学位論文要旨



No 216994
著者(漢字) 二村,真祐美
著者(英字)
著者(カナ) フタムラ,マユミ
標題(和) Rasシグナル阻害能を有する抗腫瘍活性物質の同定とその作用機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 216994
報告番号 乙16994
学位授与日 2008.07.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第16994号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 関水,和久
 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 教授 一條,秀憲
 東京大学 教授 堅田,利明
 東京大学 准教授 東,伸昭
内容要旨 要旨を表示する

ras遺伝子はヒト癌において高頻度に異常が認められる癌遺伝子であり、その変異率は膵癌では90%と最も高く、大腸癌では40%、甲状腺癌では50%、肺の腺癌で30%と報告されている。また、Rasの上流因子であるEGFやPDGFなどの受容体の高発現や、Rasの下流のRafの変異も高頻度に見つかっており、これらをあわせると腫瘍全体の約80%でRasシグナル経路の活性化がおきていると言われている。そこで、著者はRasシグナル経路を構成する分子を標的とした抗腫瘍剤開発を目指して2種類のRasシグナル阻害剤スクリーニング系を構築し、これらを用いて阻害剤の探索を行った。更に、同定した化合物についてRasに依存した腫瘍活性に対する阻害能を評価し、抗腫瘍剤としての有効性を検証した。また、これら化合物のRasシグナル経路に対する阻害メカニズムの解析から、Ras腫瘍化シグナルにおける重要な因子を同定し、Rasの腫瘍化メカニズムの一端を解明すると共に、それに基づく新たな抗腫瘍剤開発に有用なターゲットを提示した。

[PC12細胞を用いたRas経路阻害剤スクリーニングによるtrichostatinAの同定と、その作用機構解析]

Ras経路の阻害を評価する高感度かつ簡易的なスクリーニング系として、MMTV-LTRプロモーターで制御されるRas発現ベクターを導入したPC12細胞を樹立し、デキサメサゾン誘導性のRas発現で起きる神経突起伸長を指標にしたアッセイ系を構築した。この系を用いて阻害剤スクリーニングを行い、ヒストン脱アセチル化酵素阻害剤として知られるtrichostatin A(TSA)を同定した。TSAは80ng/mlで、デキサメサゾン誘導性のoncogenic Rasシグナルによる神経突起伸長、及びnormal Rasシグナルを介するNGFによる神経突起伸長をそれぞれほぼ完全に阻害した(Figure 1)。また、TSAがNGF刺激後の1時間以内の反応 に関与していることを見出し、解析を行った結果、TSAが早期応答遺伝子であるc-fos、c-jun、c-myc遺伝子の発現を変化させることでRasシグナル阻害作用を示すことを明らかにした(Figure 2)。また、PC12細胞をTSA(80ng/ml)で処理すると 、処理1時間後からアセチル化ヒストンが増加し、処理時間の増加と共にアセチル化ヒストンの蓄積が認められた。このことから、TSAのヒストン脱アセチル化酵素阻害作用によつて早期応答遺伝子発現が影響されたと示唆された。

更にTSAがras-transformed NIH3T3細胞の形態正常化作用を有すること、及びnormalNIH3T3細胞よりもras-transformed NIH3T3細胞の増殖を積極的に抑制すること見出し、TSAが抗腫瘍活性を有することを示した。以上の結果から、ヒストン脱アセチル化酵素阻害剤によって、Rasシグナルの増幅で異常になった細胞増殖を是正できる可能性があることが示唆された。即ち、Rasシグナルの下流において、ヒストン脱アセチル化酵素は、腫瘍化を引き起こす因子群の転写制御に深く関与しているものと推察される。従って、ヒストン脱アセチル化酵素の活性異常を是正することで抗腫瘍活性作用を発揮させることができると考えられる。

[Ras responsive elementで制御される転写の阻害剤スクリーニングによるmalolactomycinD の同定と、その作用機構解析]

前述のTSAはヒストン脱アセチル化酵素阻害活性により広範囲の遺伝子発現に影響を与え、正常細胞にも少なからず影響を及ぼすと考えられる。そこで、よりoncogenic Rasシグナルに選択的な阻害剤を探索するため、Ras responsive element(RRE)に制御される転写に対する阻害剤スクリーニング系を構築した。RREは、c-fosやマトリックス分解酵素であるMMP-1、MMP-3、MMP-9等の遺伝子の上流にあると報告されている。従つて、RREで制御される転写を阻害することで、抗腫瘍活性を期待することができる。

