学位論文要旨



No 217343
著者(漢字) 橘,伸彦
著者(英字)
著者(カナ) タチバナ,ノブヒコ
標題(和) 分離大豆タンパク質を摂取したラットの肝臓での網羅的遺伝子発現解析
標題(洋)
報告番号 217343
報告番号 乙17343
学位授与日 2010.04.08
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17343号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 教授 佐藤,隆一郎
 東京大学 特任教授 加藤,久典
 東京大学 特任准教授 中井,雄治
 東京大学 准教授 三坂,巧
内容要旨 要旨を表示する

分離大豆タンパク質(soy protein isolate, SPI)をはじめとする植物性タンパク質は、動物性タンパク質に比べて血中コレステロール低下能に優れること、とりわけSPIには動脈硬化予防効果のあることなどが報告されて以降、数多くの研究が報告されている。我々は、SPI中に微量成分として存在するイソフラボンやサポニンなどは単独での摂食試験では降コレステロール作用が見られるもののSPI共存等ではその作用は弱く、SPIのタンパク質そのものが血中コレステロール低下の主要因であることなどを明らかにしてきた。しかしながら、食事タンパク質源としてのSPIの摂取が生体内での様々な代謝に与える変動を全て捉えることは従来、非常に困難であった。

1990年代初頭に、遺伝子発現を一度に網羅的に解析するDNA microarrayの手法が開発され、生体内での代謝変動の全体像を捕らえることが可能となった。そこで我々は、SPI摂取が生体に及ぼす影響について(1)その長期摂取がどのような効果をもたらすのか、(2)摂取開始時期の違いが代謝機能発現に差をもたらすのかの2点についてDNA microarrayを用いて検討することにした。タンパク質摂取による生体内変化を捉えるために、栄養素などの主要な代謝器官である肝臓をDNA miroarrayのターゲットとした。さらに、SPI摂取によって報告されている血中中性脂肪低下効果がSPIの主要構成成分であるβ-コングリシニン(β-CG)が担っていることが解明されていることから、その中性脂肪低下効果の作用機序についても同様に検証した。

はじめに、我々は乳カゼインを対照として、SPIを比較的長期間(8週間)摂取させることにした。Affymetrix社のDNA chipを用いて遺伝子発現の網羅的解析を行った結果、搭載されている8740遺伝子中120遺伝子で対照群と有意な差を得た。それらは、アミノ酸代謝・エネルギー代謝に加え、抗酸化作用・脂肪酸代謝・ステロイド代謝・シグナル伝達など約10カテゴリーにわたり変化を示した。特にコレステロール/ステロイド代謝では、SPI摂取により非律速系の酵素遺伝子群が有意に発現増加した。これらの結果から、SPI摂取によって各代謝の恒常性がシフトし、律速的制御を要しない状態へ変化していることを推定させた。

SPI短期摂食試験で得られた発現結果の中には、脂肪酸合成抑制の制御因子であるステロール制御領域結合タンパク質1(sterol regulatory element binding protein 1、SREBP1)の発現低下など、血中中性脂肪低下に関わる遺伝子のダウンレギュレーションが認められた。SPIを構成するタンパク質にはグリシニンとβ-CGのいわゆる種子貯蔵タンパク質と、他にリン脂質会合性タンパク質(LP)が報告されている。このうちβ-CGには血中中性脂肪を低下する作用が知られており、肝臓中の脂肪酸合成酵素活性が低下することが見出されていたが、その詳細な作用メカニズムは明らかにされていない。我々は短期摂食試験結果によって得られたSREBP1が関与すると考え、またその制御因子の一つであるインスリンの及ぼす影響も含めて検討を行った。β-CG摂取期間中に行ったoral glucose tolerance test(OGTT)とinsulin tolerance test(ITT)の結果から、β-CG摂取ではインスリン応答性が高く、かつ低インスリン量で血糖値を低下させていた。肝臓におけるSREBP1・脂肪酸合成酵素の発現は対照群に比べて低く、脂肪酸合成抑制や糖代謝改善作用を有するアディポネクチンはβ-CG群で有意に高い値を示した。また血中脂質分画解析より肝臓から分泌される超低密度リポタンパク質画分に含まれる中性脂肪がβ-CG群で有意に減少していた。すなわち、インスリン感受性が改善されることで過度なインスリンの分泌が抑制され、SREBP1を介した脂肪酸合成抑制機構が作動する可能性を強く支持した。

以上のことから、SPI摂取の肝臓に与える影響をDNA microarrayを用いて網羅的に解析することで、肝臓の有する一部の代謝機能だけではなく全体にわたり影響を及ぼしていること、そして新たにSPI、とくにβ-CGが中性脂肪低下メカニズムを有することが判明した。今後、他組織での網羅的解析や他条件における検討を加えていくことで、SPIの更なる新機能発掘が可能になると期待される。

