節では、自我の同一性問題に目的論を適用した西田幾多郎の『自覚における反省と直観』が取り上げられる。それとの関連において、フッサールの『論理学研究』、『イデーン』(第一巻)が検討されている。

第六章:

有機的生命の合目的性と世界の合目的性がカントのテキストに従って検討されるとともに、彼の内的合目的性の概念の有効性が、ハンス・ドリーシュの「動力学的目的論」という概念や近年のオートポイエーシス理論と関係させて検討されている。

第七章:

自然の客観的合目的性を可能にするものがわれわれの反省的判断力であるという命題についての検討が行われる。そこで反省的判断力につきまとうアンチノミー問題も検討されるが、最後の第七節では、われわれの悟性が神の知性――直感的悟性――との比較で検討されるという形而上学的領域にまで考察が進められていく。

第八章:

具体的な生命科学の理論が検討される。カントは進化論の先駆者の一人でもあったが、それが今日の分子生物学の水準で再検討されている。

第九章:

世界の究極目的との関連で神学問題が扱われる。そこでは、カントの支持するものは道徳神学であって自然神学ではないというのが結論となっているのではあるが、しかし、簡単にそこに収まらないような、究極目的という観点から見ての幸福と文化の問題とか、それに関連しての歴史の目的論の問題に脚光が当てられるのである。

審査要旨 要旨を表示する

『カント『判断力批判』と現代−−目的論の新たな可能性を求めて−−』と題されて公刊された佐藤康邦氏の博士号申請論文は、カントの著作のなかでも際だって錯綜し、それ故にこそまた、このうえなく豊かな内容をたたえる『判断力批判』(いわゆる第三批判書)を正面から採りあげ、その錯綜した脈絡を解きほぐしつつ、その主題である目的論の現代的な意義と可能性を証示したものである。

第一章においては、カント以前の目的論の系譜が歴史的にたどられ、第二章において、『判断力批判』に先立つカントの主著である『純粋理性批判』(第一批判書)および『実践理性批判』(第二批判書)での目的論の内実が論じられる。

第三章以下が、『判断力批判』そのものを論じる、いわば本論だが、本章において、目的概念(「合目的性」)に直接関わる「美的(直観的)判断力」および「目的論的判断力」という二種類の「反省的判断力」、ならびに、「構想力」という、錯綜する主要諸概念が、カントの提示する、これまた錯綜する体系論のうちに正確に位置づけられる。そして第四章において、「美的(直観的)判断力」−−いわゆる「趣味判断」−−が、今日の科学的形態論、構造主義生物学、J.J.ギブソンの「アフォーダンス」論等の認知科学、さらには、ルネ・トムの数学論等をも見据える広い視野のもとで論じられる。

第五章は、一旦『判断力批判』を離れて、『純粋理性批判』に立ち返り、ここにおいて論じられるべきであったとされる目的論を主題化するが、第六章において、再び『判断力批判』に戻って、重要な目的論のひとつであるカントの有機体論が、現代のオートポイエーシス論等との関連で論じられる。また、第七章においては、「全体」(「目的」)を把握するということ(「目的論的判断力」)が主題化され、カントの「神の知性」論が論じられるとともに、再びカントの議論とギブソン等による現代認知科学との関連性が提示される。

第八章は、いわゆる進化論をも包摂しうるとされるカントの生命論を主題とし、現代生命科学による生命操作に対する疑念の哲学的根拠が、この生命論のうちに読み取られようとする。そして最終章、第九章において、「世界の究極目的」を「道徳的主体としての人間」とし、また、「最終目的」を「幸福」と「文化」とする、カントの「究極目的」、「最終目的」論が再吟味される。

以上の論述は、『判断力批判』で展開されたさまざまな論点を、目的論をめぐる広い哲学的視野のもとに総括するものであり、そのことの故にまた、個々の論点を見れば、時になお展開の余地が残されてはいる。しかしそれは、カント研究に対し、総じてこれまでにない地平を拓くという、本論文の高い評価をいささかも減じるものではない。

よって、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するに値すると判定する次第である。

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