学位論文要旨



No 216882
著者(漢字) 菊地,大樹
著者(英字)
著者(カナ) キクチ,ヒロキ
標題(和) 中世仏教の原形と展開
標題(洋)
報告番号 216882
報告番号 乙16882
学位授与日 2008.01.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16882号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村井,章介
 東京大学 教授 末木,文美士
 東京大学 准教授 大津,透
 放送大学 教授 五味,文彦
 日本女子大学 教授 永村,眞
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、主として持経者という宗教者に焦点を当てながら、中世仏教の原形と、その活動の展開を逐次追うことによって、顕密体制論の提起以来、研究の意義が問い直されていた思想的系譜論にもとづく中世仏教研究について、改めて考え直そうとするものである。

序章においては、日本仏教史の史学史的検討を通して、本書の課題を探った。日本仏教史研究は、決して最初から歴史学に固有のテーマとして存在したのではなく、むしろ村上専精らの活動に見られるように、仏教学の中にその胎動を見出すことができる。その後、久米邦武筆禍事件前後の明治思想界の動向を背景とする近代における学問史的展開の中で仏教史学は歴史学と仏教学に分裂した。歴史学が国家学的な方向に関心を強めてゆくと、歴史学としての仏教史研究においては、程度の差はあれ、常に国家との密接な関係を明らかにすることが求められてきた。顕密体制論は、そのような研究動向の先に典型的に成立した理論である。そこで、顕密体制論の特徴と研究史を整理し、その批判的検討の中から、思想的系譜論の有効性を見出した。この理論のなかで聖の宗教活動が重視されてきたことに鑑み、その一角をなす持経者を具体的な分析対象として中世仏教の原形と展開を追及してゆくこととした。

第1部「中世仏教の原形」では、古代社会にまでさかのぼり、持経者の活動とその展開を明らかにする。また、同時にそれらが記された往生伝・『法華験記』の史料的性格や、その活動の場であった山林修行について跡づけてゆく。第1章「持経者の原形と中世的展開」では、遅くとも8世紀の日本において、国家の暗誦奨励政策と対応する形で、経典暗誦を主な行業とする持経者の姿が認められることを明らかにした。僧尼令的秩序の変化に伴って、彼らの活動は多様化するが、山林は持経者にとって、もっとも主要な修行の場であった。10~12世紀を通じて、持経者の活動範囲は民衆的世界へと拡大したが、12世紀の終わりに治承・寿永の内乱によって焼失した東大寺の復興に活躍した俊乗房重源は、そのような中世的な持経者の典型であると評価できる。第2章「奈良時代の僧位制と持経者」では、第1章で扱った奈良時代の仏教政策と持経者の関係において重要な、天平宝字4年(760)の僧位制について、従来の研究史を整理し、基本史料を改めて正確に解釈することを通して、私案による復原を行った。あわせて、奈良時代の僧侶の修行の類型について考察し、道鏡と持経者の関係について考えた。第3章「往生伝・『法華験記』と山林修行」では、最初に中世の聖や持経者についての基本史料とされてきた、往生伝や『法華験記』の歴史史料としての性格を、中国以来の歴史叙述の方法としての「伝」「記」の特性に即して考えた。また、往生伝や『法華験記』を、都市生活者の理想や幻想を説話化した全くの創作であると評価する考え方に対して、山林修行者は決して都市から隔絶された存在ではなく、その周囲にはかれらの修行の有様を目撃し、民衆の熱狂的関心を媒介する修行者のネットワークが形成されていたことを明らかにした。さらに、かれらの行動を「顕密」をキーワードとして分析すると、そこからさらに、山林を基盤とする修行者たちの、読誦など実践的な法華経修行に対する新たな問題関心が浮かび上がってきた。そこで第4章「修験道と中世社会」では、古代の山林修行について、役行者の活動や法華経信仰に焦点を当てて整理し、ついで中世において山林修行が宗派としての「修験道」として成立する過程を、『御堂関白記』や『天狗草子』などを通して追った。さらに修験道の中世社会における展開を、吉野・熊野と全国の霊山や、海上交通を通した琉球にまで至るネットワークの形成を通して明らかにした。最後にこのような修験道が、原始・古代から一貫して流れる基層信仰の上に形成されるとする概念を批判し、修験道の柔軟な発想と変容の実態を考えた。

