学位論文要旨



No 217516
著者(漢字) 松本,洋太郎
著者(英字)
著者(カナ) マツモト,ヨウタロウ
標題(和) 理論計算支援によるアート錯体のデザインと反応設計
標題(洋)
報告番号 217516
報告番号 乙17516
学位授与日 2011.05.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第17516号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 内山,真伸
 東京大学 教授 金井,求
 東京大学 教授 井上,将行
 東京大学 准教授 松永,茂樹
 東京大学 准教授 横島,聡
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

従来の分子設計・新反応開拓研究は、研究者の仮説あるいは膨大な数にのぼる可能性の組み合わせ実験が必要とされてきた。その結果、有機合成化学は実用的には充実してきているものの、理論的には混沌としている感が否めない。どんな元素を選ぶべきか、どんな環境を設計・検討するべきか、理論的一般化および予測が必要とされている。

目的の反応を進行させるためには、理論的には反応活性化エネルギーの予測と制御が必要となる。遷移状態を確認できる手法は、現在のところ理論計算しか存在しない。本研究では、計算化学ならびに物理化学的手法を用い錯体の反応や分子機能を予測・設計しようというものであり、これまでの研究者の勘と経験に頼っていた反応開発を少し違う方向から考えてみようというものである。計算化学、物理化学、そして実験化学の融合は、今後の大きな課題である。

アート錯体の特徴

本研究の題材であるアート錯体とは、ルイス酸性を有する有機金属とルイス塩基性を有する有機金属とで形成されるバイメタル化合物である。2つの異なる金属からなるアート錯体は、個々の金属試薬いずれにもない特有の反応性が見いだされてきており、その構成成分である配位子(R, R')、中心金属(M1)、カウンター金属(M2)の設計によって様々な反応性および機能の調節が可能と考えられる。これまでに、様々なアート錯体が合成され、反応開発が行われてきた。しかしながら、個々の反応おける各々の配位子や金属の役割、反応機構などはほとんど明らかになっていなかった。そこで本研究では、反応の多様性が期待できるアート錯体について、計算化学および物理化学を駆使することで反応の起源を明らかにし、錯体のデザインへ応用することを目的とし研究をスタートさせた。

第一章:アミド型亜鉛アート錯体の反応機構解明

DoM (Directed ortho Metalation) は芳香環上の官能基のオルト位を選択的にメタル化する反応で、医薬品や機能性分子をはじめとする合成化学において重要な反応の一つである。しかしながら、通常はアルキルリチウムなどの強塩基を用いるため、官能基自身を壊してしまったり、生成した芳香族メタル化体が自己縮合してしまうなど、限られた基質にしか適用できず、克服すべき点が残されていた。一方、東京大学大学院薬学系研究科の内山らはアート錯体の特長を生かし、アミド型亜鉛アート錯体をデザイン・報告した。大きな特徴は、官能基を損なわずに DoM を行う点であり、アルキルリチウム等ではこのような化学選択性は成し得ない。しかしながら、錯体の詳細な構造や、なぜアミド型亜鉛アート錯体は DoM を選択的に進行させるのか、理論的には不明な点が多く残されていた。

第一章では、これまでほとんどわかっていなかったハイブリッド型であるアミド型亜鉛アート錯体について、どのような構造を取っているのか、どの配位子が反応し、どのような反応機構なのか、各々の金属はどのように働いているのか、そしてアート錯体とアルキルリチウムとの反応機構の違いおよび化学選択性の起源とは何か、といった疑問に対し、理論計算と分光学を駆使することでこれらの問題に挑んだ。その結果、いくつかの知見を得ることができた。

まず、アミド型亜鉛アート錯体について、理論計算(気相)、X 線結晶構造解析(固相)、多核 NMR(液相)の面から検証し、非対称な構造をとっていることを明らかにした。

次に、構造解析で得た知見を基に錯体をモデル化し、アニソールに対する DoM 反応の理論解析を行った。その結果、配位子の元素の違い(N base vs C base)による転移能の違いを明らかにした。これは、反応点の角度や軌道の方向性など、配位子の元素によって遷移構造が大きく異なっていることが原因であった。

