学位論文要旨



No 124557
著者(漢字) 長藤,圭介
著者(英字)
著者(カナ) ナガトウ,ケイスケ
標題(和) シュタルクアトムチップの設計・製作に関する研究
標題(洋)
報告番号 124557
報告番号 甲24557
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6991号
研究科 工学系研究科
専攻 産業機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中尾,政之
 東京大学 教授 光石,衛
 東京大学 教授 石原,直
 東京大学 准教授 香取,秀俊
 東北大学 教授 江刺,正喜
内容要旨 要旨を表示する

1970年代に原子のレーザー冷却が発明されて以来,冷却原子を用いた量子物理の基礎研究が盛んに行われてきた.中でもボーズ-アインシュタイン凝縮と呼ばれる巨視的凝縮体を実証した功績には,レーザー冷却技術と同様にノーベル物理学賞が与えられた.一方で,冷却原子を量子素子とした量子情報処理の研究が始まり,原子による量子コンピュータの実現に向けて,原子を固体基板上で操作する「アトムチップ」の開発研究が行われている.原子を基板上で操作するメリットは,量子効果が発現する遷移波長程度の原子の位置制御の可能性があること,微細化に伴い装置全体の小型化が可能であることが挙げられる.

アトムチップの主流はイオントラップと磁場トラップである.イオントラップは電荷をもつ原子と4重極電極とのクーロン力によりトラップする.磁場トラップはスピンをもつ中性原子と,チップ上にパターニングされたワイヤがつくる磁場との相互作用により基板上空でトラップするものである.いずれのアトムチップも,基板表面のつくる外乱に敏感で集積化に限界があるとされる.これに対し,香取らはスピンを持たない原子のトラップ方法として,ポテンシャルが電場の2乗に比例するシュタルクシフトを制御場としたシュタルクアトムチップを提案した.電極がつくる不均一電場を一定の周波数で切り換えることで,電極中心に動的にトラップするというものである.

本研究では,このシュタルクトラップを実証するためのシュタルクアトムチップの試作を行った.また,微細化・集積化を目指したアトムチップの構造および加工設計を行った.このチップの形態の初期のものとして,トラップサイトを1次元的に並べたラティスアトムチップを選び,その設計・加工方法を確立した.

シュタルクトラップ電極の基本形は,4つの電極が対称に配置されたものである.それぞれ+V/-V/GND/GNDに電圧を印加すると,その中心付近に鞍形のポテンシャル(シュタルクポテンシャル:U=-(1/2)α|E|2,α: 分極率, E: 電場)が形成される.これをある周波数で切り換えることで,中性原子を中心付近に動的にトラップする.分極率が正の場合z方向は調和ポテンシャルであるため,xy平面のポテンシャル切り換えは影響しない.イオントラップはイオンと電場とのクーロン力を,磁場トラップはスピンと磁場とのゼーマンシフトを用いている.それぞれ電場,磁場との1次の相互作用であるのに対してシュタルクトラップは電場と2次の相互作用であるため制御性は劣るが,外場からのノイズを受けにくい.よって電極微細化に伴って有利である可能性がある.

シュタルクトラップを実証するために,1S0状態の冷却(88)Sr原子を用いる.冷却原子のシュタルクトラップを行うためにはレーザー冷却・電極への輸送が大きな課題となる.(1)電極上空でMirror Magneto-Optical-Trap(Mirror-MOT)で冷却,(2)対向レーザーによりFar-off resonance lattice trap(FORT)輸送,(3)シュタルクトラップ,(4)再びFORTによりチップから引き戻し原子の有無を確認する.これらの手順から,シュタルクトラップチップの要求機能(FR: Functional Requirement)を抽出する.FR1: Mirror-MOTのための反射率,FR2: FORTのための電極中心透過率,FR3: 電場をつくるための金属が薄いこと(~100 nm,熱ノイズ減少のため),FR4: 電極加工精度,の4つとした.MOT→FORTが可能なシュタルク電極幅を50μmとした.また電極厚さは,適度なトラップ周波数特性をもつ100 μmとした.これらを満たす設計解として,(1) Focused ion beam(FIB)により厚さ100 μmのガラス基板中心に十字貫通加工する,(2) 基板を斜めにしながらAgスパッタにより上面および側面にミラーおよび電極を作製する,(3) FIBにより4電極間を絶縁しシュタルク電極を作製する,(4) FIBは加工レートが低いため,広範囲(□0.5 mmの外側)の電極絶縁は,紫外線レーザー加工を用いてAg薄膜をアブレーションすることで行う,(5) ARコーティングされたガラス基板に貼り付ける.このチップを真空ポートに超真空対応エポキシを用いて貼り付け,電極を取り出す.

