学位論文要旨



No 217021
著者(漢字) 松脇,貴志
著者(英字)
著者(カナ) マツワキ,タカシ
標題(和) グルココルチコイドの脳機能保護作用に関する研究
標題(洋)
報告番号 217021
報告番号 乙17021
学位授与日 2008.10.03
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第17021号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西原,眞杉
 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 准教授 武内,ゆかり
 東京大学 准教授 桑原,正貴
 東京大学 准教授 山内,啓太郎
内容要旨 要旨を表示する

哺乳類では一般にストレスに暴露された場合、視床下部-下垂体-副腎軸(hypothalamus-pituitary-adrenal axis: HPA軸)が活性化し、副腎皮質からのグルココルチコイド分泌が亢進する。ストレスは生体の恒常性を乱そうとする刺激とも換言されるが、ストレス条件下での恒常性の維持、ひいては生命の維持には代謝調節作用などを有するグルココルチコイドが必須の役割を果たしており、副腎摘出などにより体内でグルココルチコイドが作用しない場合にはストレス不耐性となる。一方で、高レベルのグルココルチコイドは神経細胞における細胞死の誘起や視床下部の生殖制御機能の抑制など、中枢神経系に対してネガティブな作用をもつことが数多く報告されている。しかし、筆者らの研究室では、感染ストレスの仲介物質として生殖機能を抑制することが知られている腫瘍壊死因子(tumor necrosis factor: TNF)-・をラットに投与した場合、HPA軸の活性化の阻害により生殖機能の抑制がむしろ増強されるということが見出された。このことは、従来の考えとは逆に、ストレス時のグルココルチコイドは中枢神経系に対して保護的な作用をもつ可能性を提起している。そこで本研究においては、各種ストレス条件下におけるグルココルチコイドの脳の生殖制御機能や神経細胞の生存に対する作用とその機序を解析し、グルココルチコイドの中枢作用の生物学的意義を明らかにすることを目的とした。

哺乳類の生殖機能は視床下部-下垂体-性腺軸よって制御されているため、本研究では下垂体から放出される黄体形成ホルモン(lutenizing hormone: LH)を生殖機能の指標として解析した。LHの分泌様式には排卵を誘起する雌特有のサージ状分泌と、それ以外の性腺機能維持に働くパルス状分泌の2種類が存在する。第一章においては、TNF-α投与時の雌ラットのLH分泌に対する副腎摘出およびコルチコステロン(corticosterone: CS、げっ歯類における主要なグルココルチコイド活性物質)の補充投与の効果を検討した。その結果、TNF-αの投与により無処置ラットのLHパルスはほとんど影響を受けなかったが、副腎摘出ラットではLHパルスが有意に抑制された。この抑制はストレス負荷1時間前にCSを投与することで完全に阻害され、LHパルスは維持された。次に雌ラットの発情前期午後に見られるLH サージに対するTNF-αの効果を検討したところ、抑制が副腎摘出で増強されCSの補充投与で阻害されるという、パルスの場合と同様の結果が得られた。また、神経細胞興奮の指標であるFosタンパク質の発現を免疫染色により観察したところ、視床下部の室傍核や視索上核において、TNF-α投与による免疫陽性細胞数の増加が副腎摘出によって増強され、CS補充によって抑制された。これらの神経核には副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモンやバソプレッシンなどのLH分泌を抑制する働きをもつ神経ペプチドを産生する神経細胞が多数存在している。グルココルチコイドはストレス条件下でこれらの神経細胞の興奮を抑制し、パルス状およびサージ状の両LH分泌を維持していることが示唆された。

第二章では、前章で確認されたグルココルチコイドの生殖機能保護作用のストレス特異性の検討と、その作用機序の解明を目的とした。ストレス刺激としては感染・飢餓・拘束の3種類を用いた。感染ストレスとしてグラム陰性菌の膜成分であるリポ多糖を、飢餓ストレスとしてはグルコースの競合利用阻害剤である2-デオキシグルコースをそれぞれ投与した。拘束ストレスとしてはラットの四肢を板上で1時間緊縛した。その結果、3種類のストレス条件全てにおいて、LHパルス、サージともにストレス条件下での分泌抑制の副腎摘出による増強と、CS補充による緩和が見られた。このことから、グルココルチコイドは各種ストレス刺激に共通した生殖機能維持作用をもつ事が明らかとなった。そこで次に、その作用機序を明らかにするため、感染ストレス時に脳内で産生されLHパルス抑制効果を持つことが知られているプロスタグランジン類(prostaglandins: PGs)に着目し、ストレス条件下の副腎摘出ラットにPGsの合成阻害剤であるインドメタシンを投与した。その結果、インドメタシンは全てのストレス条件下でCSと同等のLHパルス維持作用を示した。さらに、免疫染色によって脳内でのシクロオキシゲナーゼ2(cyclooxygenase 2: COX2、PGs合成酵素)の発現を検討したところ、脳内の広範囲において全てのストレス条件下でCOX2免疫陽性細胞数の副腎摘出による増加と、CS補充による減少が確認された。以上の結果から、PGsが各種の急性ストレス刺激に共通の脳内ストレス仲介物質として生殖機能を抑制すること、またグルココルチコイドはこのPGs合成を阻害することでストレス条件下での生殖機能を維持することが示唆された。

