学位論文要旨



No 129498
著者(漢字) 松本,佳彦
著者(英字)
著者(カナ) マツモト,ヨシヒコ
標題(和) 漸近的複素双曲アインシュタイン計量とCR幾何学
標題(洋) Asymptotically complex hyperbolic Einstein metrics and CR geometry
報告番号 129498
報告番号 甲29498
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(数理科学)
学位記番号 博数理第413号
研究科 数理科学研究科
専攻 数理科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平地,健吾
 東京大学 教授 野口,潤次郎
 東京大学 教授 二木,昭人
 東京大学 教授 高山,茂晴
 東京大学 准教授 今野,宏
内容要旨 要旨を表示する

本論文では,漸近的複素双曲計量(ACH計量)について,無限遠境界におけるEinstein方程式の漸近解を決定する.また,この漸近解に基づき,一般の非退化なpartially integrable CR 多様体に対し,CRオブストラクション・テンソルσ(αβ)と全CRQ曲率Qを構成する.前者は局所CR不変量,後者は大域的なCR不変量である.さらに,σ(αβ)が,実はpartially integrable CR構造の変形に関するQの変分として現れることを明らかにする.

CR不変性をもつ対象を構成するためにEinstein方程式を考察するというアイディアは,Feffermanによるものである.Feffermanは,複素Euclid空間Cn+1の有界強擬凸領域における複素Monge-Ampere方程式のゼロ境界値問題を取り扱い,その漸近解の低次の項を任意の境界定義関数を用いて容易に表示できることを発見した.よく知られているように,複素Monge-Ampere方程式とはKahler-Einstein計量のポテンシャル関数に対する方程式である.このゼロ境界値問題については,真の解がただひとつ存在することがCheng-Yauによって示されており,またその解が一般には対数項を含む漸近展開を持つことがLee-Melroseにより知られている.Feffermanの仕事に続いてGrahamは,Lee-Melroseの漸近展開について,境界定義関数から局所的に定まる部分とそうでない部分を完全に決定した.以上の議論のひとつの応用が,有界強擬凸領域のBergman核の対角線への制限B(z,z)に関する,境界における漸近展開の特異性の記述である(Fefferman,Bailey-Eastwood-Graham,平地).

現在ACH計量と呼ばれているものを初めて考察したのはEpstein-Melrose-Mendozaであった.彼らが目的としたのは有界強擬凸領域のBergman計量の定めるラプラシアンのレゾルヴェントの研究であるが,その際に重要だったBergman計量の性質は,その境界における特異性がある意味でコントロールされており,特異性の主要部が境界のCR構造を復元することである.主要部を除く高次の項は問題にはならず,Epstein-Melrose-Mendozaの議論はより広いクラスの計量に適用される.このクラスに属する計量がACH計量である.具体的なACH計量の定義の細部についてはこれを取り扱う論文ごとに違いがみられるが,Epstein-Melrose-Mendozaは,まず境界付き実多様体に対するΘ構造の概念を定義し,それに付随して定められるΘ接バンドルと呼ばれる実ベクトルバンドルのファイバー計量に対して,それがACH計量となるための条件を定式化している.本論文で採用するのもこの定義である.一般に,滑らかな境界をもつ複素多様体は,自然なΘ構造を備えている.Bergman計量と同様のタイプのKahler計量はこのΘ構造に関するACH計量とみなすことができ,また,境界上の自然なCR構造を誘導する.

Kahler計量ではなくACH計量を考えることの利点のひとつが,境界上のCR構造として,古典的な可積分CR構造だけではなく,partially integrableなCR構造をも考えられるようになることである.2n+1次元可微分多様体M上の概CR構造T(1,0)Mがpartially integrableであるとは,

[C∞(M,T(1,0)M),C∞(M,T(1,0)M)]⊂C∞(M,T(1,0)M⊕T(1,0)M)

を満たすことをいう.可積分CR構造は放物幾何という名前で近年研究されている一群の幾何構造に属するが,partially integrableなCR構造は,その範囲内での可積分CR構造の拡張になっている.「実超曲面に可積分でないpartially integrable CR構造が自然に定まる」という幾何的状況は,(無限遠境界として実超曲面が現れるACH計量の場合を除き)知られていないが,可積分でないpartially integrable CR構造の例は,可積分なCR構造を変形することによって容易に,たくさん得られる.そして本論文におけるCRQ曲率の研究は,partially integrable CR構造が,少なくとも,可積分なCR構造の変形として重要であることを示唆している.

