学位論文要旨



No 122794
著者(漢字) 田中,冬彦
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,フユヒコ
標題(和) 古典および量子ベイズ予測への幾何学的アプローチ
標題(洋) Geometrical Approach to Classical and Quantum Bayesian Prediction
報告番号 122794
報告番号 甲22794
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(情報理工学)
学位記番号 博情第124号
研究科 情報理工学系研究科
専攻 数理情報学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 竹村,彰通
 東京大学 教授 杉原,正顯
 東京大学 助教授 駒木,文保
 東京大学 助教授 津村,幸治
 東京大学 講師 大石,泰章
 電気通信大学 助教授 長岡,浩司
内容要旨 要旨を表示する

 独立同一分布での古典ベイズ予測の手法は広く知られており,理論的な研究のみならず応用も多い.一方で,時系列データのような確率過程に従うモデルの場合には状況ががらりと変わり,理論的な取り扱いが難しくなる.しかしながら,未知の確率過程が定常Gauss過程と仮定できる場合には,ベイズ予測の問題を未知のスペクトル密度の推定に帰着できる.予測とはある意味,確率分布そのものの推定とみなせるので,独立同一分布での予測理論の結果は,未知スペクトル密度の推定にも適用できることが期待される.本論文の前半では,このことを念頭において,ARMA(Autoregressive moving average)モデルの場合に無情報事前分布に基づいた予測手法について幾何学的手法を用いて調べた.

 ベイズ法では無情報事前分布をどう選ぶかという問題が常に議論される.一般には無情報事前分布としてFisher情報から決まるJeffreys事前分布が使われるが本論文では優調和事前分布を提案する.もし,優調和事前分布が存在すれば,優調和事前分布に基づいたベイズスペクトル密度が,Jeffreys事前分布に基づいた推定量よりも漸近的に優越することが本研究で示された.この結果はKomakiによる独立同一分布での結果の拡張になっている.

 Komakiが指摘したように,優調和事前分布の存在のための十分条件は注目するパラメトリックモデルをモデル多様体としてみたときに断面曲率が非正であることである.断面曲率はモデルのFisher情報から計算される量である.したがって,この方向からまずAR(Autoregressive)モデル多様体上に優調和事前分布が存在するかどうかを断面曲率の符号評価によって検証した.その結果,2次のAR過程であれば優調和事前分布が存在することが示された.この結果を受けて本研究ではさらに優調和事前分布の具体形を見つけ出し,数値実験によって優調和事前分布に基づいた推定がJeffreys事前分布に基づいた推定よりも優れていることを確認した.

 さて,MA(Moving average)モデル多様体の場合には,Fisher計量がARモデル多様体と同様になるため,適切なパラメータ変換のもとで同じ結果が得られる.そこで次なるステップとして我々はARMA過程の幾何学を調べた.応用上有意義な結果はまだ見つかっていないが,ARMA(1,1)モデル多様体は面白い幾何学的な性質をもつことが示された.このモデル多様体は測地的に完備でなく,分散パラメータを固定してしまうと不変体積要素が可積分,言い換えるとJeffreys事前分布がプロパーになってしまう.この結果はAR(2)(MA(2))モデル多様体と非常に対照的である.

 本論文の後半では量子系でのベイズ予測の適用が述べられる.量子統計は,すでに量子情報や量子光学といった分野では必須のツールとして認識されつつあるが,古典統計での重要な結果の幾つかは適切な修正を行うことで拡張されている.しかしながら,古典統計全体は広い分野であり,量子系への拡張という意味でもまだまだ残されている課題が多い.ベイズ予測の方法もそのような手付かずの分野の一つに入ると思われる.

 そこで,本研究では量子系でのベイズ予測を定式化するところから始めた.まず,量子系では密度作用素が確率分布の役割を果たすことに着目して,量子予測をパラメトリックモデルに含まれる真の密度作用素を推定する問題と考える.損失関数を相対エントロピーにとる時,予測密度作用素の中でベイズ予測密度作用素が平均リスクを最小化することが示された.この結果は,古典ベイズ予測で有名なAitchisonの結果の量子系への拡張である.同様のアイディアで,より広い損失関数のクラス,量子αダイバージェンスのもとでは一般化ベイズ予測密度作用素がベストであることも示される.

 応用として,量子Gauss状態の再構成(reconstruction)の問題を取り扱う.D'Ariano et alによって,パラメータの最尤推定に基づく手法が提案されている.しかしながら,予測の観点からは先に示した結果によりベイズ予測密度作用素の方が優れている.このことを直接的な計算によって平均リスクを比較することで確認した.特に,量子Gaussモデルの場合には対称性が高いため,量子Fisher情報の任意性によらず一意にJeffreys事前分布を定めることができる.このJeffreys事前分布を無情報事前分布とみなしてベイズ予測密度作用素の計算も行った.