第三章では、数あるPGサブタイプの中でどの種がLHパルス抑制を引き起こすのかを明らかにするため、各種PGsの脳室内投与実験を行なった。PGD2、PGE2、PGF2αの3種類をそれぞれ脳室内投与した。PGD2投与時にはパルス振幅の有意な増加が、PGE2投与時にはLHの一過的な分泌促進が観察され、PGF2αはLHパルスに変化をもたらさなかった。次にPGE2とPGF2αを同時に投与したところ、LHパルスの有意な抑制が見られた。また、LHサージが起きる発情前期夕方の雌ラット視床下部内におけるPGE2とPGF2αの濃度を測定したところ、PGE2は14時から16時にかけて有意ではないものの増加傾向が見られ、PGF2αは18時で有意に増加していた。さらに、発情前期の14時から16時にかけての時間帯にインドメタシンを皮下もしくは脳室内に投与されたラットでは、いずれの場合もLHサージが完全に抑制された。前章で明らかにされたストレス時に脳内で生成されてLHパルスを抑制するPGsはPGE2とPGF2αであり、これらが同時に作用した際にのみ抑制作用を示すことが示唆された。さらに、PGsはこのようにストレス時のLH分泌を抑制する一方で、LHサージの形成に不可欠であるという二面性をもつことも示唆された。サージの形成については、まずPGE2がサージを誘起し、遅れて生成されるPGF2aがPGE2と共に働くことでLHの分泌を抑制してサージを収束に向かわせるという機序が考えられた。

第二章で試みた3種のストレス刺激のうち、拘束ストレスは脳内PGsの増加を促す一方で、運動機能制御に重要な役割を果たしている中脳黒質のドーパミン(DA)ニューロンを傷害することが報告されている。そこで第四章では、拘束ストレスが中脳黒質のDAニューロンおよび運動機能に与える影響と、それらに対するグルココルチコイドの作用を検討した。中脳黒質DAニューロンの損傷およびそれによる運動失調はパーキンソン病の主徴としてもよく知られており、本研究においても運動機能の評価にはパーキンソン病モデル動物の評価系として汎用されているPole testを用いた。実験には無処置もしくは副腎摘出を施したC57BL/6J雄マウスを用いた。2時間の拘束を中1日挟んで2回負荷し、初回の負荷前、2回目の負荷翌日と1週間後の計3回Pole testを行った。無ストレス条件下では無処置群と副腎摘出群との間に運動機能の差は見られなかったが、拘束ストレスにより副腎摘出群では無処置群に比べてより重篤な運動機能の低下が観察された。副腎摘出群に拘束開始と同時にCSあるいはインドメタシンを投与すると、運動機能の低下が起こらなかった。さらに、最後のPole test翌日に採取した脳の中脳黒質について、DAニューロンの指標としてチロシン水酸化酵素(tyrosine hydroxylase: TH)の免疫染色を行なった。その結果、拘束非負荷群の無処置および副腎摘出マウスの間にはTH免疫陽性細胞数に有意な差は見られなかった。一方、拘束ストレスは無処置マウスに対してはTH免疫陽性細胞数に有意な影響は及ぼさなかったが、副腎摘出マウスではその顕著な減少をもたらした。拘束ストレスのこのような作用は、CSあるいはインドメタシンの前処置により阻害された。本章の結果から、拘束ストレスはPGsを介して中脳黒質DAニューロンを傷害して運動機能を低下させること、またグルココルチコイドはこのDAニューロンの傷害を阻害することにより拘束ストレスによる運動機能の低下を緩和することが示唆された。

本研究により、様々なストレス刺激は神経性あるいは液性の因子を介して脳の広範な部位でCOX2の発現を誘導し、このCOX2により合成されたPGsが多くのストレスに共通するストレス仲介物質となっていることが明らかとなった。PGsは視床下部のLH分泌に関わる神経機能を抑制することや中脳黒質のDAニューロンを傷害することにより、生殖機能や運動機能を低下させることが示された。一方で、ストレス刺激によりHPA軸の活性化が起こり、大量に分泌されたグルココルチコイドはCOX2の発現を抑制することにより脳の機能や神経細胞の生存を維持していることが明らかとなった。従来、中枢神経系に対してネガティブな作用をもつと考えられていたグルココルチコイドであるが、その生物学的作用の本質は、ストレス時の脳機能の保護にあると考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