矢印(ボールド)で、赤は対照群に比べてSPI摂取で有意に発現が増加した遺伝子を、青は有意に減少した遺伝子を示す。矢印(中抜き)で、赤はSPI摂取で量が有意に増加した物質を、青は有意に減少した物質を示す。<NUCLEUS>からの黒中抜き矢印は、SPI摂取が発現調節を介して影響する状態を表現した。物質の移動・合成・異化の流れを示す線表示で、点線はSPI摂取によって減少される箇所を、太線は増加する箇所を示した。

CYP7a1; cholesterol 7α-hydroxylase, Dhcr7; 7-dehydrocholesterol reductase, Fasn; fatty acid synthase, G6pc; glucose-6-phosphatase, HMG-CoAr; HMG-CoA reductase, Me1; malic enzyme 1, Pdha1; pyruvate dehydrogenase, Pklr; pyruvate kinase, Scrb1; scavenger receptor class B, SCD1; stearoyl-CoA desaturase 1, Sqle; squalene epoxidase, SREBP1; sterol regulatory element binding protein 1, TG; triglyceride.

図1.短期SPI摂食試験における肝臓での代謝の概略

審査要旨 要旨を表示する

大豆は、日本人が古くから摂取してきた経験のある食品素材である。大豆から抽出した分離大豆タンパク質(SPI)にはその栄養学的優位性(アミノ酸スコア100)に加え血中脂質低下作用などの生理機能面での有効性が認められているが、この作用機序およびその他の生理作用については不明な部分も多い。本論文は、生理機能解析の先端技術である網羅的遺伝子発現解析を用いて、SPIの生理機能を捉えようと試みた。

本論文では、網羅的遺伝子発現解析法であるDNAマイクロアレイを用いてのSPI摂取が生体に与える影響を推察するにあたり、代謝機能の主たる組織である肝臓をターゲットとして検討した。雄性ラットにAIN-93G組成に基づくSPI食または対照としてのカゼイン食を8週間摂食させた結果、DNAチップにアレイされた8740遺伝子のうち、1.4%の遺伝子に有意な発現変動が認められた。これらには抗酸化・エネルギー代謝を含む様々な代謝系での変動が認められ、特にステロイド合成系亢進と脂肪酸代謝系抑制に認められた代謝系全体として変動することを明らかにした。次に、SPIの摂食期間を2週間と短くした場合に起る遺伝子変動を捉えることを目的とし、かつ幼少期または成熟期という週齢が異なるラットにSPIを摂食させた条件において、どのような遺伝子群が変動するかマイクロアレイ解析によって捉えることとした。週齢差は摂食量や終体重において有意な差をもたらしたが、肝臓での遺伝子発現は週齢に関係なく摂取タンパク質の違いにより2つのクラスターを形成し、SPI摂取による肝臓に与えた影響を約4.5%の有意な遺伝子発現変動として捉えることができた。それらには8週間摂食のように各種脂肪酸代謝系とステロイド代謝系の変動を伴うものであったが、特に各系内律速酵素の発現に有意差をもたらすことを明らかにした。特にSPIによる血中コレステロール改善作用は、胆汁酸排泄促進に伴う肝臓でのコレステロールプール減少に対する防御応答で、肝臓でのステロイド生合成系亢進に加え、血中からのコレステロール取り込み亢進が血中コレステロール濃度を低下させている可能性を見出した。

このように本論文では、SPIが肝臓における様々な代謝変動を誘引することを明確にした。このような生理機能を示すSPIは、いくつかのサブフラクションから構成されている。そのうち、β-コングリシニン画分(β-CG)には中性脂肪低下作用が報告されている。本論文ではβ-CGによるこれら作用発揮メカニズムを明らかにするために、インスリン耐性試験(ITT)などを取り入れ検討を行っている。β-CG摂取によって血中アディポネクチン産生の増加とインスリン感受性が増加されることを見出し、血中中性脂肪の中でも超低密度リポタンパク質画分中の中性脂肪がβ-CG摂取で低下することを明らかにした。そこで肝臓での脂肪合成に関与する遺伝子発現を検討したところ、SPIのマイクロアレイ短期において認められた脂肪合成を担う制御因子の発現低下をβ-CG摂取においても確認した。よって、β-CGの肝臓での脂肪合成抑制が血中中性脂肪低下作用の一部を担っていることを明らかにした。

以上のことから、DNAマイクロアレイを用いた網羅的解析によってSPIによる代謝変動を捉えるとともに、それより得られた情報からSPI構成画分の生理機能分担を明らかにすることができた。今後、肝臓とは異なる組織での網羅的遺伝子発現解析によって、SPIおよびその構成画分の有する生理作用を明らかにできると思われる。

よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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