化学選択性については、アルキルリチウムの場合、DoM よりも1,2―付加が大きく優先し、基質の官能基に対して2つの Li がダブルアクチベーション型の遷移構造をとるために活性化エネルギーの劇的な減少が起こる一方で、アート錯体の場合、Zn のルイス酸性がほとんど残っておらず、ダブルアクチベーション型をとることができないために DoM が優先することが化学選択性の起源であることを明らかにした。

次に、得られた知見を基に、新たなアルミニウムアート錯体を設計・合成し、iBu3Al(TMP)Li がこれまでにない高い化学選択性と、特異な反応性を示すことが判明し、芳香族アルミニウム化合物の化学に新たな可能性を示すことができた。

また iBu3Al(TMP)Li による DoM 反応をNMR で追跡した。アルキルリチウムから別途調製したメタル化体と、iBu3Al(TMP)Li の DoM による直接メタル化体のケミカルシフトが一致し、本反応が直接水素を引き抜きながらアルミニウム化していることを確認できた。

第二章:ダミー配位子の解析

次に、反応に関与しないと考えられてきたダミー配位子に着目した。亜鉛アート錯体によるベンザイン生成機構について高精度量子化学計算を行い、それまで具体的にどこにどのように働いているのかわからなかったダミー配位子の嵩高さについて、理論的な解釈を行った。その結果、ダミー配位子は反応の選択性や制御に積極的に関与していることを明らかにした。

そして、得られた知見を基に tBu 基の効果に着目し、tBu4ZnLi2 をデザイン、合成したところ、完全水中でのアニオン重合や、活性プロトン存在下におけるハロゲンーメタル交換反応といったこれまでにない機能・反応性をもった錯体であることが明らかとなった。水中でのアニオン重合は初めての例であり、複数の反応点が存在する基質においても1,4-付加のみが進行した。したがって、本錯体によってこれまで成し得なかった機能性ポリマーが合成できる可能性がある。また、本来ならば活性プロトン部位の保護が必要である基質において高選択的にハロゲンー亜鉛交換反応を進行させた例は初めてである。

さらに、理論計算、ESI-MS、多核 NMR による tBu4ZnLi2 の構造解析から、対称性の高い構造であり、非常に嵩高い tBu 基に覆われた構造であることが判明した。反応性および構造解析の結果から、本錯体は塩基性がほとんどない求核試薬であると考えられ、試薬の設計次第では、本来水中では使用できないと考えられてきた有機金属試薬が水中で十分活躍できる可能性を示唆している。

第三章:中心金属の選択による反応形態の違い

これまで中心金属は亜鉛や典型金属に固定してきたが、遷移金属にすると何が起こるか、中心金属の選択がどのように影響するかに着目した。

アート錯体の反応形態の見方を変えると、錯体のアニオンを解消することが反応の駆動力と捉えることができる。典型金属では酸化数は固定されているためリガンドトランスファーしか起こらない。しかし、遷移金属では電子移動によってアニオンを解消できるのではないかと考えた。

そこで、理論と実験の両面から検証を行った。その結果、遷移金属を中心金属とするアート錯体(Me3FeLi, Me3CoLi, Me3MnLi)が、配位子転移反応を起こさず、電子移動反応を進行させることを見出した。また、in situ FTIRを用いて直接電子移動を観測し、電気化学的手法および計算化学的手法を用いて錯体の電子移動能の活性化を確認した。

さらに、系内に再還元系を構築することで、電子移動反応が触媒的に進行することを見出し、様々な反応に適用可能なことを明らかにした。

結語

これまでアート錯体の実験化学先攻で行われたものを理論的に解明・解釈して、新しい錯体設計の指針を拓くことができた。そして得られた知見を基に、効率的に新しい錯体や反応をデザインし、実際に新しい錯体や反応をいくつか提示することができた。時には計算化学を用いて目に見えない3次元構造や遷移状態を予測あるいは理論的な解釈をし、分光学や実験化学と組み合わせる、これらのバランスが反応開発に有用であることを示すことができた。

審査要旨 要旨を表示する

松本洋太郎は「理論計算支援によるアート錯体のデザインと反応設計」と題し、以下の研究を行った。

有機金属錯体を用いる有機反応は、現代有機化学の中核であり、今日までに多種多様な金属試薬が開発されてきた。しかしながら、多くの金属試薬の例があるにも関わらずそれらを系統的に理解するような理論は十分とはいえず、理論的な金属試薬の設計と、効率的な有機反応の開発力球められている。このような要求のためには実験化学だけでなく、理論化学の相補的なアプローチが重要になってきている。

