学位論文要旨



No 215532
著者(漢字) 相馬,正宜
著者(英字)
著者(カナ) ソウマ,マサキ
標題(和) 量子ガウス状態を用いた古典情報の伝送
標題(洋) Transmission of Classical Information with Quantum Gaussian States
報告番号 215532
報告番号 乙15532
学位授与日 2003.01.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(数理科学)
学位記番号 第15532号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 時弘,哲治
 東京大学 教授 山田,道夫
 東京大学 教授 楠岡,成雄
 東京大学 教授 薩摩,順吉
 東京大学 助教授 吉田,朋広
 電気通信大学 助教授 長岡,浩司
内容要旨 要旨を表示する

 この論文では、量子ガウス状態を用いた通信の限界性能について論じる。

 量子ガウス状態を用いた通信は、レーザの発明を背景に、1960〜1980年代にかけてGordon, Stoler, Yuen, Helstromらによって研究された。彼らは、光子数測定、ヘテロダイン測定、ホモダイン測定などの標準測定によって達成される通信性能を、Shanonnの通信路符号化定理に基づいて評価した。

 これに対し、本論文ではすべての「量子測定」の可能性を考慮する場合に達成可能な通信性能の限界を量子通信路符号化定理に基づき求める。Shannonの通信路符号化定理と量子通信路符号化定理の違いは、前者が符号化/復号化のプロセスと信号の物理現象をまったく切り離して定式化されているのに対し、後者は量子測定過程も復号化のプロセスに含めている点にある。特に、後者では量子力学的な相互作用を利用した復号化も考慮される。

 本論文では、通信性能を評価する情報量として通信容量と信頼性関数を考える。量子通信路符号化の場合、これらの量は非可換な作用素を用いて定義されており、その計算は一般には困難である。そのため本研究以前には、計算が容易な以下の2つの場合に結果が知られていただけであった。

 ・熱雑音の影響を受けたコヒーレント状態(混合状態)に対する通信容量

 ・コヒーレント状態に対する信頼性関数のexpurgated bound

 これ以外の一般の量子ガウス状態に対して情報量を計算するためには、量子ガウス状態の基本公式(べき乗公式、積公式、フィデリティ公式など)を新たに確立する必要がある。本論文ではこれらの公式をマルチモードの場合も含めた一般の量子ガウス状態に対して求める(Chapter3)。この際、量子ガウス状態は量子特性関数によって定義され、平均ベクトルmと共分散行列αによって特徴付けられる。以下に、べき乗公式とフィデリティ公式を示す。

量子ガウス状態のべき乗公式

 任意のs>0に対して、平均m、共分散行列αを持つ量子ガウス状態のべき乗の量子特性関数は以下のとおりである。

 ここで、Ns,gsは以下によって与えられる。

 ただし、〓であり、abs(・)は対角化可能行列M=Pdiag(aj)P-1に対してabs(M)=Pdiag(|aj|)P-1として定義される。

量子ガウス状態のフィデリティ公式

 平均m1,m2と共通の共分散行列αを持つ密度作用素ρm1,ρm2に対するフィデリティは以下のとおりである。

 これらの基本公式をもとに以下の結果を得ることができる(Chapter4)。

 A.一般のシングルモード量子ガウス状態に対する通信容量の公式

 B.一般のシングルモード量子ガウス状態に対する量子Gallager関数の公式

 C.熱雑音の影響を受けたコヒーレント状態(混合状態)に対する信頼性関数のexpurgated bound

 D.スクイズド状態に対する信頼性関数の下界

 E.一般のシングルモード量子ガウス状態に対するzero rate exponentsの上界と下界

 ここで、上記の結果の意味を明確にするために通信容量と信頼性関数の説明をしよう。通信容量は「誤り無く情報を伝送することができる通信速度の限界値」を示す情報量であり以下のように与えられる。

 ここでH(ρ)=-Trρlogρはvon Neumann entropy、P1は∫f(x)π(dx)≦Eを満たす確率測度πの集合、ρmは伝送に使われる量子状態の密度作用素をそれぞれあらわしている。結果Aでは、ρmが平均mの量子ガウス状態の場合に通信容量の公式が与えられた。

 信頼性関数は「通信容量より小さい通信速度Rにおいて符号長nを無限大にするときに誤り確率が0に収束する速度」をあらわしている。信頼性関数は直接求めることが困難であり、その下界や上界によって評価される。下界としては以下に示すrandom coding bound Er(R)とexpurgated bound Eex(R)が知られている。

 ・random coding bound

 ただし、ρmが混合状態の場合のrandom coding boundはまだ証明されていない。

 ・expurgated bound

 ここでμ(π,s,p)とμ(π,s,p)は量子Gallager関数と呼ばれる。上記の結果Bではρmが平均mの量子ガウス状態の場合にこれらの関数の公式が与えられた。信頼性関数の下界を求めるためには更に(6)、(7)に与えられている最適化問題を解く必要があるが、本論文では上記C,Dの結果が得られている。なおrandom coding boundはコヒーレント状態に対してすら解析解を求めることができないことが知られている。一般の量子ガウス状態に対して信頼性関数の下界を求めるためには結果Bを用いて数値解析を行う必要があるが、これについては未検討である。

 通信速度をR→+0とする時の信頼性関数の値E(+0)はzero rate exponentsと呼ばる。量子通信路符号化の場合、信頼性関数の有効な上界はまだ知られていないが、唯一量子ガウス状態に対するzero rate exponentsの上界は求めることができる。その証明がEで与えられる。なお、Eで与えられた上界と下界は純粋状態の場合一致する。