本論文は4つの章からなる.第1章は,背景および概要,主定理の説明である.第2章において,partially integrable CR構造,境界付き多様体のΘ構造とACH計量,Bergmanタイプの計量のACH計量としての解釈について,以下の議論で必要となる基礎的事項を準備する.第6節から始まる第3章で,まずACH計量に対するEinstein方程式の近似解の構成を与える次の定理を証明する(定理2.3).

定理.(X,[Θ])を2n+2次元Θ多様体,T(1,0)Mをそれに適合する境界M=∂X上のpartially integrableCR構造とする.滑らかな境界定義関数p∈C∞(X)を任意にとる.そのとき,C∞級のevenなACH計量gで,T(1,0)Mを誘導し,そのRicciテンソルおよびスカラー曲率が

Ric=-1/2(n+2)g+O(ρ(2n+2)),Scal=-(n+1)(n+2)g+O(ρ(2n+4)) (†)

を満たすようなものが存在する(ただし,第1式におけるO(p2n+2)は,Θテンソルとしてのオーダーを示している).そのようなgは,Xの境界の各点を固定するΘ微分同相写像の作用を除き,O(ρ(2n+2))かつトレースがO(ρ(2n+4))であるようなΘテンソルを法として一意的である.

ACH計量に対してはポテンシャル関数の概念はないので,証明は直接的である.すなわち,計量テンソルに対するEinstein方程式をそのままの形で考えて,境界定義関数pに関するTaylor展開の係数を逐次的に決定することにより行われる.Einstein方程式には微分同相不変性があるため,ACH計量に正規形の概念を導入することになるが,こうして得られる正規形ACH計量に対する方程式は過剰決定系である.この方程式に解が存在するのは,Ricciテンソルの成分のあいだに存在するBianchiの恒等式のためであることが,証明の中で明らかになる.

C∞級の解の存在に対する障害が,(†)に現れるオーダーで,テンソルの形で生じる.これはSym2(T1,0M)*のセクションであり,その構成から,適切な重みをつければ境界のCR構造のみに依存する量になることがわかる.これをσ(αβ)と書き,CRオブストラクション・テンソルと呼ぶ.σ(αβ)が現れるオーダーは,有界強擬凸領域上の複素Monge-Ampere方程式に対する同様の障害が現れるオーダーよりも早い.すなわち,可積分CR構造に対しては常にσ(αβ)=0である(定理2.8).第7節で,σ(αβ)の持つ性質がさらに詳しく議論される.

第8節では,ACH計量の漸近展開に対数項を許した場合を調べる.このときEinstein方程式が無限次のオーダーで成立するような計量を構成するためには,境界M上で,ある偏微分方程式を解く必要があることがわかる.この方程式が一般に大域的な解を持つか否かはわからないが,Cauchy-Kovalevskayaの定理によれぼ,M上の任意に与えられた1点において形式的冪級数解が存在する.このことから次の定理が従う(定理2.11).

定理.(X,[Θ],T(1,0)Mを先の定理と同じものとする.そのとき,任意の点ρ∈Mについて,対数特異性を持つACH計量であって,Ricciテンソルの境界における漸近展開が点pにおいて無限次のオーダーで@@に等しいようなものが存在する.

続く第4章では,まず第9節で,一般のC∞級ACH計量gについて,ラプラシアンΔgに関するあるDirichlet問題を考察する.これに関連してM上の微分作用素Pκを得る(定理2.13).定理.(X,[Θ])を2n+2次元Θ多様体とし,gをevenなC∞級ACH計量とする.このgが誘導するpartially integrable CR構造をT1,0Mとし,接触形式θを固定して,pをθに対する任意の許容境界定義関数とする.さらに,κを正の整数とする.そのとき,任意の実数値関数f∈C∞(M)に対して,

(Δg-1/4((n+1)2-κ2))u=O(ρ∞)

の解であって

u=ρ(n+1-κ)F+ρ(n+1+κ)logρ・G,F,G∈C∞(X),F|∂X=f

を満たすものが存在する.FはO(p(2κ))を法として,GはO(ρ∞)を法として,それぞれ一意的である.さらに,gとθから定まる微分作用素Pκであって,Gの境界値を与えるようなものが存在する:

G|M=-2ckPkf,cκ=(-1)k/k!(k-1)!

微分作用素Pκの主シンボルは,サブラプラシアンのκ乗Δκbのそれに一致する.