まず著者は、RREで制御される転写が実際にRasシグナルで活性化することを確認した。その後、RREの下流にluciferase遺伝子を挿入したベクター(pRRE-1uc)とoncogenic Ras発現ベクターを導入したMH3T3細胞、及びコントロール細胞として、プロモーターのないluciferaseベクター(pRLO-luc)とoncogenic Ras発現ベクターを導入したNIH3T3細胞を用いて、RREによる転写に対する阻害剤のスクリーニングを行い、malolactomycin D(malo-D)を同定した。Malo-DはpRRE-1uc及び、pRLO-lucの転写をそれぞれIC500.9μg/ml、11.9μg/mlで阻害した。

Malo-Dの抗腫瘍活性を評価するため、ras-transformed NIH3T3細胞の足場依存性及び非依存性増殖に対する作用を調べた。その結果malo-Dは、足場非依存性増殖をIC501.2μg/mlで抑制した。一方、足場依存性増殖に関しては、IC508.3μg/mlであった。このことから、malo-Dは正常細胞の増殖よりもRasによる足場非依存性増殖をより積極的に抑制することが示された。

次にRREをプロモーターに有する遺伝子MMP-1、MMP-9、c-fosに焦点を当ててmalo-Dの作用を探索した(Figure 3)。その結果、malo-D濃度依存的にMMP-1、MMP-9のmRNA発現レベルの低下が認められた。一方、malo-Dは、RREがない遺伝子MMP-2の発現にはほとんど影響しなかったことから、malo-DがRREをもつMMPsの発現に選択的に作用することが示唆された。興味深いことに、癌細胞の多くがMMPを強く発現しており、その活性が癌の増殖、浸潤、転移能など、いわゆる「癌の悪性度」と関係していることが確認されている。従ってmalo-DはMMP-1及びMMP-9等、Rasシグナルで誘導される遺伝子発現を阻害することでRasによる腫瘍細胞の増殖、転移、浸潤を抑制する可能性が考えられる。

一方、malo-DはRREをプロモーター内に有するc-fos遺伝子の発現には影響を与えなかった。c-fos遺伝子は、Rasシグナル経路の他にも種々の増殖シグナルによって発現が上昇することが知られており、腫瘍細胞の増殖と同様に正常細胞の増殖にも重要な役割を果たしていることが分かっている。従つて、malo-Dがc-fos遺伝子の発現に影響しないことは、malo-Dが腫瘍細胞の特質である足場非依存性増殖を抑制する一方で、正常細胞の増殖の特徴である足場依存性増殖に対してほとんど影響を与えないという現象を説明する一つのメカニズムとして考えることができる。

次にmalo-DがMMP-1、MMP-9とc-fosのmRNA発現に対して異なる作用を示したことから、これら遺伝子の発現制御に関わっていると思われるシグナル経路分子に対するmalo-Dの影響を検証した(Figure 4)。bFGFはNIH3T3細胞においてMMP-1、MMP-9、c-fosの発現を上昇させることが報告されている。ras-transformed NIH3T3細胞をbFGF刺激すると、p38 MAP kinase、JNKおよびERK1,2の活性化が観察された。同条件下、5.0μg/mlのmalo-Dを共存させると、bFGFによるp38 MAP kinase及びJNI(の活性化はコントロールの群に対しそれぞれほぼ抑制及び約30%にまで抑制された。一方bFGFによるERK1,2活性化に関しては、malo-Dによる顕著な影響は見られなかったこの結果から、p38 MAP kinase及びJNKシグナル経路は、asによる腫瘍化シグナルにおいて、特に足場非依存性増殖制御に関与する可能性が示唆された。

[まとめ]