 この論文のもう一つの目標は、Yuen, Helstromらによる量子状態選択の問題と、Gordonによる2元離散化の問題を量子通信路符号化定理に基づいてとらえなおすことである。Chapter5では量子状態選択の問題を扱う。すなわち、伝送中に信号の減衰と熱雑音の影響を受ける場合に、伝送媒体として最適な量子ガウス状態を求める。なおこの場合の評価は(信号のエネルギー)+(スクイジングのエネルギー)が一定であるという条件の下で行われる。その結果以下の事実が明らかになる。

 ・スクイズド状態を用いるとコヒーレント状態を用いた場合と比べて通信容量が減少する。ただし、信号の減衰も熱雑音の影響もない理想的な場合、スクイジングの度合いがある範囲を超えなければ、スクイズド状態を用いても通信容量は変化しない。

 ・状態の複素振幅の実成分だけに情報をのせる場合、スクイズド状態をもちいることにより、通信容量は増加する。

 ・スクイズド状態を使うことにより、低レートの信頼性関数の値は常に増加する。

 Chapter6では、「binary quantum counterが微弱な光の持つすべての情報を引き出すことができる」というGordonの主張に基づき、量子通信路符号化における2元離散化の問題を定式化し、通信容量と信頼性関数に関してGordonの主張を検証する。ここで、2元離散化とは、量子通信路符号化で使われる量子状態(letter state)の数を2つに制限することを意味する。我々は理想的な通信路を使って純粋ガウス状態を送る場合を考え、2元離散化に基づく通信容量と2元離散化の制限を受けない通信容量を比較する。また同様の比較をzero rate exponentsに関しても行う。この結果以下のことがわかる。

 ・信号のエネルギーが十分小さければ、最適な2元離散化による通信容量は制限なしの通信容量とほぼ一致する。

 ・最適な2元離散化によるzero rate exponentsは制限なしの場合の値と常に一致する。

 今後、新しい光通信システムのための具体的な符号化方式、量子測定の研究が必要となる。特に量子測定はPOVM(positive operator valued measurement)によって数学的に定義されているものの、その物理的な実現方法は未解決である。本論文はこうした研究によって実現される通信の限界性能を予め求め、伝送媒体として用いる量子ガウス状態と限界性能との関係を明らかにするものであり、システム実現に向けた最も基礎的な検討を与えている。

審査要旨 要旨を表示する

 量子力学的通信路を通して(古典的)情報を伝送する際の通信速度と信頼性に関する達成限界を求めることは、量子情報理論における最も基本的な問題の一つである。この分野は近年急速な発展を遂げ、こうした問題に関する種々の一般的定理が得られるようになった。しかし、これらの定理を具体的な通信路に適用した場合、そこから物理的・工学的に有用な知見を得ることは必ずしも容易ではない。相馬氏の仕事は、量子ガウス状態を用いた量子通信系についてこれを実行したものである。量子ガウス状態は古典確率論の正規分布に相当する重要な量子状態族であり、コヒーレント状態、スクィーズド状態、熱平衡状態などを特殊な場合として含んでいる。

 氏はまず、量子特性関数(非可換フーリエ変換)の性質を巧みに利用して、量子ガウス状態の基本公式(べき乗公式、積公式、フィデリティ公式など)を導き、量子ガウス状態に関する種々の情報量の具体的な表現を得た。続いて、これらの表現をいくつかの代表的な量子通信系に適用し、伝送に用いる状態や通信路のパラメータを変化させたときの様子を詳しく解析した。特に、(1)一般のシングルモード量子ガウス状態に対する通信容量の公式、(2)一般のシングルモード量子ガウス状態に対する量子Gallager関数公式、(3)熱雑音の影響を受けたコヒーレント状態(混合状態)に対する信頼性関数のexpurgated bound、(4)スクィーズド状態に対する信頼性関数の下界、(5)一般のシングルモード量子ガウス状態に対するzero rate exponentsの上界と下界、を求めた。

 次に、氏は量子状態選択の問題(伝送中の信号の減衰と熱雑音の影響を受ける場合に伝送媒体として最適な量子ガウス状態を決定すること)、および2元離散化の問題(量子通信路符号化で使われる量子状態を2つに制限した場合の通信容量とその制限が存在しない場合の通信容量との比較)を量子通信符号化定理に基づいてとらえなおした。その結果、スクィーズド状態に対して、(1)高雑音域での通信容量の減少、(2)状態の複素振幅の実成分を用いた場合の通信容量の増大、(3)低レートの信頼関数値の増加、などを証明した。また、最適な2元離散化による通信容量が、(1)信号エネルギーが十分小さければ、制限のない通信容量とほぼ一致する、(2)zero rate exponentsは制限なしの場合の値と常に一致する、などを示し、スクィーズド状態の利用や2元離散化などがどのような場合に有効になるかを明らかにした。これらの問題は量子通信の実用化を考える上で大変重要であり、そこに厳密な情報理論的知見をもたらしたことの意義は大きい。

 論文全体を通して、複雑な計算を実行して明解な結果を得る計算力、古典および量子情報理論の理論的成果に精通し、それを使いこなす数理科学的な能力、実際の量子通信系で何が重要となるかを見極める工学的センスなどが随所に見て取れる。また、それらを総合して一つのテーマへ収束させた構想力も評価できる。論文の記述も読みやすく、よくまとまっている。よって、論文提出者相馬正宜は、博士(数理科学)の学位を受けるにふさわしい充分な資格があると認める。

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