第2部「中世仏教と持経者の活動」では、弟1部で検討した持経者の活動が、中世において、さらにどのように展開してゆくかについて、王権・専修念仏・寺院社会といった、近年の中世仏教研究にとって重要な問題との関わりの中で検討してゆく。第1章「後白河院政期の王権と持経者」では、後白河院や源頼朝など、当該期の王権の中枢に位置する人物が持経者であり、彼らの王権を支える上で持経者としての信仰が重要な宗教的要素となっていたことを明らかにする。持経者としての後白河院の法華経信仰は、院の宗教的権威を補強し、政治的諸関係にも影響した。一方、頼朝の持経者としての信仰も、初期鎌倉幕府における御家人制的秩序の編成にまで影響を与える政治性を持っていた。また、同時期に摂関家の出身者として天台座主を務め、王権を護持する立場にあった慈円も持経者であり、さらにその兄の九条兼実に仕えた熊野先達の持経者智詮もまた、当該期の活動が詳細に分かる持経者であった。第2章「『文治四年後白河院如法経供養記』について」は、近年公開された鎌倉時代初期の貴族藤原定長の日記『定長卿記』について翻刻・紹介し分析を加えた。その内容は、後白河院が文治4年(1188)に催した如法経供養の記録であるが、この時の供養は、後に如法経供養会の典型とされる重要なものであり、持経者としての院の法華経信仰の具体像を知る新出史料として注目される。さらに、従来『法然上人絵伝』には、この時に法然が導師として奉仕したことを中心として法会の有様が描かれるが、他の史料的な傍証が希薄なことから、これは絵伝創作時における全くの虚構とも考えられてきた。しかし、『文治供養記』と絵伝を比較することにより、絵伝が明らかに『文治供養記』を参照して製作されたことが分かり、法然の院の如法経会への奉仕が史実かどうかについても再考を迫ることとなった。第3章「持経者と念仏者」では、鎌倉時代に専修念仏義が成立を通して、持経者と念仏者はどのような関係にあるのかを考えた。最初に、当該期の代表的な説話集である『発心集』に見える持経者を分析し、その位置づけが専修念仏義を強く意識し、それとの緊張関係において行われていることを明らかにした。そこでさらに、専修念仏義に関連する史料に現れる持経者の扱い方に注目し、専修念仏義が、諸行の中でも特に強く持経者の行業を意識し、それと一線を画する形で自己の思想の独自性を強調していることを見出す。ところが一方で、『元亨釈書』音芸志によれば、念仏は持経者の行業と同じカテゴリーの中で捉えられており、念仏は本来、古代以来の経典や陀羅尼の読誦・暗誦の一環として広く認識されてきた背景があった。そうであればこそ、念仏者は持経者の差異化を殊更に強調したのであった。このような念仏者からの批判の一方で、当該期の持経者の行業は、芸能的な「能読」へと発展し、新たに読経の故実を蓄積し、読経道を形成してゆくことになる。第4章「中世東大寺の堂衆と持経者」では、従来聖の一群として体制外的と考えられてきた持経者の、顕密寺院における活動と位置づけを、東大寺に焦点を当てて明らかにした。重源は東大寺の復興に際して、自らの信仰をもとにして持経者を動員・組織化したが、重源没後の東大寺では、大仏殿前で法華経千僧供養(千部法華経会)を始めとする持経者による大小の法華経読誦の法会が催され、興福寺・東大寺の持経者が「百口持経者」なる特異な集団を形成するなど、引き続き持経者の活動が見られる。これらの持経者の一部は、通常堂衆としての寺内身分を得て活動していたと見られることから、その堂方の院家に伝来した「東大寺宝珠院旧蔵文書」などを中心に、「お水取り」として有名な二月堂修二会に焦点を当てて、修二会においても持経者が重要な役割を果たしていることを明らかにする。次いで、これらの持経者の典型例として、先の史料に加え、『大乗院寺社雑事記』などを活用し、大乗院門跡尋尊と関係の深かった中門堂衆の延春房長宗を通して、中世東大寺の持経者の諸相を考えた。