実際に加工した電極は,加工側の幅が50 μmに,手前の幅が44 μmに仕上がっていた.これはFIBで貫通十字を加工する際に,奥行き方向にイオンビームのパワー密度が落ち,テーパになったと考えられる.この加工誤差を検証するためにFEMによる電場計算およびRunge-Kutta法を用いてトラップ効率の検証を行った.テーパになると,理想的な垂直電極に比べて,トラップ可能周波数域が高くなるが,下電極幅40 μmまで,ほとんど効率が変わらないことがわかった.ここでは省略するが,実際の実験による周波数特性は,このテーパの計算結果に良く合っていた.

このアトムチップを用いて香取研究室において実際に実験を行った.原子にプローブ光を当てた時点で,原子は加熱されるため,このイメージングは破壊測定である.この実験から,理論温度7 μKのSr原子の最大トラップ数(印加電圧:±200 V,駆動周波数: 6.4 kHz)が約100,ライフタイムが約80 msであることが分かった.

次の段階として,トラップサイトを1次元にアレイ化する「シュタルクラティスアトムチップ」の設計・製作を行った.隣同士の電極は,間の電極を兼ねて,互い違いに電圧をかける.電極間隔と電極幅を足したものが,トラップサイトのピッチとなる.前述した50 μm間隔のトラップでは,電圧は±200 Vと,比較的高電圧であった.今回実証するトラップでは,微細化し低電圧駆動を目指したサイズとする.そこで電極間隔を10 μm,電極高さ20 μm,駆動電圧は±32 Vでトラップチップと同様のトラップ深さのポテンシャルを生成する.電極幅は5 μmとし,トラップピッチは15 μmとなる.電極間隔が10 μmあるいはそれ以下になると,50 μmチップで用いたFORTレーザーを電極幅以下に絞る必要があり,結果Rayleigh長がMOT中心に届かなくなり使えない.そこで,Sr原子にスピンを持たせ(3P2)磁場により輸送する方法を用いる.(1) チップ上空でMOTを行う,(2) MOTにより集めた原子をレーザートラップ(レーザーピンセット)によりシュタルク電極上空へ輸送する,(3) チャンバ外のバイアスコイルによる磁場とチップ上のワイヤによる磁場によりシュタルクチップへ輸送,(4) 電場トラップ,(5) プローブ光を照射し磁場チップの裏から高NAで原子を観察する.ここで,50 μmチップのようにミラーの機能を設けると電極設計の制約条件が増えるため,ここではチップの斜め裏からMOT光を導入する手法を選んだ.これらの手法からチップの要求機能は,FR1: シュタルク電極の裏を光学的にフリーにする,FR2: チップ上空20 mmの位置にMOTが可能なチップサイズ,FR3: シュタルク電極に安定にプローブ光を照射できること,FR4: 電極加工精度,とした.最も困難な要求機能はFR1である.シュタルク電極の真下に設置する磁場チップのワイヤをU形にする.裏面からの光学観察および電流値10 A程度を実現するために,光学研磨されたサファイア(熱伝導率:~40 W/mμK)基板を用いる.また,シュタルク電極の真下を光学的にフリーにするため,今回はSilicon-on-Insulator (SOI)基板を用いたMEMSプロセスを採用する.FR2を満たすためにチップ幅は18 mmとした.FR3を満たすため,シュタルク電極の横に光ファイバを設置し,近接したファイバ先端から1S0-1P1遷移波長460 nmをプローブさせる方法を考えた.そこで電極中心に真っ直ぐプローブできるように,ファイバガイドをシュタルク電極作製プロセス中に同時作製する.

シュタルク電極のプロセスフローを示す.磁場輸送設計において,磁場チップに流せる電流値を10 A以下に設定したため,ワイヤからシュタルクトラップ電極までの高さを200μmとするために,SOIのハンドリング層を160μmになるようにバックポリッシュしている.光ファイバはクラッド径125μmのものを用いるため,シュタルク電極(デバイス層:20 μm)の中心に光ファイバの中心が来るように,ハンドリング層を52μm掘る.そのため,エッチング開始前に二重のマスクを作製しておく必要がある.なお,ハンドリング層のバックエッチングを行うため,裏面にAlマスクを裏面アライメントによるフォトリソにより作製しておく.シュタルク電極,ファイバガイド,バックエッチングはいずれもMEMSプロセスでは一般的なSi垂直深堀エッチング(Deep-RIE: Deep Reactive Ion Etching,or Bosch process)を用いた.磁場チップは,サファイア基板にAlをスパッタにより20μm成膜,フォトレジストをマスクとしてウェットエッチングによりAlワイヤをパターニングした.この磁場チップにシュタルク電極をTorr sealを用いて貼りつけ,真空に導入する長さ(10 cm程度)分の被覆を剥き先端を研磨した光ファイバをマイクロマニピュレータによってファイバガイドに取り付ける.