 本論文の最後では,量子Gaussモデルの幾何学的性質について議論する.一般に,量子系でのFisher情報は,行列の非可換性のために古典系のFisher情報から一意には拡張されず任意性が残る.ここでは,KMB(Kubo-Mori-Bogoliubov)Fisher情報を量子Gaussモデルのリーマン計量とみなして微分幾何学的な量を陽に求めた.驚くべきことに,古典Gaussモデルでの特徴の一つであるスケール不変性が,量子Gaussモデルでは破れていた.プランク定数を0に近づける古典極限をとると量子相対エントロピーが古典的な相対エントロピーに一致することも示された.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は古典的な統計理論および最近急速に進展を見せている量子統計理論の二つの理論的な枠組において,幾何学的アプローチを用いることによりベイズ予測理論を展開している.前半の古典的な統計理論に関する部分では,ガウス型の定常時系列データのベイズ予測問題をとりあげ,幾何学的な手法を用いて性能のよい事前分布の構成法を示している.また後半の量子統計理論に関する部分では,量子系のベイズ予測を新たに定式化し,量子ガウス状態族の予測問題や量子ガウスモデルの幾何学的な構造を研究している.それぞれの部分において,多くのオリジナルな結果を導いており,論文は英文で130ページ以上の充実したものとなっている.

古典的な統計理論においては,独立同一分布のもとでのベイズ予測は広く知られており詳しく調べられているが,時系列データでは観測値は独立ではなく,確率過程として扱う必要がある.このような場合,理論的な取扱いははるかに難しくなるが,注目している確率過程が定常ガウス過程に従う場合には,未知のスペクトル密度を推定する問題に帰着できる.このために,独立同一分布におけるベイズ予測の理論的な結果を定常ガウス過程にしたがうデータの解析に適用できると期待される.前半ではこのような問題意識にもとづき,独立同一分布のもとでのベイズ予測に関する諸結果を定常ガウス過程の場合に拡張することに成功している.後半の量子系における予測の問題に関しては,与えられた量子系の状態を,測定装置を固定した状況で精密に推定するという問題は状態再構成として古くから知られており,近年では実験技術の進歩とともに量子情報の視点からも多くの物理学者の興味を引いていた.本論文ではこのような問題設定において,古典的なベイズ予測の諸結果を拡張し一般化することに成功している.以下,論文の各章の内容を要約する.

まず第2章では予備的な内容として,将来の観測値の確率分布を推定するという立場から予測の基本的な概念について説明し,ベイズの枠組みで最適な予測方法を紹介している.特にパラメータの事前情報が無い場合には,無情報事前分布としてフィッシャー情報行列に基くジェフリーズ事前分布がしばしば利用されることを述べている.さらに,定常ガウス過程の中でも基本的な自己回帰過程(AR過程)や自己回帰移動平均過程(ARMA過程)のフィッシャー情報行列について説明している.

第3章では,スペクトル密度を微分幾何学的な量,つまり座標系に依存しない量で漸近展開することでジェフリーズ事前分布の代わりに優調和事前分布を用いた予測方法が優れていることを示している.

第4章では微分幾何学的な性質を詳しく調べることで2次のAR過程では優調和事前分布が構成できる事を示し,第5章では2次のAR過程で実際に数値実験を行い,第3章で得られた理論を確認している.また,一般のAR過程でも優調和事前分布の明示的な形を導出している.

第6章では,ARMA過程のなすモデル多様体の微分幾何学的な構造を調べ,ARモデル多様体との幾何学の違いを指摘している.

続いて,論文の後半では量子系のベイズ予測を取り扱っている.

第7章では量子統計の歴史を概観し,基本的な概念について叙述している.密度作用素の推定では,データ数が少ない場合に単純にパラメータを標本平均に置き換えてしまうと,統計的な誤差のために行列自体が負の固有値を持つという問題点があった.この問題を回避するためのアドホックな手法は幾つか提案されていたが,第8章では密度作用素の推定問題をベイズ予測の枠組みでとらえ,最適な推定方法がベイズ予測密度作用素になることを示している.

第9章では損失関数をさらに一般のクラスに拡張して同様の結果を導き具体的な計算例を与えている.

第10章では状態再構成問題の中でも,量子光学でしばしばとりあげられるガウス状態族に関する予測問題を取り扱っている.

第11章では,前半で展開された優調和事前分布の議論を量子系に拡張する最初の試みとして,ガウス状態族のなすモデル多様体の幾何学を調べている.その中で,スケール不変性がプランク定数のオーダーで破れることも示している

が,これは不確定性原理の情報幾何学的な表現と解釈できる.

第12章ではこれら一連の研究成果を今後の展望と共にまとめている.

以上を総合するに,本論文はベイズ予測理論に対する幾何学的アプローチを古典統計理論,量子統計理論の双方に応用し,統一的な観点から多くの貢献を与えており,数理情報学の分野の発展に大きく寄与するものである.

よって本論文は博士(情報理工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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