最後に終章において、本論文の全体を要約・総括し、次への課題と展望を述べた。本論文では、その初発時において歴史学が国家学的関心を孕んだことの問題点と、それを自覚することの重要性を強調した。しかしながら、方法としての歴史学の可能性を信じ、その新たな展開を期待する限り、同時に歴史学に固有の問題として日本仏教を考えてゆくこともまた重要である。この意味で、本論文は事象の時系列的展開に即して忠実に歴史的事実を明らかにし、積み重ねてゆくという基本的な作業を常に重視した。このような立場に立ったとき、思想的系譜論の重要性が改めて認知される。歴史学を基礎として考察を進める限り、個々の歴史的事実がどのように評価されようとも、それらが共時的に連関しながら通時的に連続するという点を無視することはできない。どのような優れた思想家といえども、彼らが生きた中世という時間・空間から自由ではあり得ない。この意味において、思想的系譜論は歴史学的思考にもっとも率直に符合する歴史理論であると考える。

審査要旨 要旨を表示する

本論文が主要な対象とする「持経者」については、従来、古代の国家仏教組織から外れて仏教の民間化・大衆化に尽力した、「ひじり」の一種としてのみ評価されてきた。本論文は、黒田俊雄氏の提唱した「顕密体制論」が中世仏教理解のパラダイムとなるなかで、打ち捨てられていった分野として持経者に注目し、社会的背景を含めて思想家の系譜をたどる「思想的系譜論」の立場から、持経者の広がりと系譜を描き出した。多様な史料を駆使した著者の作業によって、持経者が「仏教の時代」ともいうべき日本中世の成立期に、重要な役割を果たした社会的存在であったことが、初めて明らかにされた。

「持経者」の原義は「経典を暗誦する者」であり、八巻に及ぶ長大な「法華経」を一字一句余さず記憶し読誦することのできる技能が、古代の国家仏教制度としての得度において、評価の対象となった。しかし、この持経の「行」としての側面が、乞食や山林修行と結びつくことによって、国家制度の枠をはみだした「ひじり」という性格を、持経者に与えることになる。このように、古代から中世への持経者の展開に明瞭な筋道を与えたことが、本論文の第一の功績である(第一部の各論文)。

しかし、持経者はたんなる隠者ではなく、積極的に一般社会との接点を求める者も多くいた。12・13世紀の交に国家の柱石とされる東大寺の再建を首導した重源は、代表的な持経者であり、同時代に国家の頂点にいた後白河院にも源頼朝にも、持経者としての活動がある。頼朝のブレーンとなった関白九条兼実の周辺にも、智詮や兼実の弟慈円など、重要な持経者が集っていた(『玉葉』)。このように、持経者を中世王権の性格を解く一つの鍵として打ち出したことが、本論文の第二の功績である(第二部第一・二・四章)。

さらに、持経者と念仏者は中世前期においてつねにペアとされる存在であったが、念仏者が戦国時代に巨大な宗教運動を生みだしたのに対して、持経者は中世後期には退潮し、近世にほぼ姿を消してしまう。そのこと自体が、歴史的重要性に比して持経者研究の乏しかった原因であり、本論文がその暗がりに光を当てたことの意味は大きい。しかし、「持経者と念仏者」という表題をもつ第二部第三章においても、念仏者を持経者の一類型とする『元亨釈書』の記事が紹介されるのみで、両者の共通/差異の構造は鮮明でない。また、持経者から転生した宗教的巨人日蓮についても、わずかな言及があるのみである。

以上のように、「中世仏教の原形と展開」のタイトルにふさわしい俯瞰図が描ききれていない点は、今後の研鑽に委ねられているものの、持経者の歴史的意義を古代から中世を通して詳細に解明した研究史上の意義は、充分評価にあたいするものである。よって本委員会は、本論文を博士(文学)の学位を授与するにふさわしい業績と判断する。

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