対称4電極のうち1電極が理想的な位置からずれた場合のトラップ効率の試算結果を行った.電極間隔に対して5%ずれるとトラップ効率が約半分になる.また10%遠ざかる方向にずれるとほとんどトラップできなくなる.シュタルクトラップチップでは50μmの電極間隔に対して1μm以内の誤差に入っていたため,理想的な寸法の電極によるトラップ効率を保っていたと言える.シュタルクラティスアトムチップでは電極間隔10μmに対して500 nm以内の誤差が目安となる.電極先端が丸まってしまった場合,電極間隔10μmに対して角のRが2.5μmになるまで効率が下がらないことが分かった.ラティス電極によるトラップでは,トラップサイトから見て電極の表面すなわち等電位面が非対称になる.そこで,設計した電極形状でトラップ可能か,計算により検証した.電極幅5μmを固定し,横方向(アレイ方向)の幅を変化させたところ,トラップ効率は幅10.5μm付近で最大値をとる.横方向に電極幅が狭いことでその面がつくる電場が弱くなるためだと考えられる.

次に,微細電極の試作を行った.Deep-RIE後の側面の平坦化に,熱酸化および酸化膜エッチングを用いた.ピッチ450 nmのラティスチップをD-RIEにより基本構造を作製した後,1気圧O2下1000℃, 30 minで酸化,BHFにより酸化膜エッチングを行った.SEM観察により側面のP-Vは約45 nmから10 nm以下に平坦化できた.

シュタルクアトムチップのトラップ実証電極の設計および製作を行い,実際にトラップできることがわかった.次の段階として,微細電極トラップのためのラティスアトムチップの設計・製作を行った.また加工誤差を考慮して電極形状に対するトラップ効率の試算を行い,実現可能性を確かめた.また,SiのDeep-RIE後の熱酸化および酸化膜エッチングにより側面の平坦化を試み,側面のP-V10 nm程度の平坦側面をもつピッチ450 nmのラティスチップの試作を行った.

本研究の一部は,日本学術振興会特別研究員(H18~H20)研究奨励費により行った.レーザー冷却原子を用いた実験は東京大学物理工学専攻香取研究室にて行われた.シュタルクラティスチップのMEMSプロセスの一部は,東京大学大規模集積回路設計教育センター(VDEC)の装置を用いて行った.

[1] K. Nagato, T. Ooi, T. Kishimoto, H. Hachisu, H. Katori, M. Nakao, "Design and prototyping of stark atom chip for electric trapping of laser-cooled atoms", Precision Eng. 30 (2006) 387.[2] T. Kishimoto, H. Hachisu, J. Fujiki, K. Nagato, M. Yasuda, H. Katori, "Electrodynamic trapping of spinless neutral atoms with an atom chip", Phys. Rev. Lett. 96 (2006) 123001.
審査要旨 要旨を表示する

本研究はシュタルクアトムチップの設計および製作に関する研究をまとめたものである.

第1章では,レーザ冷却原子を電極チップ上でマニピュレーションするアトムチップの背景を,第2章では,シュタルクアトムチップの基本理論を中心に述べると共にシュタルクアトムチップの有用性と必要性を述べた.レーザ冷却された原子は,自由空間中で原子そのものを冷却し,長時間のコヒーレント状態を実現できるため,量子情報処理の量子素子として期待されている.ただし,個々の原子を位置制御するには,微細電極上でマニピュレーションすることが必要とされるので,アトムチップと称された微小空間を作成したツールが研究開発されている.従来のアトムチップは,イオンと電場とのクーロン力を制御ツールとしたイオントラップと,スピンをもつ原子と磁場とのゼーマンシフトを制御ツールとした磁場アトムチップの2種類である.ところが,いずれのアトムチップも原子と場の相互作用が場の強さの1次に比例して大きいため外乱に弱いだけでなく,将来,単一原子のマニピュレーションを微細な電極を作って制御しようとする際,電極熱表面の熱ノイズが原子に及ぼす影響が大きく,コヒーレント時間が短くなり集積化の面で問題があった.それに対して,シュタルクトラップは,スピンをもたない中性原子に対して,電気双極子モーメントと電場とのシュタルクシフトを制御ツールとしたもので,相互作用は場の強さの2次に比例するため外乱に原理的に強い.また電場で制御するので,電流が小さく,熱ノイズも小さい.よって将来,原子の波動関数が重なり合うサブミクロンの位置制御を行う際には,イオントラップや磁場トラップに対して有利である.