この定理で得られるPκのうち,最も重要なのはP(n+1)である.容易にわかるようにこの作用素はP(n+1)1=0という性質を持ち,その性質に基づいて,M上の関数Qが得られる.Qの定義は第9節で証明される事実に基づく形で第2.4節に与えられている.

以上の構成が,第10節で(†)の解となっているようなACH計量gに適用される.計量gそのものは境界のpartially integrable CR構造T(1,0)Mのみからでは完全には決まらないが,その任意1生が第9節の構成に及ぼす影響を調べることにより,次の定理が得られる(定理2.16).

定理.(X,[Θ])を2n+2次元Θ多様体とし,gを(†)を満たすevenなC∞級ACH計量とする.そのとき,κ≦n+1に対する微分作用素Pκ,および関数Qは,境界のpartially integrable CR構造T1,0Mと接触形式θのみから定まる.

この定理で得られる関数QをCRQ曲率と呼ぶ.Q自体は接触形式θに依存して定まる量だが,Mがコンパクトな場合,θΛ(dθ)nに関するその積分Qはθの取り方には依存しない.これが全CRQ曲率である.

定理.(M,T(1,0)M)を2n+1次元のコンパクトな非退化partially integrable CR多様体とし,T(1,0)tを,t=0においてT(1,0)Mを通るような,一定の接触分布上のpartially integrable CR構造の族,ψαβそのt=0における微分とする.そのとき,各T(1,0)tに対する全CRQ曲率のt=0における微分は,T(1,0)MのCRオブストラクション・テンソルσ(αβ)を用いて次式で与えられる:

(d/dt Qt)|(t=0) = 8.(-1)n・n!(n+1)!/n+2 ∫M Re(σ(αβ)ψ(αβ)).

審査要旨 要旨を表示する

この博士論文は部分可積分CR 多様体に付随するアインシュタイン計量についての重要な研究結果を含んでいる.

CR 多様体は複素領域の境界の抽象化として導入された概念であり,これまで複素構造およびCR 構造の可積分性の仮定のもとで詳しい解析が行われてきた.とくに重要な結果としては強擬凸複素領域には完備アインシュタイン・ケーラー計量がただ一つ存在するというCheng{Yau の定理がある.一方,近年の放物型幾何学ではCR 多様体はより弱いというCheng{Yau の定理がある.一方,近年の放物型幾何学ではCR 多様体はより弱いこでこの博士論文では部分可積分性の仮定のもとでCR 多様体に付随する漸近的複素双曲(ACH) アインシュタイン計量の構成を行った.アインシュタイン・ケーラー計量の構成はポテンシャル函数に対する単一の方程式に帰着されるが,ACH 計量ではアインシュタイン方程式とビアンキ恒等式をシステムとして解析する必要がある.この方程式系の摂動解析により,次の2つの結果を得ている:

(1) 滑らかなACH アインシュタイン計量が存在するための必要十分条件は一つの対称2テンソル(障害テンソル)の消滅で与えられる.

(2) 対数的な特異性をもつACH アインシュタイン計量が常に存在する.

可積分CR 多様体では障害テンソルが消えるため,付随するACH アインシュタイン計量は常に滑らかであり,一般には前述の完備アインシュタイン・ケーラー計量とは異なることが分かる.先行する結果としてBiquard 氏の函数解析的手法によるACH アインシュタイン計量の存在定理があるが,計量の完全な漸近展開と障害テンソルを決定している点で本論文はより精密であり,微分幾何への応用には必要不可欠な基本定理を与えている.

論文の後半ではACH アインシュタイン計量を用いたCR 多様体の不変量の構成を行っている.ACH 計量に対する散乱理論の帰結として無限遠境界であるCR 多様体の大域的不変量である全Q 曲率が定義される.特異性をもつACH アインシュタイン計量を用いる事により全Q 曲率のCR 構造の変形に関する変分公式を障害テンソルを用いて記述している.これまでの可積分CR 多様体の解析では全Q 曲率が消えない例は知られておらず,また可積分なCR 構造の変形に関しては全Q 曲率が不変であることが知られていた.部分可積分CR 構造を考えることにより,初めて全Q 曲率が非自明である例を与えることに成功した.

以上の結果はCR 幾何学の放物型幾何学としての研究に新しい視点を与えるものであり、今後の発展が多いに期待できる。よって論文提出者松本佳彦は博士(数理科学)の学位を受けるにふさわしい充分な資格があると認める。

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