哺乳類では一般にストレスに暴露された場合、副腎皮質からのグルココルチコイド分泌が亢進して体内の恒常性の維持、ひいては生命の維持に必須の役割を果たしている。一方で、高レベルのグルココルチコイドは神経細胞死の誘起や視床下部機能の抑制など、中枢神経系に対して負の作用をもつことが数多く報告されている。しかし、筆者らの研究室では従来の研究により、ストレス時のグルココルチコイドは中枢神経系に対して保護的な作用をもつ可能性を提起している。そこで本研究においては、ストレス条件下におけるグルココルチコイドの脳の生殖制御機能や神経細胞の生存に対する作用とその機序を解析し、グルココルチコイドの中枢作用の生物学的意義を明らかにすることを目的とした。

第一章においては、腫瘍壊死因子(TNF)-α投与の黄体形成ホルモン(LH)分泌に対する副腎摘出およびコルチコステロン(CS、げっ歯類におけるグルココルチコイド活性物質)投与の効果を検討した。TNF-αにより無処置ラットのLH分泌はほとんど影響を受けなかったが、副腎摘出ラットではLH分泌が有意に抑制された。この抑制はCSを投与することで阻害された。神経興奮の指標であるFosタンパク質の発現を検討したところ、室傍核や視索上核においてTNF-αによるFos免疫陽性細胞数の増加が副腎摘出によって増強され、CS補充によって抑制された。グルココルチコイドはストレス条件下でこれらの神経細胞の興奮を抑制し、LH分泌を維持していることが示唆された。

第二章では、グルココルチコイドの作用のストレス特異性と、その機序の解明を目的とした。ストレス刺激としては感染、飢餓、拘束の3種類を用いた。その結果、全てのストレス条件下においてLH分泌抑制の副腎摘出による増強とCS補充による緩和が見られた。また、プロスタグランジン類(PGs)の合成阻害剤であるインドメタシンを投与した結果、全てのストレス条件下でCSと同等のLH分泌維持作用が見られた。さらに、脳内の広範囲において全てのストレス条件下でシクロオキシゲナーゼ2(COX2、PGs合成酵素)免疫陽性細胞数の副腎摘出による増加と、CS補充による減少が確認された。以上、PGsが各種のストレス刺激に共通の脳内ストレス仲介物質となること、またグルココルチコイドはPGs合成を阻害することで生殖機能を維持することが示唆された。

第三章では、PGサブタイプの中でどの種がLH分泌抑制を引き起こすのかを明らかにするため、PGD2、PGE2、PGF2αの脳室内投与を行なった。その結果、PGD2はLHパルス振幅の増大を、PGE2はLHの一過的な分泌促進を誘起し、PGF2αはLH分泌に変化をもたらさなかった。次にPGE2とPGF2αを同時に投与したところ、LH分泌の有意な抑制が見られた。これらの結果より、ストレス時にLH分泌を抑制するのはPGE2とPGF2αであり、これらが同時に作用した場合にのみ抑制作用を示すことが示唆された。

第四章では、拘束ストレスが中脳黒質ドーパミン(DA)ニューロンおよび運動機能に与える影響と、それらに対するグルココルチコイドの作用を検討した。実験には無処置もしくは副腎摘出した雄マウスを用いた。拘束ストレスにより、副腎摘出群では無処置群よりも重篤な運動機能の低下が観察されたが、CSあるいはインドメタシンにより運動機能の低下は緩和された。DAニューロンの指標としてチロシン水酸化酵素(TH)の免疫染色を行なった結果、拘束非負荷群の無処置および副腎摘出マウスの間にはTH免疫陽性細胞数に差は見られなかった。拘束ストレスは無処置マウスに対してはTH免疫陽性細胞数に影響を及ぼさなかったが、副腎摘出マウスでは顕著な減少をもたらした。このような変化は、CSあるいはインドメタシンの前処置により阻害された。以上、拘束ストレスはPGsを介してDAニューロンを傷害し運動機能を低下させること、またグルココルチコイドはそれを阻害して拘束ストレスによる運動機能の低下を緩和することが示唆された。

本研究により、様々なストレス刺激は脳の広範な部位でCOX2の発現を誘導し、PGsがストレス仲介物質となっていることが明らかとなった。一方で、ストレス刺激により大量に分泌されたグルココルチコイドは、COX2の発現を抑制することにより脳の機能や神経細胞の生存を維持していることが示された。本研究は、従来、中枢神経系に対して負の作用をもつと考えられていたグルココルチコイドの生物学的作用の本質がストレス時の脳機能の保護にあることを示したものであり、グルココルチコイドの臨床応用にも新たな示唆を与えるもので、学術的、応用的意義は少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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