アート錯体は、2つの金属と配位子の選択で様々な機能・反応性を調節可能な特長をもっバイメタルな有機金属化合物である(Figure1)。これまで様々なアート錯体が合成され、多くの反応が開発されてきたが、これらは実験化学が主導であったため、理論的には混沌としている感は否めなかった。また、アート錯体は、一般の有機金属試薬と同様、活性種の多くは空気中で不安定な有機金属塩基であり、試薬の扱いに熟練を要するため、真の構造や反応機構について明らかにするのが課題であった。

このような認識のもと松本洋太郎は、計算化学をアート錯体に応用した。すなわち、これまでアート錯体の実験化学先攻で行われたものを理論的に解明・解釈して、新しい錯体設計の指針を拓いた。そして得られた知見を基に、実際に効率的に新しい錯体や反応開発を行った。

第一章では、これまでほとんど明らかにされていなかったハイブリッド型であるアミド型亜鉛アート錯体tBu2Zn(TMP)Liに着目した。本錯体は、アルキルリチウム等では不可能な基質に対しても化学選択的なDoM(Directed ortho Metalation)を進行させることが実験化学的に明らかにされていたが、反応機構や化学選択性の起源など、未知の部分が多かった。その理由のひとつとして、ハイブリッド型の錯体については、理論解析を行う上で、構造解析をどのようにやっていくかが課題であった。そこで松本洋太郎は様々な条件で低温・多核NMR解析を可能にする測定手法の開発を行い、溶液構造を明らかにした。また、計算化学による最適構造の推定、X線結晶構造解析から錯体構造を決定した(Figure2)。

次に、明らかになった構造をもとにDoMの反応機構解析を行い、配位子の元素の違いによって反応点および軌道の方向性が違うことを明らかにした(Figttre3)。また、中心金属のルイス酸性がないことが化学選択性の起源であることを突き止めた(Figure4)。

さらに松本洋太郎は、得られた知見を基に新たな錯体をデザインし、これまでにない高い選択性、特異な反応性を持つアミド型アルミニウムアート錯体iBu3Al(TMP)Liを提示することができた。また、NMRによる反応追跡により、本錯体が直接芳香環をアルミニウム化していることを検証した(Figure5)。

第二章ではアミド型亜鉛アート錯体のダミー配位子の効果について理論的な解釈を試みた。その結果、一見反応に関与しないと思われていたダミー配位子は、実は反応の選択性に大きく関与していることが判明した。そして、配位子の嵩高さの効果を利用した亜鉛ア・一ト錯体tBu4ZnLi2を設計・開発し、完全水中におけるアニオン重合や活性プロトン存在下におけるハロゲンーメタル交換反応を実現した。

また、tBu4ZnLi2にっいて計算、質量分析、NMRを用いた詳細な解析によって構造決定を行い、その特異な反応性の起源に迫った(Figure6)。さらに、3配位型(tBu3ZnLi)が存在しない可能性を強く示唆した。

第三章では中心金属の選択による反応形態の違いに着目し、理論と実験の両面から検証を行った。FT-IR(Figure7)や電気化学測定(Figure8)、軌道エネルギー計算、そして実験化学の面から、遷移金属を中心金属とするアート錯体(Me3FeLi, Me3CoLi, Me3MnLi)が電子移動反応を進行させることを見いだした。さらには、電子移動反応の触媒化に成功し、様々な触媒的電子移動反応に展開することができた(Figure9)。

以上のように松本洋太郎は、アート錯体について、計算化学、物理化学、実験化学を駆使することでその構造や反応機構を解明し、アート錯体の設計指針を拓いた。そして得られた知見を基に、新しい錯体や反応をデザインし、実際に新しい錯体や反応の開発を効率的に行った。本研究を通して、遷移構造や活性化エネルギー、軌道解析といった理論的な視点から本質を解明し、統一的な見方や法則性を理解するという点で、理論的な反応開発への方法論を提示した。

本研究の成果は有機化学の基礎分野に有意に貢献するものであり、博士(薬学)の学位を授与するに値するものと認められる。

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