今回、構築した2種類のRas経路阻害剤スクリーニング系を用いた探索から、実際に抗腫瘍活性物質が得られることが示された。即ち、Rasシグナル阻害能を有する物質は抗腫瘍剤として非常に有効であることが実証された。また、同定したTSAの作用機序解析から、Rasシグナル早期応答遺伝子の発現パターン変化はRasシグナル調節に重要であることが示唆され、これら遺伝子発現調節に関わるヒストン脱アセチル化酵素は、抗腫瘍剤の有効なターゲットになることを示した。更に、RRE転写の阻害活性を示した皿alo-Dが、p38 MAP kinase及びJNKシグナル経路を選択的に阻害することで、RREをプロモーターに有する遺伝子の中でもMMP-1 、MMP-9の発現を特異的に抑制し、Rasによる足場非依存性増殖を選択的に抑えることを明らかにした。このことから、malo-Dの腫瘍増殖、転移、浸潤の抑制剤としての可能性が示された。また、MMP-1、MMP9はRasによる足場非依存的増殖において重要な役割を果たしていることが示唆され、Ras腫瘍活性に対する阻害剤のターゲットと、して有効であると考えられた。今後、更にこれらの系を用いてスクリーニングを行うことで、新規Ras経路阻害剤が同定できると期待される。同時に、Ras経路阻害剤スクリーニングで同定した化合工の作用機序解析により、Rasシグナルと腫瘍悪性化メカニズムの更なる解明と、新規抗腫瘍剤ターゲットの同定が可能であり、抗腫瘍剤開発に貢献できるものと確信している。

Fignre 1 Effect of trichostatin A on ras-induced neurite outgrowth of PC12 cells. c-Ha-ras-PC12 cells were cultured for 16 h without dexamethasone or trichostatin A (a), with 1 μ M dexamethason and without trichostatin A (b), or with 1 μM dexamethasone and 80 ng ml-1 of trichostatin A (c)

Figure2E ffecotf trichostaAt ionn iuductioonf early-response.Nortbhleortnt iannga lysiosf c-fos(A);c-j(uBn) ;ancd- myc(C)

Figure 3 Effect of malolactomycin D on the expresson of Ras-inducible genes. Ras-transformed NIH3T3 cells were incubated with inalciactomycin D at indicated concentrations for 24h. Northern blot analysis of MMP-1. MMP-2. MMP-9. c-far and GAPDH mRNA were performed.

Figure 4 Effect of malclactornycin D on MAP kinase. Serum starved NIH3T3 cells were incubated with bFGF alone or in combination with various concentration of malolactomycin D for 10 min. The level of activated p3S MAP kinase, JNK and ERH1.2 were determined by Western blot analysis using phophospecific antibodies, The level of total also determined using anti-p38 MAP kinase, anti-JNK.

審査要旨 要旨を表示する

ヒト癌においてRas遺伝子の変異は最も高頻度に検出されており、細胞の腫瘍化にRasシグナル経路の活性化が重要な役割を果たしていると考えられている。本研究では、Rasシグナル経路に注目した分子標的抗腫瘍薬の開発を目指し、2種類の新規スクリーニング系を構築し、これらスクリーニングから同定した化合物の抗腫瘍活性の評価及び作用機序解析を行った。その結果、Rasシグナル阻害能を有する化合物が、実際に抗腫瘍剤として非常に有効であることを示した。また、それら化合物の作用機序解析から、Rasによる腫瘍化シグナルに関する新しい知見を見出し、それに基づいた新たな分子標的やシグナル経路を提示した。

まず、第一の探索系であるPC12神経細胞の神経突起伸長を指標としたアッセイ系による阻害剤スクリーニングから、ピストン脱アセチル化酵素として知られるtrichostatin Aが同定された。Trichostatin AのRasシグナル阻害作用機序解析において、trichostatin AがNGF刺激後一時間以内の反応に関与していることに注目し、Rasシグナルの下流におけるc-fos、c-jun、c-myc等の遺伝子発現パターンの変化がRasシグナルの抑制に重要であることを明らかにした。また、trichostatin A処理によって高度にアセチル化されたヒストンが蓄積されることを確認した。更に、trichostatin Aがras-transfbrmed NIH3T3細胞の腫瘍化形態を正常細胞と同様の形態へ変化させることを明らかにし、trichostatin AがRasによる腫瘍化作用を抑制することを示した。これらの結果から、Rasシグナルによる転写因子遺伝子発現に関与するピストン脱アセチル化酵素は、Ras腫瘍活性に対する阻害剤ターゲットとして有用であることが示唆された。