シュタルクアトムチップの基本構造は,ある平面内に存在する4つの対称電極である.この4電極に+,-,GND,GNDの電圧を印加するとシュタルクポテンシャルの分布は,4対称電極の中心にした鞍形の形状になる.この電圧をある周波数で切り換えることで,電極中心に動的に原子をトラップできる.本研究ではこの原理確認を行うための「シュタルクトラップアトムチップ」と,トラップ位置をアレイ配置した「シュタルクラティスアトムチップ」の実験手順から要求機能抽出からはじめて構造を設計し,実際に製作した.また,加工誤差に対するトラップ効率を試算し,量子情報処理に向けたサブミクロンサイズの電極を作製した.

第3章では,シュタルクアトムチップ上でトラップすることを実証するためのアトムチップの設計・製作について述べた.シュタルクトラップアトムチップの実験手順は下記のとおりである.(1)アトムチップの面をミラーとして用い,レーザ冷却・捕獲する(Mirror Magneto-Optical Trap; Mirror-MOT), (2)冷却された原子雲をチップの上面および裏面から導入したレーザで形成される光格子でトラップし,上面からのレーザ周波数を変調することでチップ電極内に原子をロードする, (3)シュタルクトラップ,(4)光格子により再び原子を引き戻し,チップ裏面に設置したレンズによりその場で原子を観察する.これらを満たす設計解として,(1) Focused Ion Beam(FIB)により厚さ100μmのガラス基板中心に幅50μmの溝をつくるように十字貫通加工する,(2) 基板を斜めにしながらAgスパッタ(膜厚100nm)でミラーおよび電極を作製する,(3) FIBでエッチングして4電極間を絶縁する,(4) 広範囲(□0.5 mmの外側)の電極絶縁は,紫外線レーザ加工を用いてAg薄膜をアブレーションする.最後に反射防止コーティングされたガラス基板に貼り付け,さらに真空ポートに超真空対応エポキシを用いて貼り付け,電極から配線を取り出す.このアトムチップを用いて香取研究室において実際に実験を行った.この実験から,理論温度7 μKのSr原子の最大トラップ数(印加電圧:±200 V,駆動周波数: 6.4 kHz)は約100,ライフタイムは約80 msであることが分かった.

第4章では,トラップサイトを1次元にアレイ配置するシュタルクラティスアトムチップの設計・製作を行った.隣同士の電極は,間の電極を兼ねて,互い違いに電圧をかける.このチップでは, Sr原子にスピンを持たせ,磁場によってアトムを輸送する.また,サファイヤ基板やSilicon-on-Insulator (SOI)基板を用いてMEMSプロセスでチップを作成する.さらに原子を観察するため,光ファイバをマイクロマニピュレータによってアトムチップに掘った深いガイド溝内に取り付けた.次に,シュタルク電極の加工誤差がトラップ効率にどう影響するのかを試算した.その結果,電極間隔の設計値に対して5%ずれるとトラップ効率が約半分になり,10%遠ざかる方向にずれるとほとんどトラップできなくなる結果が得られた.また,加工の欠陥を評価するために,電極間隔10 μmに対して角のRが2.5μmになるまで効率が下がらないことが分かった.さらにラティス電極によるトラップでは,相対する電極間の幅10 μmに対し,それと直角のアレイ方向,つまり原子を順送りさせたい方向の電極間の幅を変化させたところ,トラップ効率はわずかに非対称の10.5μm付近で最大値をとることがわかった.このように各パラメータをふって計算することで,最適形状を設計できた.

第5章では,シュタルクラティスアトムチップ微細電極の試作結果を述べる.たとえばピッチ450 nmと非常に細くしたラティスをD-RIEで基本構造を作製した後,1気圧O2下1000℃,30 minで酸化,BHFにより酸化膜エッチングを行った.SEM観察により側面の面粗さは約45 nmから10 nm以下に平坦化できた.なお,このラティスチップは設計通りに磁場によるアトム駆動が実現せず,論文提出の時点では動かなかった.

第6章では,本研究の結論を述べた.シュタルクアトムチップのトラップ実証電極の設計および製作を行い,実際にトラップできることがわかった.次の段階として,シュタルクラティスアトムチップの設計・製作を行い,シミュレーションで形状の最適化を行った.

本論文は工学的に非常に有用であり,よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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