また、第二の探索系であるRas responsive element(RRE)由来の転写の阻害を指標にしたスクリーニング系は、よりRasシグナルに選択的な阻害剤を探索することを目的に構築された。Ras responsive elementを有する遺伝子は、腫瘍細胞の増殖や進展に深く関わっていることが知られており、本系は腫瘍の浸潤等に阻害作用を示すような薬剤を選択できる可能性があるスクリーニング系である。このスクリーニングの結果、RRE由来の転写を特異的に阻害するmalolactomycin Dを同定した。その作用機序解析の結果、malolactomycin DがRREをプロモーターに有する遺伝子の中でも特にマトリックス分解酵素をコードするMMP-1、MMP-9遺伝子の発現を抑制し、癌細胞特有の増殖であるRasによる足場非依存性増殖を阻害することを明らかにした。これらの結果から、MMP-1、MMP-9阻害が腫瘍増殖、転移、浸潤を抑制できる抗腫瘍剤のターゲットとして有用であることが示唆された。また、MMP-1、MMP-9の発現阻害においては、malolactomycin DがRasシグナル経路下流のp38 MAP kinase及びJNK経路を選択的に抑制していることを見出し、これらp38 MAP kinase及びJNK経路は、Rasの腫瘍化シグナルに重要である可能性を示した。このことから、Rasによって腫瘍化した細胞においては、p38 MAP kinase やJNKの活性化は知られているストレス刺激時の反応とは違う細胞反応に関与していることが示唆され、特に足場非依存性増殖等の腫瘍化シグナルに関与しているものと推測された。抗腫瘍剤開発において抗腫瘍作用の強さと正常細胞に対する毒性の軽減を両立させるという意味で、p38 MAPK/JNK経路で制御されているRasシグナル伝達経路はターゲットとして有用である可能性が本研究の結果から示唆された。

以上一連の研究から、腫瘍細胞はRasシグナルの活性化等によってピストンのアセチル化状態の異常がおき分化調節機構の破綻が起きている可能性があることが示唆され、ヒストン脱アセチル化酵素阻害剤によってピストンのアセチル化状態を回復させることにより分化異常を克服できる可能性があることを示した。

また、Rasシグナルによって腫瘍化した細胞では、通常炎症やストレス刺激時に使用されるp38 MAP kinase及びJNK経路を利用しMMP-1、MMP-9の発現を上昇させ足場非依存性増殖能を獲得している可能性があることが示された。従ってこの経路を阻害することにより腫瘍細胞の増殖をより選択的に阻害できる可能性があるものと考えられる。

腫瘍細胞と正常細胞のシグナル制御の違いを探索することは、広いtherapeutic window(safety margin)を持つ抗腫瘍剤の開発において非常に重要であるが、本研究で構築された細胞を用いたRasシグナル阻害剤スクリーニングは腫瘍細胞に特徴的なシグナルを見出す手段として有用であることを一連の結果から示している。そして、スクリーニングで同定した化合物の作用機序解析によって、より高い腫瘍選択性を出すことができる抗腫瘍剤ターゲットを同定することが可能であることを示している。

本研究で明らかにした新たな標的因子や標的シグナル経路は、新たな分子標的薬剤の開発に繋がり、より腫瘍細胞に選択的な抗腫瘍剤の創製に結びつく可能性を開くものである。実際に、本研究の後にtrichostatin Aの抗腫瘍効果及び作用機序解析に関する知見が数多く報告され、trichostatin Aの誘導体であるSAHA(suberoylanilide hydroxamic acid)は、臨床開発試験段階に至っている。また、MMP-1に関しても腫瘍との相関が非常に高いことが最近行われた患者の癌細胞の遺伝子発現解析等からも示されてきている。このように、本研究で行ってきた化合物の作用機序解析は、Ras腫瘍化シグナルの機構解明に結びつく重要な知見を提供すると同時に、抗腫瘍剤開発に有用な情報を与える価値のあるものである。また、これら標的因子や標的シグナル経路に関して、腫瘍増殖や転移などに対する作用機構を更に詳細に解析することで、腫瘍の本態に関する機構解明に重要な知見を提供するものである。よって、申請者の業績は、博士(薬学)の学位授与にふさわしいものと判断した。

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